反乱へのカウント・ダウン② ~曹操と鲍信、汴水の戦い。そして決別~
盟友・鲍信と曹操との出会いから、
反董卓連合軍、二人の戦い。
【曹操の挙兵】
董卓の手から逃れ、洛陽の都から親友の張邈が太守として務める陳留郡へと
避難してきた曹操だったが、
彼はその親友の助けを借りて、反董卓連合軍の一員として加わり、
兵を挙げた。
※(『三国志 武帝紀』)より、
「卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。
冬十二月,始起兵於己吾,是歲中平六年也。
世語曰:陳留孝廉衛茲以家財資太祖,使起兵,眾有五千人。」
(董卓が太后及び弘農王を殺害した。
太祖(曹操)は兗州陳留郡に至り、家財を散じ、義兵に加わって、
まさに董卓を誅伐しようとした。
冬12月、始めて陳留郡己吾県において起兵した。
この年は中平六年(189年)だった。
世語に曰く:陳留郡の孝廉の衛茲は家財を支援して太祖(曹操)を助け、
兵を起こさせた。軍は5千人も有った。)
「初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、
豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、河內太守王匡、勃海太守袁紹、
陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、濟北相鮑信、
同時俱起兵,眾各數萬,推紹為盟主。
太祖行奮武將軍。」
(初平元年(190年)春正月、後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、
豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、
陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信らが、
共に同時に起兵した。各々数万の軍隊で、袁紹を推薦して盟主と為し、
太祖(曹操)は奮武將軍を兼務(行)した。)
特に陳留郡孝廉の衛兹などは曹操と一目会うや、たちまちに意気投合し、
曹操の熱烈な信奉者となった。
しかしそんなことも実は衛兹だけでなく、
この反董卓連合軍への参加のため、陳留郡の酸棗県へと
集まった諸侯の中に、
やはり衛兹と同様、曹操と直接会って話をして、
たちどころに彼の盟友となった一人の名士がいた。
それが、鲍信という人物。
彼も凡庸な人物などではなく、
世に儒雅で名声が高く、寛大で大きな節義を持ち、
また沈毅にして智謀にも秀でていた。
鲍信は曹操と会って以降は彼と行動を共にするようになり、
そして後に曹操が袁紹によって兗州東郡太守に任命されると、
鮑信は同じ兗州の済北国の相に任命され、
そして192年(初平三年)に発生した青州黄巾賊の兗州大乱入の際にも、
曹操と一緒に賊軍の撃退に努め、そしてその激戦の中に命を落すまで、
鮑信はずっと曹操の側近くにいて、
いつも一緒に二人三脚のようにして互いに協力し、
助け合って激動の時代を生き抜いていくのだった。
※(『三国志 鲍勳伝』注、「魏書」)
「魏书曰:信父丹,官至少府侍中,世以儒雅显。
少有大节,宽厚爱人,沈毅有谋。
大将军何进辟拜骑都尉,遣归募兵,得千馀人,还到成皋而进已遇害。
信至京师,董卓亦始到。
信知卓必为乱,劝袁绍袭卓,绍畏卓不敢发。语在绍传。
信乃引军还乡里,收徒众二万,骑七百,辎重五千馀乘。
是岁,太祖始起兵於己吾,信与弟韬以兵应太祖。
太祖与袁绍表信行破虏将军,韬裨将军。时绍众最盛,豪杰多向之。
信独谓太祖曰:“夫略不世出,能总英雄以拨乱反正者,君也。
苟非其人,虽强必毙。君殆天之所启!”遂深自结纳,太祖亦亲异焉。
汴水之败,信被疮,韬在陈战亡。
(「魏書」に曰く:鲍信の父の鲍丹は、少府侍中まで官位が昇り、
世に儒学で雅な名声が高かった。
鲍信は若くして大きな節度を持ち、寛大で人を愛し、沈毅にして智謀があった。
大将軍の何進から辟召を受けて騎都尉を拝すと、募兵のために帰郷を命じられ、
