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兗州の乱、第二ラウンド ~名将、陳宮の戦い~

兗州の内乱の決着と、陳宮の軍才について。

【濮陽決戦後の疲弊と袁紹傘下への従属】


194年(興平元年)、

曹操が二度目の徐州遠征へと向かった際、

その留守中に引き起こされた、彼の本拠地、兗州内での一斉大叛乱。


兗州内80以上も存在する県城の内、

鄄城、東阿、范の僅か三城のみを残して全てが曹操から離反。


しかし反乱軍側の当初の計画では、その残りの三城も奪い取って、

それで全ての城の完全制圧した上で、

そのまま領主の曹操と彼の軍隊のみを領外へと

追放してしまおうとするような作戦計画だったのだが、

それを曹操軍の留守を預かっていた荀彧と程昱による、機転の利いた

素早い対処により、三城は無事に死守され、

そして曹操率いる遠征軍も州外で朽ち果てることなく、

また兗州へと帰還を遂げることとなってしまうのだった。


曹操はそれまで徐州の陶謙征伐に向けていた大軍を、

今度はそのまま反乱軍の攻撃にぶつける。


一方、兗州の完全制圧に失敗した反乱軍側でも、

引き返してきた曹操軍に対抗すべく、

武勇の誉れ高い呂布を旗頭として東郡の濮陽城に籠城し、

きたる敵を迎え撃った。


濮陽城周辺を舞台とした両軍の戦いは熾烈を極め、

何と100日以上にも渡って、延々同地での激しい一進一退の攻防を

繰り広げる展開となった。


が、そうこうするうちに突如、イナゴの災害に端を発した大飢饉が兗州を襲い、

両軍ともに疲弊し、食料も尽きたため、

互いに兵を引くという痛み分けの結末に。


曹操はその年の秋九月、荀彧が守っていた済陰郡の鄄城へと帰還した。


しかし大飢饉の影響と、濮陽戦で曹操軍が失った物量は甚大で、

曹操は軍の建て直しと将兵達の養いのため、

遂に冀州牧・袁紹からの援助の提案を受け入れることに決める。


だがそれは自分の妻子を袁紹の下へと差し出し、

彼の従属の配下として隷属してしまうことを意味していたのだった。




【程昱の苦言と曹操軍再起への道】


が・・・、

そんな曹操の下に、

范、東阿と、二県の保守に出回っていた程昱が鄄城へと戻ってくる。


程昱は曹操が袁紹に対し、人質を差し出すことを決めたという知らせを聞くと、

血相を変えて曹操の下へと駆け込んでいって、

そして曹操に向かって激しく詰め寄るのだった。



※(『三国志 程昱伝』)

「太祖与吕布战于濮阳,数不利。蝗虫起,乃各引去。

於是袁绍使人说太祖连和,欲使太祖迁家居鄴。

太祖新失兗州,军食尽,将许之。时昱使適还,引见,因言曰:

“窃闻将军欲遣家,与袁绍连和,诚有之乎?”太祖曰:“然。”

昱曰:“意者将军殆临事而惧,不然何虑之不深也!

夫袁绍据燕、赵之地,有并天下之心,而智不能济也。将军自度能为之下乎?

将军以龙虎之威,可为韩、彭之事邪?今兗州虽残,尚有三城。

能战之士,不下万人。以将军之神武,与文若、昱等,收而用之,

霸王之业可成也。原将军更虑之!”太祖乃止。


(太祖(曹操)は呂布と濮陽で戦い、不利が多かったが、

蝗害が発生したため、各々兵を引いて去った。

袁紹は人を使わして太祖(曹操)と連和すように説得させ、

太祖(曹操)の家族を鄴へと遷して住まわせることを望んだ。

太祖(曹操)は兗州を失ったばかりで、軍食も尽きたので、

まさにこれを許可しようとした。

そのとき使者として出かけていた程昱が還ってきて、曹操と会って言った:

“ひそかに聞くところによりますと、

将軍は袁紹のところに家族を送ろうとしているとか。

袁紹と和を結ぶなど、本当にそのような気があるのですか?”と。

太祖(曹操)は答えて言った:“そうだ。”と。

程昱は言った:“思いまするに、将軍は事に臨んで惧れを抱かれたようですな。

そうでなければどうして深く考慮なさらないのですか!

そもそも袁紹は燕、越の地を根拠地として、

天下の人々の心を合わせようなどと考えておりますが、

もとより世を救済するには智力が足りません。

将軍は自分で、自分の能力が袁紹などの下などと思われるのですか?

将軍は龍[龙]虎の威勢を持ち、韓信、彭越の邪道を進まれるのですか?

今、兗州は破壊されたとはいえ、なおまだ三城があります。

戦う兵士達も、1万人は下りません。将軍は神のごとき武をお持ちになり、

文若(荀彧)や私などを味方にお用いなさっておられるからには、

覇王の業は成功されることでしょう。

どうして将軍はそのことをもっとお考えにならないのか!”と。

太祖(曹操)はすなわち思い止まった。)」



(『三国志 程昱伝』注、「魏略」)

「魏略载昱说太祖曰:“昔田横,齐之世族,兄弟三人更王,

据千里之(齐),拥百万之众,与诸侯并南面称孤。

既而高祖得天下,而横顾为降虏。当此之时,横岂可为心哉!”

