反乱へのカウント・ダウン① ~曹操の親友、張邈~
兗州で巻き起こった内乱の首謀者となった陳留郡太守の張邈と、
彼の大親友であった曹操との関係について。
【曹操の親友】
張邈孟卓。
彼は兗州陳留郡太守として、弟で徐州広陵郡太守である張超と共に、
今回、兗州で巻き起こった、
曹操を追放せんとする州内一斉蜂起のクーデターに
加わっていた人物。
一般にこの兗州クーデターといえば、
呂布と陳宮が起こしたものとの認識が強いが、
実はこの張邈という人物こそが、
兗州で巻き起こった内乱の真の黒幕ともいうべき存在で、
彼自身は影に控えていたために目立たなかったが、
しかしこの張邈と曹操との関係が、
内乱発生の原因として、非常に大きな要素を占めていた。
しかも、この張邈は何と、曹操と大の親友同士の関係だったのだ。
だからその親友だった張邈が裏切って、
曹操に対しての謀叛を起こしたわけである。
張邈は「三国志演義」のほうにも陳留郡太守として出てきて、
弟の張超と一緒に呂布と陳宮らのクーデターに加担しているが、
しかし彼が特に曹操の親友だったという、非常に重要なポイントが
書かれていない。
一体何故、
そんな曹操と大親友の張邈が、曹操から離反して
兗州でクーデターを起こすような、
そんな運命となってしまったのだろうか・・・?
しかしその謎を解くカギためには今一人、冀州牧の紹と、
そして曹操が初めて、兗州東郡の太守として赴任することとなった経緯を
詳しく知る必要が出てくる。
【張邈と曹操と袁紹】
実は曹操を東郡の太守に任命したのも袁紹だった。
また張邈は袁紹とも、親しい友人同士だった。
そして張邈と曹操と袁绍、この三人の複雑に絡み合う人間関係が、
やがて兗州での内乱へと発展を遂げてゆくこととなるのだが、
それと今一つ、
彼らは三人とも、かつては皆で反董卓連合軍を結成し、
そして一緒に戦った仲間同士でもあった。
小説『三国志演義』のほうでもこれは変わらず、
演義では袁紹は連合盟主として、曹操はそもそもその連合軍の結成を、
檄文を飛ばして呼び集めた発起人であり、
官位は無官ながらも盟主・袁紹の参謀格として、
また張邈も陳留郡太守、第六鎮として共に連合作戦へと参画。
が、そんな中、曹操は袁紹と、
李儒の献策に従い、洛陽の都に火を放って長安へと遷都した
董卓軍の追撃を巡って衝突し、
すると曹操は兵の疲労のため追撃続行を不可とする袁紹へと向かって、
「豎子不足與謀!(儒子、ともに謀るに足らず!)」(『三国志演義』)
と、吐き捨て、
曹操は自らの配下1万余りだけを連れて西へと逃げる董卓軍の追撃へと向かう。
ところがそこで徐栄の待ち伏せを受けて曹操軍は壊滅。
失意の内に洛陽の本陣へと戻る曹操だったが、
それでもまだ各諸侯に董卓軍との徹底抗戦を主張して、戦いの継続を促す。
しかしもはや盟主の袁紹以下、誰にもそんな気概はなくなっており、
諦めた曹操は遂に彼らと袂を分かって、
揚州の地へ立ち去っていくという描写になっている。
演義では曹操が陽州に何をしにいったか書かれていないが、
しかし次の場面では、
曹操はいつのまにか兗州東軍太守になっていて、
そしてちょうどそのときに発生した青州黄巾賊の兗州乱入に、
朝廷から命じられて討伐に向かい、
やがて曹操はこの兗州の地で領主として地盤を築いていくといった展開となる。
しかし史実では曹操は、袁紹からの上表を受けて東郡太守として就任している。
また「三国志演義」では、
張邈が袁紹と曹操の二人と非常に親密な友人同士だったとの描写もない。
そして実際に曹操が反董卓連合結成の提唱者だったわけでもない。
この辺りの事情ところを細かく追っていかない限り、
その後の兗州で張邈が引き起こした内乱の要因も中々みえてくることはない。
史実の曹操と張邈の関係で言えば、
有名な曹操の、亡父の敵討ちと称した徐州遠征の際。