そこで千余人を得たが、成皋まで至ったころには既に殺害されてしまっていた。
鲍信が都まで到着したときには、董卓もやってきていた。
鲍信は董卓が必ず乱を為すに違いないと、袁紹に董卓を襲撃するように進めた。
しかし袁紹は董卓を畏れ、思い切って行動を起こそうとはしなかった。
そのことは「袁紹伝」に語られている。
鲍信は軍勢を引き連れて郷里へと還ると、さらに二万人の歩兵と、騎兵七百、
輜重5千余乗を集めた。
この歳[岁]、太祖(曹操)は始めて己吾において起兵し、
鲍信は弟の鲍韜と集めた兵を以って太祖(曹操)に呼応した。
太祖(曹操)は袁紹と、鲍信を行破慮将軍に、
弟の鲍韜を裨将軍に任命するよう上表した。
当時、袁紹の軍勢が最盛で、豪傑たちは彼になびく者が多かった。
鲍信は一人、太祖(曹操)に向かって言った:“そもそも不世出の知略を持ち、
よく英雄たちを総べ、撥乱反正できる者は、君だろう。
いやしくもそういった人物でなければ、強者といえども必ず倒れる。
君こそが天のお導きになった者に違いない!”と。
鲍信は自ら進んで深く曹操と交わりを結び、太祖(曹操)もまた鲍信と親しみ、
彼を異と評価した。)」
【汴水の戦い】
最初に張邈と張超の兄弟、そして臧洪らによって立ち上げられた
反董卓連合軍結成の動きは、やがて大きな成長を遂げ、
四世三公の名門、袁紹・袁術兄弟を始め、
冀州牧の韓馥、河内太守の王匡、
豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、勃海太守の袁紹、
陳留太守の張邈、広陵太守の張超、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、
濟北相の鮑信、
長沙太守の孫堅など・・・、
そうそうたる面々がそれぞれ数万の軍勢を持ち寄り、
190年(初平元年)春正月、袁紹を盟主に一斉に蜂起するという、
大運動にまで発展を遂げた。
※(『三国志 武帝紀』)
「卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。
冬十二月,始起兵於己吾,是歲中平六年也。
世語曰:陳留孝廉衛茲以家財資太祖,使起兵,眾有五千人。」
(董卓が太后及び弘農王を殺害した。太祖(曹操)は兗州陳留郡に至り、
家財を散じ、義兵に加わって、まさに董卓を誅伐しようとした。
冬12月、始めて陳留郡己吾県において起兵した。
この年は中平六年(189年)だった。
世語に曰く:陳留郡の孝廉の衛茲は家財を支援して太祖(曹操)を助け、
兵を起こさせた。軍は5千人も有った。)
「初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、
豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、河內太守王匡、勃海太守袁紹、
陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、濟北相鮑信、
同時俱起兵,眾各數萬,推紹為盟主。
太祖行奮武將軍。」
(初平元年(190年)春正月、後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、
豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、
陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信らが、
共に同時に起兵した。各々数万の軍隊で、袁紹を推薦して盟主と為し、
太祖(曹操)は奮武將軍を兼務(行)した。)
しかし曹操はこのとき領主の肩書きを持たなかったため、
自称の奮武将軍として、5千人ばかりの兵を集め、
立場としては親友、張邈の客将のような立場での参戦だった。
この頃の曹操は未だ勢力的に大きな存在ではなく、
政治的な諸侯に対しての発言力も低かった。
演義では彼が逆賊董卓の檄文を発して各地の諸侯を糾合しているが、
実際にはとても、そんなことは無理だったろう。
連合結成直後のこの頃でいえば、