太祖曰:“然。此诚丈夫之至辱也。”

昱曰:“昱愚,不识大旨,以为将军之志,不如田横。

田横,齐一壮士耳,犹羞为高祖臣。今闻将军欲遣家往鄴,将北面而事袁绍。

夫以将军之聪明神武,而反不羞为袁绍之下,窃为将军耻之!”

其后语与本传略同。


(「魏略」に載せる程昱が太祖(曹操)を説得して言った言葉に曰く:

“昔、田横は、斉の名族で、兄弟三人が代わる代わる王となり、

千里の地を根拠地とし、100万の軍勢を擁し、

諸侯と並んで南面して“孤(諸侯の一人称)”と称しました。

しかしやがて高祖(劉邦)が天下を得ると、

田横は情勢を顧みて降伏して虜となりました。

このときにあたって、田横は平然としていたでしょうか!”と、

太祖(曹操)は言った:

“そうだ。これはまさに丈夫にとっての最大の屈辱だ。”と。

程昱は言った:“わたくしは愚かでございますから、

大きな考えは知りませんが、将軍の志は、田横のようではないようです。

田横は斉の一壮士に過ぎませんでしたが、

それでも猶、高祖の臣下となることを恥としました。

今、聞きまするに、将軍は鄴に家族を送って住まわせ、北面して

袁紹に膝を屈しようとなさっておられるとか。

将軍ほど神武の聡明さをお持ちになりながら、

袁紹の下につくことを恥とも思わないなどとは、

ひそかに将軍のためにそれを恥に思わずにはいられません!”と。

これ以後の言葉は、本伝の概略と同じである。)」



・・・と、

程昱はかなり厳しい言葉で曹操を追及し、

しかしその甲斐あって何とか曹操を思い止まらせることに成功した。


ただ、たとえどれだけ自分でやる気があったとしても、

現実に先立つ物がなければ何も現状は変わらない。


しかしその先立つ命の補給を、

曹操はここで幸運にも受けることができた。


それは東阿にあった。


冬の10月、曹操は鄄城から軍を挙げて東阿城のほうへと移る。


そこに貴重な食料の蓄えがあった。




【東阿県令、棗祗の活躍】


(『三国志 任峻伝』注、「魏武故事」)

「魏武故事载令曰:“故陈留太守枣祗,天性忠能。始共举义兵,周旋征讨。

后袁绍在冀州,亦贪祗,欲得之。祗深附讬於孤,使领东阿令。

吕布之乱,兗州皆叛,惟范、东阿完在,由祗以兵据城之力也。

后大军粮乏,得东阿以继,祗之功也。


(「魏武故事」に載せている命令書に曰く:

“亡くなった陳留郡太守の棗祗は、天性忠能。始めて共に義兵を挙げて、

各所の征討に駆け回った。

後に冀州の袁绍が、彼もまた棗祗を得たいと欲した。

棗祗は私(孤=曹操のこと)と深く結び付き、彼を兗州東郡東阿の県令にした。

呂布の乱に、兗州が皆、叛乱を起こしたとき、

ただ、范と東阿の二県だけ安泰だったのは、

棗祗が兵で城の力を拠り所としたからだ。

後に大軍の食糧が乏しくなったとき、東阿を得て継続できたのは、

棗祗の功績である。)」



東阿の県令は棗祗そうしという人物。

この人が東阿県の城に大量の穀物を積み上げていた。


「三国志演義」には全然登場もしないが、

史実ではこの人が、有名な曹魏の屯田政策を曹操に対して献策し、

政策の実行を推し進めて成果を収めた一人ということになっている。


屯田に関しては他にも韓浩や毛玠らも曹操に献策を行ったそうなのだが、

しかし東阿県でのことなどをみても、

実際の食糧増産のための様々な方策を受け持っていたのは、

どうもこの人だったように思える。


ただ残念ながら早くに亡くなってしまい、

そのためか単独の伝も立てられてはいないが、

もしその後も生きて内治に活躍をしていれば、

同様の活躍をしてまとめられた、

任峻、蘇則、杜畿、鄭渾、倉慈らと同じ列伝で記載されていたであろう、

優秀なテクノクラートの一人だった。




【兗州の内乱、第二ラウンド】


194年(興平元年)の冬10月に鄄城から東阿へと移って、そこで補給を受け、

何とか急場のピンチを凌いだ曹操軍だったが、

その年明けの195年(興平二年)春、

遂に反乱軍に対し、逆襲のリベンジが開始されることなる。



(『三国志 武帝紀』)