彼自身にもやはり、覚悟する思いがあったのか、
家族の者たちに向かって、
「もし私が帰らなかったときは、その時は孟卓(張邈)を頼れ」と、
そんな言葉を残していたほどだった。
※(『三国志 張邈伝』)
「太祖之征陶谦,敕家曰;“我若不还,往依孟卓。”
后还,见邈,垂泣相对。其亲如此。
(太祖(曹操)は陶謙の征伐に向かう際、家族に命じて言った;
“もし私が還らなければ、孟卓(張邈)を頼って往け。”と。
後に曹操が無事に兗州へと戻ってきて、張邈と会うと、
曹操は張邈と互いに涙を流して抱き合った。
その親密さはこれほどのものであった。)」
【反董卓連合結成は、そもそも誰によって結成されたのか?】
董卓が洛陽に乱入し朝廷のでの実権を手中に収めた際、
董卓はそれでも、先ずは諸侯に対して官職を与えて懐柔を試みようとした。
が、
袁紹を始め多くの士大夫達がそれを嫌い、
董卓から無理やり与えられた官爵を捨てて、
宮中からの逃亡を図った。
曹操もその一人だった。
曹操は董卓から驍騎校尉として上表されるが、
その職を捨て、姓名さえも変えて間道伝いに洛陽からの逃亡を企てた。
ただし其の途中、中牟県で一度捕まり、
また都へと送り戻されそうになったりしたが、
役人の手助けで何とか免れ、
そしてそんな曹操がやっとの思いで、身一つで逃げ込んだ先が、
大親友の張邈が太守として務める兗州の陳留郡だった。
演義でも曹操は董卓の暗殺に失敗した後、陳留郡へと逃亡するのだが、
しかしそこに何故か彼の父親が待っていて、
曹操はその父に挙兵のための軍資金を打診し、
さらに土地の名士だった衛弘という大富豪からも援助を募って、
その地で郷里の仲間だった曹仁・曹洪、夏侯惇・夏侯淵らと共に兵を挙げる。
しかしこの点、
『三国志演義』ではこの辺りのところ地理的関係が
ゴチャゴチャになってしまっている。
先ず曹操の故郷は兗州の陳留郡ではなく、豫州沛国の譙県だ。
陳留郡に曹操の父親がいること自体が、先ずおかしい。
ただこのとき曹操と同じ沛国譙県出身の曹洪、夏侯惇・夏侯淵らは皆、
史実でも曹操の挙兵に随行しているので、
曹操が陳留郡に落ち延びた後、そこから一旦彼の故郷の譙県へと向かって、
そこで同胞の仲間達を募ってから、
また陳留郡へと戻ってきたということは考えられる。
それかもしくは陳留郡に身を置いたまま、故郷から仲間達だけを呼び寄せたかの、
どちらかだが、
ただどちらにしても最終的には、
曹操は陳留郡の己吾県で挙兵したということになっている。
もし曹操が郷里の沛国譙県へと戻って、そこで家族や親族達の力を借りて
兵を集め、
諸方へ反董卓連合軍の結成を呼びかけて檄を飛ばし、
自ら真っ先に挙兵したということであれば、
そのまま譙県で挙兵すればいい筈だ。
それが実際に彼が旗揚げをしたのは陳留郡の己吾県。
しかしたとえ曹操が故郷の譙県で募兵をしたとしても、
挙兵するのは陳留郡でなければダメだった。
何故かといえば、
実際には既にその地で、反董卓連合軍結成の動きが進められていたから。
(兗州周辺地図)
【親友の張邈と共に陳留郡の己吾県で挙兵】
演義では曹操が一人で各地の諸侯に対して檄文を発し、
反董卓連合軍を呼び集めたことにされているが、
しかし史実では違い、
史実のほうで初め、反董卓連合を結成せんと話を進め、
そしてその発起人となったのは、
曹操の親友である、陳留郡太守の張邈だったのだ。
だから実際には曹操が董卓の下から脱出し、
親友を頼って落ち延びていった先のその陳留郡で、
既に反董卓連合結成の動きが大々的に進められていたのだ。
曹操は自分が檄文を飛ばすどころか、
彼はむしろ誘われたほうだった。
おそらく張邈は都から逃げてきた曹操に対し、
「何だ、お前も董卓から逃げてきたのか。それならちょうどいい。
今、ちょうど我々のほうで、反董卓連合軍結成の動きが進められているのだ。