最強はやはり四世三公出の名族、袁紹と袁術の兄弟、この二人の持つ、
政治的信用力と発言力が、ともに絶大だった。
が、
しかしながら・・・、
挙兵して集まったものはいいもの、
結局誰もが積極的に董卓軍に向かって洛陽へと進撃する者も現れず、
いたずらに事態を傍観する日々が続くような毎日へと
突入していってしまうのだった。
しかもそうこうする内に、董卓は洛陽の都に火を放って焼き払い、
漢の帝を長安へと遷都させ、王城を廃墟と変えてしまった。
董自身はそれからも暫くは洛陽の郊外に軍勢を率いて駐屯していたが、
それでもなお、
盟主の袁紹はおろか、他の諸侯の間から、
洛陽へと進撃しようとする者が現れることがなかった。
さすがに曹操もこれには呆れて、
諸侯に向かって激しく問い詰めることとなる。
「何故、進撃しないのか?」と。
だがそれでも応える者は現れず、
しかたなく曹操は一人、鲍信とその弟の鲍韜、
それに張邈が付けてくれた衛兹だけを連れると、
司隷河南尹滎陽県の地を占拠すべく、兵員を連れて向かうこととなった。
といって滎陽に董卓が駐屯していたわけではなかった。
滎陽といえば漢代を通しての有名な巨大食料貯蔵地で、
要するに曹操はその食料を奪い取りにいったのだ。
実はこの反董卓連合作戦では、巨大な戦力を動員した分、
その分軍糧の消費も非常に激しいものとなり、
ただ何もせず軍がその場に駐屯しているだけも大変で、
このままではもう、何れ軍糧が尽きて連合も解散と、
そんな状況にまで陥ってしまっていたのだった。
だから曹操は取りあえず何とか穀物の確保だけでもしようと、
それで自分達の手持ちの軍勢だけで実行可能な、
滎陽城の奪取へと向かったのだ。
ところがそれが・・・、
曹操達が滎陽へと向かう途中、
その途中の道で、
同じく兗州陳留郡の酸棗県に集結していた連合軍本陣を奇襲すべく、
やってきていた董卓軍の将、徐栄率いる軍勢と鉢合わせ、
遭遇戦になってしまう。
徐栄軍は人数も多くて強勢で、
曹操軍では衛兹と鲍信の弟の鲍韜が戦死を遂げてしまう。
曹操軍は一敗地に塗れ、曹操も鲍信もそろって負傷するほどの激戦だったが、
しかし徐栄のほうも曹操軍の頑強な抵抗をみて、
未だ連合軍の勢いは強そうだと、
酸棗陣地襲撃は見合わせて、軍を引き上げさせてしまう。
なので結果としてこれは、
曹操達の大きな功績となった。
ただでさえ進撃を渋って漫然と長滞陣を続けていた本陣を急襲されれば、
あっという間に味方は滅び去ってしまっていたことだろう。
歴史もそのまま董卓の世の中に変わっていたかもしれないほどだった。
※(『三国志 武帝紀』)
「二月,卓聞兵起,乃徙天子都長安。卓留屯洛陽,遂焚宮室。
是時紹屯河內,邈、岱、瑁、遺屯酸棗,術屯南陽,伷屯潁川,馥在鄴。
卓兵強,紹等莫敢先進。
太祖曰:“舉義兵以誅暴亂,大眾已合,諸君何疑?
向使董卓聞山東兵起,倚王室之重,據二周之險,東向以臨天下;
雖以無道行之,猶足為患。
今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也。
一戰而天下定矣,不可失也。”遂引兵西,將據成皋。邈遣將衛茲分兵隨太祖。
到滎陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多。
太祖為流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去。
榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,
亦引兵還。」
(二月、董卓は山東で諸侯が兵を起こしたことを聞くと、
天子を移して長安を都とした。董卓は洛陽に留まって駐屯し、
遂に宮室を焼いた。
このとき、袁紹は冀州の河内郡に、
張邈、劉岱、橋瑁、袁遺らは兗州陳留郡の酸棗県に、
袁術は荊州の南陽郡に、
孔伷は豫州の潁川郡に、
韓馥は冀州魏郡の鄴県に、それぞれ駐屯していた。
しかし董卓の兵は強く、袁紹らは敢えて先へ進もうとはしなかった。
太祖(曹操)は言った:
“義兵を挙げて以って暴乱を誅滅すべく大軍を合わせながら、
諸君らは何をためらっているのか?