「陶謙死,劉備代之。

二年春,襲定陶。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。

夏,布將薛蘭、李封屯钜野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等。

布複從東緡與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之。


(陶謙が死に、劉備がこれに代わった。

興平二年(195年)春、曹操軍は兗州済陰郡の定陶県を襲撃した。

済陰郡太守の呉資が南城を保守し、未だ抜けない内に、

呂布が救援にやってきたが、曹操軍はこれを撃ち破った。

夏、呂布の将の薛蘭と李封が駐屯していた兗州山陽郡の鉅野県を、

太祖(曹操)は攻撃した。

呂布が薛蘭の救援にやってきたが、薛蘭が敗れたため、呂布も敗走した。

遂に薛蘭らを斬った。

呂布はまた、陳宮と1万余の将兵らと共に

兗州山陽郡の東緡とうびん県から来戦してきた。

そのとき太祖(曹操)は少なかったが、伏兵を設け、

奇襲攻撃で、これを大いに破った。)」



「布夜走,太祖複攻,拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,

使其弟超將家屬保雍丘。

秋八月,圍雍丘。冬十月,天子拜太祖兗州牧。

十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救,為其眾所殺,

兗州平,遂東略陳地。」


(呂布は夜に敗走し、太祖(曹操)はまた攻め、兗州済陰郡の定陶県を抜き、

兵を分けて諸県を平定した。

呂布は劉備を頼って東に奔り、張邈は呂布に従ったが、

弟の張超に命じ家族と兗州陳留郡の雍丘県を保持させた。

秋8月、曹操軍は雍丘を包囲し、

冬10月、太祖(曹操)は天子から兗州牧を拝した。

12月、雍丘を潰し、張超は自殺した。張超の三族は皆殺しとされ、

張超は袁術に救援を要請していったが、

味方の衆[眾]に殺されるところとなった。

こうして兗州は平定され、

曹操は続いて東に向かい豫州の陳国を攻略した。)



と、

前年の濮陽決戦ではひたすら同じ場所での攻防を繰り広げていた

曹操軍だったが、

第二ラウンドともいうべきこの後半戦ではガラリと曹操の戦い方が変わる。


今回の両軍の戦いでは前回と比べて戦場を一ヶ所に限定せず、

曹操が兗州内、各地に設けられた反乱軍の拠点へと進んで攻撃を仕掛け、

その救援にやってきた呂布の軍を待ち伏せで撃退するという

戦い方に変わった。


これは恐らく前回の濮陽での総力戦で、

それまで持っていた戦力が大幅に減少してしまった影響による結果だろう。


人数が減ってしまったので、

直接の攻城戦から、敵を城から誘き出して叩くという戦い方に変わった。


しかし「要撃(待ち伏せ)」と「伏兵」による奇襲攻撃は

曹操の戦歴の中でも、

彼が最も得意として頻繁に用いてきた常套の戦法で、

ここでもまたその本領が発揮されることとなった。


取り分け山陽郡の鉅野県に薛蘭と李封を破った戦いの後、

呂布が陳宮と合流し、

1万余の軍勢で同じ山陽郡の東緡とうびん県から

来襲してきた戦い。


このとき曹操軍では麦狩りに人数が城から出払ってしまっていて

僅か千人ほどの兵士しか残っていなかったが、

曹操は伏兵を用いた巧みな奇襲攻撃で、見事に劣勢を覆し、

何と10倍もの敵を撃退してしまった。


その戦いの詳細については、「魏書」に細かい内容が記されている。



(『三国志 武帝紀』注、「魏書」)

魏書曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固。

太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之。

屯西有大堤,其南樹木幽深。布疑有伏,乃相謂曰:“曹操多譎,勿入伏中。”

引軍屯南十餘裏。

明日複來,太祖隱兵堤裏,出半兵堤外。布益進,乃令輕兵挑戰,

既合,伏兵乃悉乘堤,

步騎並進,大破之,獲其鼓車,追至其營而還。


(「魏書」に曰く:このとき兵は皆、麦[麥]取りに出払っており、

残っている者は1千人にも満たず、屯営も堅固ではなかった。

そのため太祖(曹操)は婦人達にひめがきを守らせ、兵を挙ってこれを防いだ。

屯営の西に大きな堤が有り、その南には幽深な樹木が生い茂っていた。

呂布は伏兵が有るのではないかと疑い、互いに:

“曹操はだますことが多い。うかつに伏兵の中には入るなよ。”と言い合い、

軍を南10余里のところにまで引き上げさせてしまった。

呂布は明日、再びやってくると、太祖(曹操)は兵を堤の裏に隠し、

半分の兵を堤の外へと出して待ち構えた。

呂布が益々、軍を進めてくると、そこで曹操は軽兵に挑戦させ、

合戦におよぶと、

すべての伏兵が堤の上に乗り出し、歩兵と騎兵が並んで進み、

大いにこれを破った。

その鼓車(陣太鼓の乗っている車)を獲得し、

その陣営まで追撃してから還った。)



・・・が、しかしながら、

この戦いは最終的に曹操軍の完勝という形で終わっているのだが、

実は曹操はその開戦以前に、

既に呂布軍によって王手、チェックメイトを受けてしまっていたのだった。


どういうことかというと、

この戦いの前、守備側の曹操軍では、

麦狩りのため城にはたった千人ばかりの人数しか残っておらず、

そのため曹操は城内の婦女子まで駆り出して防備に回していたほどだったが、

詰まり、

呂布軍のほうでは始めから、

曹操軍のその無防備の状態を狙って、急襲を掛けてきていたわけなのである。


だからもし、そのまま城へと呂布軍が攻め込んでいれば、

この戦いは呂布軍の勝ちだったのだ。


そしてもし本当にそうしていれば、

曹操の首さえ挙げていたかもわからないほどだった。


実行してさえいれば・・・。


無論、この急襲作戦を考え出したのは呂布ではない。

何故ならその呂布自身が「伏兵がいるかもしれないから」なんて、

城への攻撃を直前まできながら止めさせているので。


では誰が考えたのかと言えば、

それはこの戦いで始めて呂布達と合流することとなった、

陳宮である。




【名将、陳宮の恐るべき軍才】


この戦いの際、

呂布と陳宮は山陽郡の東緡とうびん県にいたが、

一方で曹操軍はどこにいたのか?