私のほうからも援助してやるから、お前も故郷から兵を呼んで集めろ」
などと、
そんなことを言って、曹操を義挙の仲間に誘い込んだに違いない。
張邈につては『三国志 張邈伝』に、彼についての記述が載せられている。
※(『三国志 張邈』)
「张邈字孟卓,东平寿张人也。少以侠闻,振穷救急,倾家无爱,士多归之。
太祖、袁绍皆与邈友。辟公府,以高第拜骑都尉,迁陈留太守。
董卓之乱,太祖与邈首举义兵。
汴水之战,邈遣卫兹将兵随太祖。袁绍既为盟主,有骄矜色,邈正议责绍。
绍使太祖杀邈,太祖不听,
责绍曰:“孟卓,亲友也,是非当容之。今天下未定,不宜自相危也。”
邈知之,益德太祖。太祖之征陶谦,敕家曰;“我若不还,往依孟卓。”
后还,见邈,垂泣相对。其亲如此。
(张邈、字は孟卓、兗州東平国寿長県の人。若いときから侠として評判で、
困窮[穷]した人を救い出すのに振るい、家を傾けて自愛することが無かったので、
士の多くが彼に帰した。
太祖(曹操)と袁绍は皆、張邈の友人であった。
三公の府に辟召され、成績優秀で騎都尉を拝した。後に陳留郡太守となった。
董卓の乱の際、太祖(曹操)は張邈と真っ先に挙兵した。
汴水の戦いでは、張邈は太祖(曹操)に衛兹らの将兵を随行させた。)」
この伝の中でも、張邈と曹操が一緒になって兵を挙げたことが記されている。
が、実際には曹操は、張邈の客将という立場だったろう。
曹操はこの時点で董卓から与えられた驍騎校尉の地位を蹴って逃げてきたため、
彼には軍を指揮する正式な権限も、
また彼らを養うためのまとまった大きな領土も持っていなかった。
張邈はまだ自分のところに曹操が逃げてくるよりも以前から、
既に連合結成の準備を進めていたのだが、
ただ張邈自身がその話を思いついたわけではなく、
その話を張邈の下へと持ってきたのは彼の弟の、徐州広陵郡太守の張超だった。
そしてさらに言えば、そもそもこの反董卓連合軍の結成を、
初めに「結成すべきだ」と、言い出したのは、
張超が自分の政策顧問として任用していた郡功曹の
臧洪子源という人物だった。
【忠烈の義士、臧洪】
この臧洪という人物が漢王朝に対しての、非常に忠義に厚い人物で、
彼は洛陽から遠く離れた徐州の地の一地方官の身にありながら、
都で天子が置かれた悲惨な状況を激しく憂え、
彼は溜まらず主人の張超の前、義兵の決起を涙ながらに訴え出ると、
それが全ての始まりとなったのだった。
史書を見る限り彼以前に都の天子を董卓の横暴から救い出そうだとか、
そんな話すら、どこからも出てはいなかった。
袁紹にしたところで、
彼が董卓の下を立ち去ったのは、単に地方での独立、
あるいは中央でで政争に巻き込まれることを嫌ったがための、
緊急避難としての措置だった。
袁紹に限らず誰でも皆そうだった。
そんなものだった。
しかしそんな中で、この臧洪一人のみが違っていた。
「天子をお救いしよう!」と、
劉備でも曹操でもなく、彼のみが実行へと身を乗り出した。
ところが何故か肝心のこの人が、
『三国志演義』には一切登場しない。(爆)
彼についての記述も張邈と同じ、
『三国志 呂布伝』と同じ巻の中に収められている。
※『三国志 臧洪伝』
「臧洪字子源,广陵射阳人也。父旻,历匈奴中郎将、中山、太原太守,所在有名。
洪体貌魁梧,有异於人,举孝廉为郎。时选三署郎以补县长;
琅邪赵昱为莒长,东莱刘繇下邑长,东海王朗菑丘长,洪即丘长。
灵帝末,弃官还家,太守张超请洪为功曹。
董卓杀帝,图危社稷,洪说超曰:“明府历世受恩,兄弟并据大郡,
今王室将危,贼臣未枭,此诚天下义烈报恩效命之秋也。今郡境尚全,吏民殷富,
若动枹鼓,可得二万人,以此诛除国贼,为天下倡先,义之大者也。”
超然其言,与洪西至陈留,见兄邈计事。邈亦素有心,会于酸枣,
邈谓超曰:“闻弟为郡守,政教威恩,不由己出,动任臧洪,洪者何人?”