山東に兵が起こったと聞いた董卓は使者を向かわせ、
王室の重い権威を恃みに、二周の険を拠り所に、
東に向かって天下に臨めば、
たとえ無道の行いをしているといえども、猶、
わずらわしい相手だといえるだろう。
今、宮室を焼き払い、天子を遷し、海内は振動し、
どこに落ち着くかもわからず、これこそ天が亡ぶ時だ。
一戦で天下は定まるのだ。この機会を失ってはならない”と。
曹操は遂に兵を率いて西に向かい、司隷河南尹の成皋県を拠点としようとした。
張邈は太祖(曹操)に将の衛茲に兵を分けて派遣させた。
司隷河南尹滎陽県の汴水に至ったところ、そこで董卓の将の徐栄と遭遇し、
戦闘になるも不利となり、士卒の多くが死傷した。
太祖(曹操)は流れ矢を受け、乗っていた馬も傷を受けた。
しかし従兄弟の曹洪が太祖(曹操)を自分の馬に乗せたため、
夜にやっと逃げ遂せることができた。
一方で徐栄は太祖(曹操)の軍が寡兵ながら力戦したのをみて、
未だ酸棗の敵陣地を攻め破ることは難しいと判断し、また兵を引き揚げさせた。)
※(『三国志 鲍勳伝』注、「魏書」)
「汴水の敗戦で、鲍信は外傷を負い、弟の鲍韜は陳に在って戦死した。)」
【連合崩壊、そして決別】
汴水で不慮の敵と遭遇し、大敗を喫した上に、
掛け替えのない盟友だった衛茲と鲍韜の二人まで失った曹操だったが、
それでも何とか徐栄の酸棗連合陣地襲撃だけは、回避させる結果となった。
しかしそんな目にまで遭って、
ボロボロの姿で曹操、鲍信らが酸棗本陣にまで戻ってくると、
そこでは何と諸侯達が昼間から、酒浸りで無駄な会合ばかりを続けているのみで、
全く董卓軍と戦っているとの意識さえ感じさせないほどの有様だった。
そんな光景を目の当たりにし、
曹操もとうとう、この場面に抑え切れぬ自分の激情を大爆発させてしまった。
※(『三国志 武帝紀』)
「太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取。
太祖責讓之,因為謀曰:“諸君聽吾計,使勃海引河內之眾臨孟津,
酸棗諸將守成皋,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險;
使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,
益為疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。
今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊為諸君恥之!”邈等不能用。」
(太祖(曹操)が酸棗にまで戻ってくると、諸軍の兵10万人余りは、
毎日酒びたりの会合を行い、進撃しようとする者はいなかった。
太祖(曹操)は彼らを責め、また謀を立てて言った:
“諸君らは私の計を聞け。
先ず勃海(袁紹)は河内郡の軍を引き連れて司隷河内郡の孟津に臨み、
酸棗の諸将は成皋を守り、敖倉を拠点に、轘轅、太谷を塞ぎ、
それらの険難の要害を全て制圧し、
袁将軍(袁術)には南陽の軍を率いて丹、析の地から武関へと入らせ、
以って三輔(長安周辺)の地を震撼せしめ、
皆、塁を高く壁を深くして、敵とは戦うことなく、
疑兵を盛んにして、天下に形勢を示せば、
順を以って逆を誅し、たちまちのうちに平定することができるであろう。
今、義を以って兵を動かしながら、ためらって進まないのであれば、
天下の信望を失ってしまうだろう。
私はひそかに諸君のため、そのことを恥ずかしく思うぞ!”と。
しかし張邈らはその計を用いることができなかった。)
・・・と、
しかし曹操にここまで言われても、
それでも諸侯達の態度は変わらなかった。
そして遂に、
曹操は鲍信と二人して彼ら兗州、豫州の諸侯達とは決別し、
酸棗の本陣から立ち去る覚悟を決めるのだった。
【反董卓連合崩壊後の、曹操と鲍信の足取り】
それで怒って、曹操は酸棗の連合諸侯達とは決別し、
やがて河内郡のほうへと向かって離脱していってしまうのだが、
だがこれが小説の『三国志演義』のほうだと、
曹操はその後、北の河内郡とは反対の揚州の地へと立ち去り、
そしてそのまま、後の東軍太守就任までフェード・アウトしていってしまう。
しかし史実のほうでも曹操は酸棗陣地を立ち退いた直後、
実際に彼は揚州、長江南岸の丹陽郡にまでいっているのだが、
そこで何をしたのかというと、
曹操はそこで新たな募兵を行った。
丹陽郡の傭兵は屈強で知られ、それ以前からも各地の諸侯らに雇われて、
賊徒討伐などに優れた実績を上げていた。
だから演義のほうではもう、汴水での敗戦後、
曹操は他の連合諸侯の面々と決別し、
反董卓の抵抗戦線そのものまで放棄してしまうのだが、
しかし実際には、曹操は目減りした兵員を再度集め直し、
再び董卓との抗戦を続けようとしていたのだ。
が、
それが丹陽郡で募兵して、また北のほうへと向かって帰っていく途中、
今度はそこで新たに雇った丹陽郡の傭兵達から、
曹操は反乱を起こされてしまう。
これは史書にも、彼らがどうしていきなり曹操に対して反乱を起こしたのか?