ハッキリと明記されてはいないのだが、

『三国志 荀彧伝』に書かれている記述内容の前後関係から推測して、

どうもこのとき曹操軍は、済陰郡の乗氏に駐屯していたものと思われる。


『三国志 荀彧伝』では、

先ず曹操が乘氏で大飢饉に遭う記述があって、

その直後に、徐州牧の陶謙が病死したとの報が曹操の下へと

舞い込んできたため、

それで曹操は兗州の内乱平定を一旦切り上げ、

再び徐州遠征へと向かおうとする。

君主の死亡時は、その国を攻め取るには絶好の機会だった。

しかしそれを荀彧から諌められる。

徐州の民衆は前年までの曹操の虐殺を激しく恨んでいるので、

攻めやすいどころか、逆に一致団結して曹操の侵入を拒むであろうと。


そうすれば徐州は取れず、

せっかく平定しかかっていた兗州の内乱も再び勢いを増し、

それこそ曹操はこの世に生存の領地を全て失い、

路頭に朽ち果ててしまうほかないと。


その時点で曹操軍では薛蘭と李封を討ち取り、

山陽郡の鉅野県までは奪回していた。


荀彧は曹操に兗州の内乱鎮圧を優先させると、

先ずは収穫期だった麦を刈り取らせて食料を確保し、

州内での長期戦に備えさせる。


だがそのとき既に、

陳宮と合流した呂布軍が山陽郡の東緡県にまで結集していまっていた。



(『三国志 荀彧伝』)

太祖自徐州还击布濮阳,布东走。二年夏,太祖军乘氏,大饥,人相食。

陶谦死,太祖欲遂取徐州,还乃定布。

彧曰:“昔高祖保关中,光武据河内,皆深根固本以制天下,

进足以胜敌,退足以坚守,故虽有困败而终济大业。

将军本以兗州首事,平山东之难,百姓无不归心悦服。

且河、济,天下之要地也,今虽残坏,犹易以自保,是亦将军之关中、

河内也,不可以不先定。

今以破李封、薛兰,若分兵东击陈宫,宫必不敢西顾,

以其间勒兵收熟麦,约食畜谷,一举而布可破也。

破布,然后南结扬州,共讨袁术,以临淮、泗。若舍布而东,多留兵则不足用,

少留兵则民皆保城,不得樵采。

布乘虚寇暴,民心益危,唯鄄城、范、卫可全,其馀非己之有,是无兗州也。

若徐州不定,将军当安所归乎?且陶谦虽死,徐州未易亡也。

彼惩往年之败,将惧而结亲,相为表裏。

今东方皆以收麦,必坚壁清野以待将军,将军攻之不拔,略之无获,不出十日,

则十万之众未战而自困耳。

<臣松之以为于时徐州未平,兗州又叛,而云十万之众,

虽是抑抗之言,要非寡弱之称。益知官渡之役,不得云兵不满万也。>

前讨徐州,威罚实行,其子弟念父兄之耻,必人自为守,

无降心,就能破之,尚不可有也。

夫事固有弃此取彼者,以大易小可也,以安易危可也,

权一时之势,不患本之不固可也。今三者莫利,

原将军熟虑之。”太祖乃止。大收麦,复与布战,分兵平诸县。

布败走,兗州遂平。


(太祖(曹操)が徐州から帰還すると、濮陽に呂布を攻撃した。

呂布は敗れて東へと奔った。

195年(興平二年)の夏、太祖(曹操)が乗氏に駐屯していたとき、

大飢饉が発生し、人々は相食らい合った。

陶謙が死に、太祖(曹操)は遂に徐州を取ろうと欲した。

太祖(曹操)はまた徐州へと還って呂布を平定しようとしたが、

荀彧が言った:“昔、高祖(劉邦)は

関中を保ち、光武帝は河内を据え、皆、深く根を固め、

以って天下を制しました。

進[进]めば敵[胜]に勝[胜]ち、退いても堅く守ることができました。

故に困難や敗北が有りながらも最後には大業[业]を収めることができたのです。

将軍は元々、兗州の首長として事を起こされ、山東の難を平定し、

百姓に心を悦ばし帰[归]服しない者は無[无]かった。

且つ、兗州は黄河と済水に挟まれた天下の要地です。

今は破壊が激しい状態といえども、猶、自らを保つことは容易です。

この地はまた、将軍にとっての関中や河内なのであって、

真っ先に安定させなければなりません。

今、李封、薛蘭[兰]を破り、もし兵を分けて東[东]に陳宮を撃[击]てば、

陳宮は敢えて西を顧みず、

以って其の間に兵を勒し、前もって食量と穀[谷]物を蓄え、

一挙に呂布を破ることもできるでしょう。

呂布を破り、然る後[后]に南に揚州の劉繇と結び、共に袁術[术]を討って、

以って淮水、泗水に臨[临]むのです。

もし呂布を捨てて東に徐州遠征へと向かった場合、

兗州に多くの兵を留めれば徐州を制圧するには不足となりますし、

逆に少数にした場合、民は皆、城を保つだけで、

外にたきぎを採りにいくこともできなくなるでしょう。

呂布がその虚を衝き侵略して暴れまわれば、民心は益々危うくなり、

ただ鄄城、范、卫(衛=濮陽)の三城は保つことができるでしょうが、

その他の城は我々の領有ではなくなってしまうでしょう。

これは兗州を失うことを意味します。

それでもし徐州も取れなければ、将軍はどこに帰るというのですか?