超曰:“洪才略智数优超,超甚爱之,海内奇士也。”邈即引见洪,与语大异之。
致之于刘兗州公山、孔豫州公绪,皆与洪亲善。
乃设坛场,方共盟誓,诸州郡更相让,莫敢当,咸共推洪。
洪乃升坛操槃歃血而盟曰:“汉室不幸,皇纲失统,贼臣董卓乘衅纵害,
祸加至尊,虐流百姓,大惧沦丧社稷,翦覆四海。
兗州刺史岱、豫州刺史伷、陈留太守邈、东郡太守瑁、广陵太守超等,
纠合义兵,并赴国难。
凡我同盟,齐心戮力,以致臣节,殒首丧元,必无二志。
有渝此盟,俾坠其命,无克遗育。皇天后土,祖宗明灵,实皆鉴之!”
洪辞气慷慨,涕泣横下,闻其言者,虽卒伍厮养,莫不激扬,人思致节。
顷之,诸军莫適先进,而食尽众散。
(臧洪は字を子源といい、徐州広陵郡射陽県の人である。
父の臧旻は、匈奴中郎将、中山太守、太原太守、を歴[历]任したが、
各地で名声を残した。
臧洪は体格、相貌ともに魁偉で、人と異なり立派だった。
孝廉に推挙されて郎となった。
当時、三署(五官郎、左中郎、右中郎)の郎の中から選[选]んで、
県長を補[补]任するのが通例で、
徐州琅邪国の趙昱を徐州琅邪国莒県の県長と為し、
青州東莱郡の劉繇を豫州梁国下邑県の県長に、
徐州東海国の王朗を徐州彭城国菑丘県の県長に、
臧洪を徐州琅邪国即丘県の県長とした。
霊帝の末年、官を棄てて帰郷すると、
そこで広陵郡太守の張超から要請されて臧洪は郡の功曹となった。
董卓が皇帝を殺害し、社稷を危機に陥れようとしたとき、
臧洪は張超を説得して言った:
“明府(張超のこと)は歴世に渡って朝廷から恩を受け、
兄弟並んで大郡をお治めになられております。
今、王室はまさに危機に瀕しながら、贼臣はさらし首にもされず、
今こそ天下の義[义]烈の士たちは恩に報い身を尽くすときなのです。
今、郡の境はまだ安全で、吏民の富も豊富です。
もし太鼓のバチを鳴らして兵士を動員すれば、
2万人を得ることができるでしょう。
こうして国賊を誅して排除し、天下に先んじて音頭を取れば、
大義の人となるでしょう。”と。
張超はその通りだと言うと、臧洪と共に西の兗州陳留郡へと至り、
兄の張邈に会って事を計った。
張邈にもまた素よりその心が有ったので、
兗州陳留郡酸枣にて挙兵した諸侯たちが一同に会したとき、
張邈は張超に言った:“お前は郡守であるのに、
政治、教化、刑罰、恩賞を自分では出さず、
臧洪に一任してしまっていると聞くが、
臧洪とは一体、どのような人物なのかね?”と。
張超は言った:“臧洪は才略智謀が私などよりも数段に優[优]れ、
私は彼を甚だ愛しています。海内の奇士と申せましょう。”と。
張邈はすぐに臧洪を引見すると、大いに語り、これを異とした。
兗州刺史の劉岱公山、豫州刺史の孔伷公緒らは皆、臧洪と親しかった。
そこで祭壇を設けて、共に同盟の誓いを結ぼうとしたが、
州や郡の長官たちは互いに譲[让]り合って、敢えてその役を引き受ける者は無く、
皆そろって共に臧洪をその役に推薦した。
臧洪は祭壇に昇り、槃を手に取り血をすすって同盟の誓いを立てて言った:
“漢室は不幸に見舞われ、皇帝は天下を統べる力を失い、
賊臣・董卓は争乱に乗じてほしいままに害し、至尊に禍を加え、
百姓たちを虐待し、大いに社稷が没落し、
四海が転覆の危機に追い込まれてしまっている。
兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、
陳留郡太守の張邈、東郡太守の橋瑁、広陵郡太守の張超らは、
義兵を糾合し、並んで国難に赴いた。
そこで我々は同盟し、一斉に心を力を合わせて団結し、
臣下としての節を尽くし、元首を失い命を落そうとも、決して二心は抱かず。
もしこの同盟に態度を変える者があれば、
その命を落命させ、子孫を遺し育てていくこともできない。
皇天后土、祖宗明靈、どうかこれを御照覧ください!”と。
臧洪のこの言葉は諸侯たちの心を大いに揺さ振り、皆、涙が零れ落ちた。
そしてその言葉を聞いた者は皆、一兵卒、雑役夫といえども
激しく感情を昂ぶらせ、
誰も忠節を全うしたいと思うのであった。
ところがしばらくすると、庶軍のうちには率先して敵に向かって進む者も現れず、
そのうちに食料が尽きて、軍は解散してしまった。)」
と・・・、
だから挙兵の順序としては