理由は書かれていなのだが、
恐らくは丹陽の傭兵達にとって、
自分達が汴水のような激戦場へと連れていかれて、
命を無駄に落すことを恐れたからではないか。
※(『三国志 武帝紀』)
「太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫、丹楊太守周昕與兵四千餘人。
還到龍亢,士卒多叛。
魏書曰:兵謀叛,夜燒太祖帳,太祖手劍殺數十人,
餘皆披靡,乃得出營;其不叛者五百餘人。
至銍、建平,複收兵得千餘人,進屯河內。」
(太祖(曹操)は兵が少なくなったため、夏侯惇らと揚州へと詣って、
募兵をした。
揚州刺史の陳溫、丹楊太守の周昕が兵四千人余りを与えてくれた。
ところが豫州沛国の龍亢県に到ったところで、士卒の多くが叛乱を起こした。
「魏書」に曰く:兵が謀叛を起こし、夜に太祖(曹操)の帳を焼いた。
太祖(曹操)は自ら剣を手に数十人を殺すと、
残りの者達は散り散りに道を開いたので、そうして軍営を脱出することができた。
叛乱を起こさなかった者達は500人余りしかいなかった。
予州沛国の銍、建平に至り、また兵士1千余人を得ると、
太祖(曹操)進んで河内郡へ駐屯した。)
【そして袁紹の下へ】
さて、そうして曹操が丹陽郡で募兵を行った後、
それからの行動が最も重要なのだが、
最終的に曹操は河内郡へと向かっている。
「進屯河內。」(『三国志 武帝紀』)
河内郡に何があるのか?
実は河内郡には連合盟主の袁紹がいた。
詰まり曹操はそれまで一緒につるんでいた酸棗の張邈・張超らの下を離れ、
今度は袁紹を頼って、そして袁紹の下で、
反董卓連合戦線の戦いを続けていこうと思っていたのだ。
以降、曹操と鲍信の二人は、
袁紹に従属する彼の配下として従っていくこととなる。
それで後に、曹操が袁紹の上表によって、
兗州東郡の太守に任命されるという話も出てくるのだ。
【反董卓連合軍、三つのグループ】
そして曹操が兗州陳留郡の酸棗県に駐屯していた
張邈・張超らとは袂を分かって、
黄河の北岸、司隷河内郡のほうに駐屯していた袁紹を
頼っていったということは、
詰まり彼らは別々の場所に分かれて陣地を構えて、
駐屯していたということだ。
で、
これが『三国志演義』だと、
ズラ~っと、
「操發檄文去後,各鎮諸侯,皆起兵相應:
第一鎮,後將軍南陽太守袁術。
第二鎮,冀州刺史韓馥。
第三鎮,豫州刺史孔伷。
第四鎮,兗州刺史劉岱。
第五鎮,河內太守王匡。
第六鎮,陳留太守張邈。
第七鎮,東郡太守喬瑁。
第八鎮,山陽太守袁遺。
第九鎮,濟北相鮑信。
第十鎮,北海太守孔融。
第十一鎮,廣陵太守張超。
第十二鎮,徐州刺史陶謙。
第十三鎮,西涼太守馬騰。
第十四鎮,北平太守公孫瓚。
第十五鎮,上黨太守張楊。
第十六鎮,烏程侯長沙太守孫堅。
第十七鎮,祁鄉侯渤海太守袁紹。
諸路軍馬,多少不等,有三萬者,有一二萬者,各領文官武將,投洛陽來。」
※(『三国志演義』)より
と、
全員が同じ都の洛陽にまでやってきて、同じ場所に布陣したことになっている。
しかし史実ではこれがバラバラ。
先ず大きく分けて三つのグループに分かれ、