また陶謙が亡くなったとはいえ、それでもまだ徐州は容易には

亡ぼせないでしょう。

向こうは往年の敗戦に懲りておりますから、

将らは惧れて親[亲]しく結び、内外に相結託し、

今、東方では麦の収穫を終えたばかりですから、

必ず野には何も残さず、城壁を堅くして将軍を待ち受けることでしょう。

将軍はこれらの城を抜くことはできず、

略奪するための収穫も得られないとなれば、

10万の軍でさえ、未だ戦わずして自ら困窮に陥ってしまうでしょう。


<わたくし裴松之が考えるに、当時、徐州はまだ平定されておらず、

兗州でも謀叛が起こっていた。

それなのに“10万の軍”だなどと書かれている。

これはあくまで誇張した表現であって、

実際の正しい人数を書き記した数字ではない。

このことからもいよいよ、官渡の戦いの際に、

曹操軍の人数が1万人にも満たなかったという記述が、

正しくはないということが、明らかとなってくるだろう。>


以前に徐州を討伐され、徹底した威罰が行われましたから、

その子弟の念や父母の恥と、

彼らは必ず自ら守って、降伏する気持ちなど全く持たないでしょう。

もし撃ち破ったとしても、とても長く領有していくことは不可能でしょう。

それそもそも物事には、こちらを棄[弃]て、

あちらを取るということがあります。

大と小を交換すること、安全と危険を交換すること、

一時の勢いの権力、根本が定まっていないことを患わないこと。

今、これら三つに利はございません。

どうか将軍は良くお考えになってください”と。

太祖(曹操)はすなわち止めた。大いに麦を収穫し、また呂布と戦い、

兵を分けて諸県を平定した。

呂布は敗走し、兗州は遂に平定された。)」



挿絵(By みてみん)

(兗州周辺地図)



この中で荀彧は「もし兵を分けて東に陳宮を撃てば・・・」と言っているが、

東緡とうびんに集まった呂布軍に対し、

乗氏ならば位置的にも先ず、妥当のように思える。


荀彧はまた、

そうして派遣した別働の部隊で呂布軍を攻撃させれば、

彼らを東緡に釘付けにしたままにできるから、

その間にもう一方の部隊で城外の麦刈りを行い、

城に食料を入れ込んでしまおうと。


が・・・、


敵は見事にその逆をついてきた。


呂布軍は麦刈りでスッカリ兵士達が出払ってカラとなった、

その城のほうへと電撃戦術で攻め込んできたのだ。


荀彧がしきりに“陳宮が、陳宮が・・・”といっていたように、

こんな巧緻な作戦を考えられるのは、反乱軍側では陳宮しかいない。


だが陳宮はこれまでの曹操と呂布の戦いには一切、関与はしていなかった。


何故関与していなかったと言えるのかといえば、

それはもう単純に、

陳宮が戦いに参加していたのなら、

無様に曹操軍に負けていることはなかったから。


ただ陳宮も一緒に加わったこの戦いでは、

結局、呂布軍は曹操に撃ち破られてしまっているが、

しかし陳宮がいれば、少なくとも味方の戦い方が変わる。


この東緡からの急襲作戦に限っては、

それまで散々、敵の待ち伏せと伏兵でいいようにあしらわれてしまっていた

呂布軍の戦い方とは全く異なる。


もしこの奇襲作戦がそのまま忠実に実行されてさえいれば、

日本の織田信長が今川義元を討ち取った、桶狭間の戦いにも等しい戦果を

挙げていたに違いない。


それくらいの価値が、この一戦にはある。


陳宮の軍才は曹操をも凌駕していた。


陳宮の軍事的能力に関しては、


「夫陈宫有智而迟,(それ陳宮は智有れども遅し)」(『三国志 荀攸伝』)