臧洪→張超、そして張超→張邈へと話が繋がっていき、
そして以降はこの張邈と張超、臧洪らの三人が中心となって、
先ずは兗州周辺の諸侯達、
兗州刺史の劉岱や豫州刺史の孔伷らといった者達を説得して仲間へと誘い、
そしてそれから黄河の北岸、冀州渤海郡太守の袁紹のところへと話を持ち込み、
彼に連合盟主として就任して貰い、
遂に正式な反董卓連合軍として一斉蜂起したのだった。
【曹操の挙兵】
『三国志 張邈伝』では曹操が行った汴水の戦いに、
張邈が曹操の軍に衛兹という人物を一緒に随行させたと書かれているが、
衛兹とは陳留郡の孝廉に推挙され、張邈に仕えていた人物だった。
衛兹は陳留郡で曹操と面会すると、
曹操に自分の私財を擲ってまでして協力し、曹操の挙兵を助けたという。
だからこれもおそらくは、
元々、張邈が衛兹に命じ、曹操の挙兵の準備を助けるようにと、
派遣されたのだろう。
※(『三国志 武帝紀』)
「卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。
冬十二月,始起兵於己吾,是歲中平六年也。
世語曰:陳留孝廉衛茲以家財資太祖,使起兵,眾有五千人。」
(董卓が太后及び弘農王を殺害した。太祖(曹操)は兗州陳留郡に至り、
家財を散じ、義兵に加わって、まさに董卓を誅伐しようとした。
冬12月、始めて陳留郡己吾県において起兵した。
この年は中平六年(189年)だった。
世語に曰く:陳留郡の孝廉の衛茲は家財を支援して太祖(曹操)を助け、
兵を起こさせた。軍は5千人も有った。)
「初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、
豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、河內太守王匡、勃海太守袁紹、
陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、濟北相鮑信、
同時俱起兵,眾各數萬,推紹為盟主。
太祖行奮武將軍。」
(初平元年(190年)春正月、後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、
豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、
陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信らが、
共に同時に起兵した。各々数万の軍隊で、袁紹を推薦して盟主と為し、
太祖(曹操)は奮武將軍を兼務(行)した。)
陳寿の『三国志』に衛兹の伝はないが、子の衛臻の伝に、
彼についての細かい記述がある。
※(『三国志 衛臻伝』)
「卫臻字公振,陈留襄邑人也。父兹,有大节,不应三公之辟。
太祖之初至陈留,兹曰:“平天下者,必此人也。”太祖亦异之,数诣兹议大事。
从讨董卓,战于荥阳而卒。太祖每涉郡境,辄遣使祠焉。」
(卫[衛]臻は字を公振という。陳留郡襄邑県の人。
父は衛兹で、大きな節[节]度を有し、三公からの辟召にも応じなかった。
太祖(曹操)が初めて陳留郡にまでやってくると、
衛兹は言った:“平天を下す者は、きっとこの人に違いない。”と。
太祖(曹操)もまた彼を異[异]とし、たびたび衛兹の下を訪れては、
彼と重大な事について議[议]論した。
衛兹は曹操の董卓征伐に従い、司隷河南尹の滎陽県で戦死した。
太祖(曹操)は郡境を通過するごとに、死者を派遣して彼の祠を祀った。)
「先贤行状曰:兹字子许。不为激诡之行,不徇流俗之名;明虑渊深,规略宏远。
为车骑将军何苗所辟,司徒杨彪再加旌命。董卓作乱,汉室倾荡,
太祖到陈留,始与兹相见,遂同盟,计兴武事。
兹答曰:“乱生久矣,非兵无以整之。”且言“兵之兴者,自今始矣”。
深见废兴,首赞弘谋。合兵三千人,从太祖入荥阳,力战终日,失利,身殁。
郭林宗传曰:“兹弱冠与同郡圈文生俱称盛德。林宗与二人共至市,
子许买物,随价雠直,文生訾呵,减价乃取。
林宗曰:“子许少欲,文生多情,此二人非徒兄弟,乃父子也。”
后文生以秽货见损,兹以烈节垂名。」
(「先賢行状」に曰く:衛兹、字は子許。
詭弁で感情を昂ぶらせるような行いは為さず、