それぞれのグループが別々に場所に陣地を布いていた。
(兗州周辺地図)
先ず反董卓連合結成の発起人となった張邈、張超、臧洪らのいる
兗州グループの面々。
彼らは兗州陳留郡に駐屯。
張邈、張超、臧洪、曹操、鮑信、劉岱、橋瑁、袁遺らは陳留郡の酸棗県に、
孔伷は豫州の潁川郡に駐屯。
次に連合盟主となった袁紹を中心とした冀州グループ。
彼らは黄河の北岸の河内郡に駐屯。
袁紹、王匡は河内郡に、韓馥は魏郡鄴県に、それぞれ駐屯。
そして最後が盟主・袁紹の弟、袁術率いる荊州グループ。
メンバーは袁術、孫堅らで、
彼らは都、洛陽のすぐ南方の地、荊州南陽郡に駐屯していた。
史書ではそれら三つのグループの諸侯達が、
直接面と向かって対談しているかのような記述にみえるのだが、
おそらくは手紙や使者のやりとりだけで、
三つに分かれた面々同士では、最後まで一度も直接会って
話をすることもなかったに違いない。
そのことについて、
この時期、
既に都を焼いて自らはその城外に駐屯し、
山東の連合諸侯の動静を窺っていた董卓だったが、
するとそこで彼は何を思ったか、“直ちに連合を解散せよ”との
命を持たせた使者を派遣するということがあった。
そのメンバーは、
大鴻臚の韓融、
少府の陰脩、
執金吾の胡母班、
将作大匠の呉脩、
越騎校尉の王カイといった、
当時でも有数の名士達だったが、
当然連合の諸侯がこれを受け入れる筈もなく、
哀れ、
胡母班・王瑰・呉循の三名は袁紹に、
陰循は袁術によって処刑されてしまった。
しかしその中で唯一人、
大鴻臚の韓融のみは、その名声と徳望を以って死を免じられるのだが、
とすれば、
この韓融は酸棗方面に派遣されたという事なのではないか。
韓融に限らず彼らは皆、
世に知られた高士達で無理に殺す必用などなく、
そんなことをすれば返って殺した自分達のほうに、
世間の批判の目が覆い被さってくることは必至だった。
やらでものことだった。
ただ袁紹・袁術の兄弟にしてみれば、
彼らは連合の結成に当たって董卓から、
彼らの叔父の袁隗を始め、都に残っていた宗族の悉くを
皆殺しにされてしまっていたので無理もなかったが、
が、
それも酸棗の諸侯達にとっては関係のない話である。
それでこの方面へとやってきた韓融のみは、
エン州グループの独断によってそのまま解放されたということであれば、
この件にしても詰まり、
袁紹と袁術、そしてその他三つのグループに分かれていたという
一つの証左となるように思える。
そして曹操は実際には、兗州グループの張邈らの下を去って、
グループ替えして盟主・袁紹の傘下へと加わることとなるのだが、
しかし演義では最後まで曹操は袁紹の配下にはならない。
次に彼が登場する場面でもいつの間にか東軍太守にまでなってしまっている。
曹操が陳留の張邈らと一旦、袂を分かち、
河内の袁紹を頼って庇護して貰い、
そして今度はその袁紹の任命によって東郡太守となり、
鮑信と共に再び兗州の地へと帰ってくるという、
この一連の流れが非常に重要なのだが、
しかし「三国志演義」ではその間の一連の流れが、
ゴッソリと削除されてしまっているのだ。