などといった、

荀攸の残した陳宮に対しての評価などのために、結構誤解があるようだが、

しかしこの東緡からの急襲作戦に関しては、

遅いどころか、

もうその一戦で曹操本人の首を取り、

両軍の長い抗争にも一気に決着がつけられていたかもしれないという程の、

真逆の電撃速攻戦術だ。


兵法としては前漢の名将、衛青と霍去病が得意とした

騎兵急襲戦術の奥義ともいうべくものの再現で、

野戦というのはやはり、やっても勝ったり負けたりの繰り返しで、

なかなか決着のつくものではないが、

だがここまで決定的にドンピシャ嵌った作戦となると、

長い中国の歴史の中でさえ、多くは存在しないだろう。


ゲームでいうとロールプレイングのデス系の呪文みたいな、

一瞬で相手の命を奪い去ってしまうような、

そんな凄みと恐ろしさのある作戦だった。


そのころはちょうど麦の収穫の時期だったので、

当然、陳宮は始めから彼らが麦刈りに出て、

城がガラ空きになるのを狙っていたのだろう。

曹操は陶謙が死んだことで、また徐州遠征に向かおうとしたりもしていたが、

その隙を狙ってもいいし、

あるいはそのまま乗氏の城を包囲したっていい。

麦を収穫して城内へと運び入れる前ならば、

敵を城内に閉じ込めたまま兵糧攻めにすることもできる。


そのために、このタイミングで陳宮は呂布との合流を果たし、

それまで自分がいた東郡のほうから出てきていたのだ。

そして東緡の地で準備を万端に整え、

次に曹操がどう動いてくるのか、

手ぐすねを引いて様子を窺って待っていたに違いない。


そして見事に、最上の計略を実践にまで持っていった。


もう何から何までが完璧だった。


ただ一つ、


呂布にその計の実行を邪魔された以外は。(笑)




【陳宮と呂布の確執】


作戦としてはこれ以上ないほどの出来だったのだが、

ところが呂布たちが無防備となった敵城の目前にまでやってくると、

呂布は何故か、そこで味方の進撃行動を中止させてしまう。


「曹操多譎,勿入伏中。(曹操には詐術が多い、伏兵の中に入ることなかれ)」


と・・・。


しかし翌日にはまた改めて城へと向かって攻め込んでいる。


一日待てば伏兵が消えるのか?


どころか攻め直して逆に伏兵で撃退されてしまっている。


僅か一晩の間ながら、

その内に麦刈りに出ていた兵士達も戻ってきてしまっていた。


たった一晩の内に曹操の首を取る絶好の機会も既に失われてしまっていたのだ。


当然、その現場に居合わせた陳宮は呂布に激しく詰め寄ったことだろう。


“何故、突入しないのか?”と。


だから呂布の言った、


「曹操多譎,勿入伏中。」とは、


詰まりはそんな陳宮の、城への突入指示に対しての言葉だったに違いない。


敢えて呂布が意図的に陳宮の策を退けた。


『三国志 呂布伝』の注釈に引用されている「典略」には、


「为布画策,布每不从其计。

(陳宮は呂布のために策略を立ててやったが、

呂布はいつもその計に従わなかった。)」


とあり、

呂布が全く陳宮の言う事ことを聞いていなかったことがわかる。


だから荀攸が言った“遅い”ということも、

それは多分、いくら陳宮が策を考え出したところで、

それが中々、呂布には計として取り上げられず、

採用されたとしても実行までの時間がかなりズレ込んで、

長くなってしまうというようなことを表しているのではないか。


陳宮は呂布の軍師ではない。


『三国志演義』では、呂布はそれでも曹操のような偽りの大将ではなかったと、

まだしも呂布に対しての敬意を持っていたように描かれているが、

しかし史実での陳宮と呂布の関係でいった場合、

陳宮は呂布に対してリスペクトの欠片さえ持ってなどいない。


少なくとも陳宮が自分で思い描いていた今回の兗州乗っ取り作戦においては、

呂布の力など全く必要ではなかった。


それでも敢えて、陳宮が呂布を反乱軍の盟主として担ぎだしたのには、

また別の理由があるのだが、

しかしそれが結果として自分の首を絞める仇となってしまった。


だから兗州から追われ、

陳宮が呂布と共に徐州の劉備の下へと落ち延びていった後も、

陳宮は自ら呂布の大将の一人だった郝萌と共謀し、

呂布を始末すべく下邳で反乱を起こしたということが、

正史の本伝の記述ではないが、

『呂布伝』に付随の「英雄記」には記されている。


またその際に、

反乱の首謀者の一人が陳宮だったということも呂布にバレてしまったが、

しかし呂布は陳宮の、大将という軍内ので地位の重さから、

その場は不問に付して、罪は問わなかったという。



※(『三国志 呂布伝』注、「英雄記」)

「建安元年六月夜半时,布将河内郝萌反,将兵入布所治下邳府,

詣廳事閤外,同声大呼攻閤,閤坚不得入。布不知反者为谁,

直牵妇,科头袒衣,相将从溷上排壁出,诣都督高顺营,直排顺门入。

顺问:“将军有所隐不?”布言“河内兒声”。顺言“此郝萌也”。

顺即严兵入府,弓弩并射萌众;萌众乱走,天明还故营。萌将曹性反萌,与对战,

萌刺伤性,性斫萌一臂。顺斫萌首,床舆性,送诣布。

布问性,言“萌受袁术谋。”“谋者悉谁?”性言“陈宫同谋。”

时宫在坐上,面赤,傍人悉觉之。布以宫大将,不问也。

性言“萌常以此问,性言吕将军大将有神,不可击也,不意萌狂惑不止。”