俗世間の名声に意志を曲げられるようなこともなかった。
明晰で思慮深く、計画やはかりごとは遠大だった。
車騎将軍の何苗から辟召されるところとなり、司徒の楊彪により、
再加旌(再度旌、有徳の人物を招く際に持たせる“はた”)で以って
招かれた。
董卓が乱を起こして、漢王室がすっかり傾いたとき、
太祖(曹操)は陳留郡に到り、始めて衛兹と対面し、遂に同盟して、
武事を興すことを計った。
衛兹は答えて曰く:“乱が発生して久しく、
軍事によってしか、これを収めることができません。”と。
かつまた、“兵を挙げる者が、今後も出始めることでしょう”と言った。
衛兹は深く興廃を見て、曹操の広大なはかりごとの最初の賛同者となった。
兵を3千人集めて、太祖(曹操)に従って滎陽へと入り、終日力戦したが、
利を失い、身を没した。
「郭林宗伝」に曰く:“衛兹は弱冠二十歳のころ、
同郡の圈文生と共に盛德を賞賛された。
林宗が二人と市場にいくと、子許(衛兹)は買[买]った物を、
そのままの値段で支払ったが、
文生は文句を言い、値切ってから受け取った。
林宗は言った:“子許(衛兹)は欲が少なく、文生には情が多い。
この二人は兄弟どころか、親子ほどの違いがある。”と。
後に文生は財貨に穢いことで名声を損ない、
逆に衛兹の名は烈節を以って、人々の規範となった。)
張邈は衛兹を配下に、弟の張超は臧洪を配下にするなど、
張邈は名士番付の「八厨」にランクされるなど、
やはり人からの信望を得るような器量を備えていたようである。
ただしそうしたことは男だてで知られた袁術などでも変わらなかったが、
だがその袁術などとも同様、
張邈と張超二人の兄弟は、最終的には自らの取った行動により、
身を滅ぼす運命となってしまった。
【明哲保身】
そもそも張邈と張超は、
自分達二人で反董卓連合というものを立ち上げておきながら、
しかしながらそれだけで、
実際に曹操みたく、自ら火の粉を被り、
戦難の地へと身を置いて戦うということを一切せず、日和見を決め込んだまま、
結局何もせずに連合軍を解散させてしまった。
彼らは貴族にありがちなというべきか、
そんな感じの、自分達の行う行動に、非常に無責任な側面があった。
連合盟主・袁紹就任の一件にしてもそうだ。
彼らが何故、袁紹を自分達の盟主として持ってきたかといえば、
それは自分達が最終責任者となることを避けようとしたから。
作戦はもしかして失敗に終わるかもしれない。
だからそんな時のために、
あらかじめ責任をなすりつけるための生贄を用意しておく。
そのために袁紹は呼ばれたのだ。
もちろん袁紹のほうにも連合の盟主を引き受けることに、
相応のメリットはあったが、
しかし張邈にとっては袁紹もごく親しい友人の一人だった。
その昔、彼らがまだ洛陽の都にいて、
「濁流」と呼ばれ蔑まれた宦官勢力を打破すべく、
仲間内で結成した「奔走の友」同士、生死を共にと誓い合った関係だった。
にも拘らずそんな「奔走の友」である袁紹を、
張邈はおだてながら連合の盟主へと推戴しつつ、
実のところ内心では、密かに“いざ、万が一の時は・・・”などと、
そんなことを考えていたのだから。
といって実際に袁紹が連合作戦失敗の責任を取って
殺されるようなことにはならなかったが、
ただそれが・・・、
事態は張邈が思い描いていた予想と越えて、
その全く逆の結果になってしまった。
張邈らにとっては言わば、連合作戦が失敗に終わった場合の、
自分達の責任逃れのためのスケープ・ゴートとして、
連合盟主へとまつりあげたつもりの袁紹だったが、
ところが盟主として就任するや袁紹は、
徐々に他の諸侯達に対して非常に高圧的で命令的、
独善的な振る舞いをするようになり、
そしてその挙句の果てには、遂に連合軍内部の者達からさえ、
「今一人の董卓が現れたようなもの」だとまで言われるようになり、
それからはもう、全く誰の抑えも効かなくなってしまったのだ。
それで張邈はやむなく袁紹に対して警告を発するのだが、
しかしたったそれだけのことで、袁紹は古くからの友人でもある張邈に逆上し、
もはや二人の関係は修復可能なほどの亀裂が生じる仲違いへと発展していき、
そしてまたこのことが、
やがて張邈を破滅の運命へと追いやってしまうことにさえ、
なっていってしまうのだった。