布谓性曰:“卿健兒也!”善养视之。

创愈,使安抚萌故营,领其众。

(建安元年(196年)六月の夜半、呂布の将で河内郡の郝萌が

呂布に反乱を起こし、

兵を率いて呂布の治める下邳の治府へと乱入していった。

政堂へと入る小門の外まできて、大声をあげてその小門を攻撃したが、

門は堅く中へと入ることができなかった。

呂布は反乱者が誰がわからなかったが、

直ちに婦[妇]人を引き連れ、頭[头]巾も被らず肌脱ぎの姿で、

厠[溷]の天井の上から壁を押しのけて外へと脱出した。

都督の高順の屯営にまでやってくると、直ちに押し開けて高順の門へと入った。

高順は呂布に聞いた:“将軍は何か不明な点はありませんでしたか?”と。

それに対して呂布は“河内郡の若者の声を聞いた”と。

すると高順は即座に“ああ、それなら郝萌でしょう”と答えた。

高順は即刻、兵士達に厳戒態勢を取らせて下邳の治府へと入っていくと、

弓弩を並べて郝萌に向かって射掛けた。郝萌の軍は乱れて逃走した。

天が明けると高順はもとの屯営へと還った。

郝萌の部将の曹性が郝萌に反逆し、郝萌と戦った。

郝萌は曹性を刺して傷[伤]を負わせたが、曹性は郝萌の片腕を斬り落した。

高順は郝萌の首を斬り、曹性を寝台の上へと乗せて、

呂布のところにまで運んだ。

呂布は曹性に聞くと、曹性は言った:

“郝萌が袁術の謀略を受けて裏切ったのです”と。

続けて呂布が“首謀者が誰が知っているか?”と聞くと、

曹性は“陳宮が共謀者です”と答えた。

見ると陳宮が座上で顔を真っ赤にしていたので、

誰の目にも陳宮が黒幕だということがわかった。

しかし呂布は、陳宮が大将であるということを以って、不問に付した。

曹性は“郝萌は常にこのことを私に聞いてきました。

それで私は郝萌に、呂将軍が大将として神のご加護が有り、

排撃することなでできませんと、言っていたのですが、

しかし私も、郝萌の狂惑がこれほどまでのものとは

思いもよりませんでした。”と。

呂布は曹性に“君は優れた若者だ!”と言って、善く養ってやることとした。

曹性の傷が癒えた後、呂布は曹性に郝萌のもとの軍営を鎮撫させ、

またその軍勢を彼に預けさせた。)」



呂布が何故、頑なに陳宮の献策を退けてしまうのかといえば、

それは恐らく彼の、相手の持つ才能に対してのやっかみ、

嫉妬、ジェラシーが原因だろう。


例えば東緡からの急襲作戦にしても、

それまで呂布は曹操と何度も戦っては、その都度いいように

撃退されてしまっていたわけで、

それがもし、唯一人、陳宮の加入によって劇的な勝利を収めてしまったとしたら、

それはもう、呂布の軍司令官としての無能さを証明することとなってしまう。


だから呂布はそれを恐れて陳宮の進言を無視した。


他にも呂布の配下では高順という、

「陥陣営」の異名を取った優れた名将がいたのだが、

彼もどういうわけか、呂布からは満足な軍勢も与えられず、

余り実戦では活躍をさせないような、不可解で不遇な対応を受け続けていた。



※(『三国志 呂布伝』注、「英雄記」)

「英雄记曰:顺为人清白有威严,不饮酒,不受馈遗。所将七百馀兵,号为千人,

铠甲斗具皆精齐整,每所攻击无不破者,名为陷陈营。

顺每谏布,言“凡破家亡国,非无忠臣明智者也,但患不见用耳。

将军举动,不肯详思,辄喜言误,误不可数也”。布知其忠,然不能用。

布从郝萌反后,更疏顺。以魏续有外内之亲,悉夺顺所将兵以与续。

及当攻战,故令顺将续所领兵,顺亦终无恨意


(「英雄記」に曰く:高順は精錬潔白な人柄で威厳が有り、酒も飲まず、

贈答物も受け取らなかった。

彼は700人余りの兵を率いていたが、それを千人と号し、

鎧、甲、武具の類は皆、ひとしく精妙に整えられていた。

いつも敵を攻めて撃ち破れない者はなく、

“陥陣営(敵陣を陥落させる者)”との異名を取った。

高順はいつも呂布を諌めて言った“凡そ国家が破滅、滅亡するようなときにも、

決して忠臣、明智の者がいないわけではありません。

ただその諫言を聞く耳を持っていないだけなのです。

将軍は自分で行動をなさる際、ハッキリとした自分の意思で

行動なさることもせず、

ややもすれば誤った言葉を口になさいます。

実際こうした過ちは数え切れないほどです”と。

しかし呂布は高順の忠節は認めても、その意見を用いることはしなかった。

それどころか呂布は郝萌の反乱があって後、

さらに高順を疎んじるようになり、

自分とは縁戚の関係にあった魏続に、

高順の率いていた将兵を悉く奪[夺]い取って、魏続に与えてしまった。

そうして攻戦に及ぶと、

今度は魏続の下で、もとの自分の部下達の将兵を率いて

戦わせるというようなことまでやったが、

しかし高順は最後まで、

呂布に対して恨みがましい感情は抱かなかった。)」



それと呂布軍にはまだ、張遼などがいたが、

彼も呂布の下では活躍が目立たず、

呂布が劉備から徐州を乗っ取って以降のことだが、

彼は魯国の相として任命されていた。


※(『三国志 張遼伝』)

「布为李傕所败,从布东奔徐州,领鲁相,时年二十八。

(呂布が李傕に敗れると、張遼は呂布に従って東の徐州へと奔って、

魯国の相として任命された。時に年、28歳であった。)」


地位としては厚遇をされているが、

これも考えようによっては、

呂布が張遼の活躍を間近で見たくないための措置だというふうに、

捉えることもできる。


呂布は過去にも、かつて彼がまだ董卓に仕えていたころ、

司隷河南尹梁県の地で、孫堅軍との間に行われた陽人の戦いにおいて、

そのとき董卓軍のほうでは陳郡太守の胡軫を大督護に、呂布自身は騎督として、

董卓から孫堅軍の撃退を命じられて出兵していたのだが、

しかしこの胡軫が酷く傲岸な性格で、そのため呂布を始め、

他の仲間達との折り合いが悪く、

すると呂布は何と、戦場でこの胡軫に手柄を立てさせないよう、

敢えて自ら軍を混乱に陥れるようなデマを飛ばして、

自軍を壊走へと追いやった。


さらに彼が袁紹の下、共に黒山賊の張燕討伐に出向いた際、

呂布は大活躍して敵を撃退してみせるものの、

やがて兵員をもっと増強してくれだとか、

様々な要求を袁紹に求めるようになり、

それからはもはや袁紹の部将としては全く機能をしなくなってしまった。

その間に将兵が略奪を行ったりもして、

それで袁紹から遂には命を狙われて追われることとなるのだが、

しかしこれなども彼にしてみれば、

“これ以上、まだ何かさせる積もりなら、

もっとそれに見合うだけの対価を寄こせ”と、

そんな考えだったろう。


彼は常に自己の利益を最優先に、進退を決していた人間で、

だから陳宮の謀叛が知れて彼を助けたときも、

それはまだ、大将として陳宮の影響力が軍内でかなりの力を持っていたからだ。


下手に陳宮の首を切って、

また誰かに自分の寝首を欠かれるとも限らない。


だから彼の行動は自分の都合次第でコロコロと変えられて、

行動に決まった原理・原則がない。


自分の損になりそうなら、具合が悪くなりそうなら、

それ以上は何もせず、

逆に自分にとって思い通りになるよう、自ら主体的に行動を起こし始める。


丁原への裏切りも、

董卓への裏切りも、

劉備への裏切りも、


皆、同じだ。


何か自分にとって相手との関係が悪くなるか、

あるいは袁紹の下にいたときのように、

唯我独尊、

今の自分の待遇や境遇に、自らどんどんと不満を募らせていき、

やがて全てがバカバカしくなって一気にその憤懣を大爆発させる。


呂布は一般に演義での粗暴なイメージが強いが、

しかしこれが意外にも、彼は嘗て并州刺史・丁原の下では主簿(庶務係)として、

文字も満足に読めず、役人としての能力は低かったと言われる丁原に代わり、

様々な吏務をこなすなど、

呂布は恐らく無学(儒教的な意味で、

詰り倫理性に乏しいといったことなど)ながら、

実務処理に長けた非常に頭の回転の鋭い人物で、

ノンキャリアながら現場からの叩き上げで

どんどん出世して行くようなタイプだったに違いない。


劉備が袁術の将・紀霊から攻められた際の器用な周旋を見ても

その片鱗が窺えるが、おそらく彼はそれまでの人生の至るところで、

そのようにして周囲の揉め事の解決をしたり、

仲間内の世話をするなどして、リーダーとしての地位を

築き上げてきていたのだろう。


呂布は粗暴どころか、彼は恐ろしくマメな人間だった。

そして非常に有能だった。


しかしそんな“できるオトコ”の呂布にとって、

何より、人の無能・不器用な様を見せ付けられることほど、

神経の苛立つことはなかったろう。


といって逆に、他人が自分よりか遥かに煌びやかな才能を持っていた場合、

それはそれで許せないのだが、

ただ丁原もそうだが他には劉備なんかにしても、

特に本人に別段、目立って何の技量・才覚があるわけでもないといった

人物などは、

呂布から見て、まったく役立たずの人間にしか見えず、

また彼が誰に仕えていたとしても、

おそらくは呂布にとって、そうした彼らの繁栄の一切は結局、

それは全て自分の働きによって成り立っているようなものだとの、

そんな抜け抜けとした自覚を持っていたに違いない。

だから平然と相手の寝首を欠くようなマネもできるのだろう。

あるいは彼の謀叛自体が、

“そもそもお前ら一体、誰のお陰で・・・”といった、

そのことの証明みたいなものだったかもしれない。


実際丁原からの謀反に際しても同僚達は皆、呂布にそのまま

付き従っていることなどをみても、

その軍営内において実質誰が真の実力者であるのか、

わからせてやるといった気分は濃厚に持っていたことだろう。


ただそうなると最早、呂布自身が皇帝の座にでも納まらない限り、

彼の叛乱癖が止むこともないだろうが、

しかし彼のそうした行動はまた、戦場にあっても変わらない。

そのために大きな戦争の目的がないがしろにされるということもある。

呂布にはとても、そんなことは求められない。


陳宮なども、できれば彼が好んで呂布などを味方へと

招き入れるようなことはしたくなかったであろうが、

が、

これに関しては今一人、

また別に、ある一人の男の存在が関わってくることとなる。




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