表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

兗州の乱、第一ラウンド ~三城の死守と濮陽の戦い~

194年(興平元年)夏、兗州で発生した曹操への一斉大反乱について、

主にその戦いの前半部分についての詳細と考察。

【兗州の内乱、前半戦】


193年(初平四年)秋、

曹操は殺された亡父の仇討ちとして、徐州の陶謙を攻める。

10余城を陥落させるも、陶謙は籠城して出てこなかったため、

翌年の春には兗州へと帰還。



※(『三国志 武帝紀』)


「秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。

(193年(初平四年)秋、太祖(曹操)は陶謙を征伐し、10城余りを下したが、

陶謙は城を守って敢えて出撃はしなかった。


「興平元年春,太祖自徐州還,

初,太祖父嵩,去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害,

故太祖志在複讎東伐。

194年(興平元年)春、太祖(曹操)は徐州から帰還した。

初め、太祖(曹操)は父親の曹嵩は、官を去った後、

豫州沛国のしょう県へと還っていたが、

董卓の乱に、徐州琅邪国へと避難し、

そのため陶謙に殺害されるところとなってしまった。

故に太祖(曹操)は復讐のを志して東に討伐に向かったのだ。)」



一度目の徐州遠征では陶謙を攻め切れず、

数ヶ月ほどで年明けとともに兗州へと戻ってきた曹操だったが、

しかしその年の夏に入ると、

またすぐに二度目の徐州遠征へと向かう。



※(『三国志 武帝紀』)

「夏,使荀彧、程昱守鄄城,複征陶謙,

(194年(興平元年)夏、荀彧、程昱に鄄城を守らせて、

また陶謙の征伐に向かった。)」



しかしまさにこの曹操の二度目の徐州遠征の最中に、曹操の留守を狙って、

兗州陳留郡太守の張邈と、その弟で徐州広陵郡太守の張超、および陳宮らが、

呂布を盟主と仰いで曹操への一斉大叛乱を決行する。


非常に大規模な反乱で、

『続漢書』の「郡国志」では80と記されている兗州内の各県城の内、

何と東郡の東阿と范、それと済陰郡の鄄城の僅か三城を残し、

それ以外の県城は全て、呂布ら反乱軍側へと寝返ってしまった。


曹操は遠征先でその事件発生を知り、大急ぎで徐州から兗州へと舞い戻り、

そしてそこから呂布らとの決戦となるのだが、

しかしその後、約2年間にも渡って続けられることとなる、

この兗州内での両者の戦いは、

主に前半戦と後半戦とに分けることができる。


先ずは曹操が兗州へと戻ってきて、東軍の濮陽に籠城した呂布軍との、

濮陽籠城の戦いと、

及びその周辺での両軍の陣地攻防を主体とした戦い。


ただこの戦いは何と100日以上にも渡る死力を尽くした総力戦となるも、

決着がつく前にイナゴの大量発生による蝗害のため中断。

双方痛み分けの結果に終わる。



※「呂布伝」の記述


(『三国志 呂布伝』)

兴平元年,太祖复征谦,邈弟超,与太祖将陈宫、从事中郎许汜、王楷共谋叛太祖。

宫说邈曰:“今雄杰并起,天下分崩,君以千里之众,当四战之地,抚剑顾眄,亦足以为人豪,

而反制于人,不以鄙乎!今州军东征,其处空虚,吕布壮士,善战无前,若权迎之,

共牧兗州,观天下形势,俟时事之变通,此亦纵横之一时也。” 邈从之。

太祖初使宫将兵留屯东郡,遂以其众东迎布为兗州牧,据濮阳。

郡县皆应,唯鄄城、东阿、范为太祖守。

太祖引军还,与布战於濮阳,太祖军不利,相持百馀日。

是时岁旱、虫蝗、少谷[谷=穀],百姓相食,布东屯山阳。

二年间,太祖乃尽复收诸城,击破布于钜野。

布东奔刘备。

(興平元年(194年),太祖(曹操)はまた徐州牧・陶謙の征伐に向かう。

兗州陳留郡太守の張邈の弟で徐州広陵郡太守の張超は、太祖(曹操)の将の陳宮と、

従事中郎の許汜・王楷らと共に太祖(曹操)に謀叛した。

陳宮は張邈を説得して言った:“今、英傑[杰]は並び起ち、

天下は分裂崩壊しています。

あなたは四戦の地に、千里の軍勢を率い、剣を手に横目でみるだけでも、

以って人の英雄となるのに十分だというのに、

返って人に制せられてしまうなどとは、何と卑しいことではありませんか!

今、曹操の軍は東に遠征し、その本拠地も空で、呂布は壮士です。

もし彼を一時的に迎えれば、向かうところ敵無しで善戦するでしょう。

また共に兗州を牧して、天下の形勢を窺い、時事の変通を待つなら、

これもまた縦横の策の一つの機会だといえるでしょう。”と。

張邈はこれに従った。

太祖(曹操)は初め、陳宮と将兵を東郡に駐屯させていたが、

遂にその軍を東に、呂布を迎えて兗州牧と為し、濮陽に据えた。

兗州の郡県は皆、この反乱に呼応し、

ただ鄄城、東阿、范の三県だけが太祖(曹操)を守った。

太祖(曹操)は軍を引き返し、呂布と濮陽に戦ったが、

太祖(曹操)の軍は不利となり、相対峙すること100余日にもなった。

この歳[岁]、旱魃と蝗の害によって、穀物は少なく、

百姓達は相食らい合うほどだった。

呂布は東の山陽郡に駐屯した。

それから二年の間に、太祖(曹操)は諸城をまた奪い返し、

呂布を鉅野に撃破した。

呂布は劉備を頼りに東へと奔った。)



戦いは中断されたが、ただこのイナゴ被害のため、

兗州では穀物の値段が一斛あたり五十万銭余りにも跳ね上り、

人々は互いの肉を食らい合うほどの惨状にまで陥ることに。

そのため曹操も、その年の新たな官吏や兵士達の徴募を中止せざるを得ないほど、

とても軍事活動を行えるような状態ではなかった。


ちなみに徐州ではその間に州牧の陶謙が病死し、

代わって青州平原から陶謙の救援のためにやってきた劉備が、

徐州内の役人達から請われる形で、新たな州牧として就任することが決まった。


194年(興平元年)の秋9月、曹操は一旦濮陽から撤退して鄄城へと帰還。

そして後半戦はそれから、年が明けた195年(興平二年)の春から、

また改めて再開されることとなる。


その戦いで漸く両者の勝敗に決着がつけられることになるのだが、

先ずは戦いの前半部分から。


しかし曹操と呂布が濮陽での死闘を始めるよりもさらにその前、

曹操軍内部では、

彼らに残された東阿、范、鄄城の三城の帰趨を巡って、

そこでも大きな混乱があったのだった。




【濮陽戦までの道のり。三城を死守した荀彧と程昱の活躍】


反乱軍は曹操の留守中、州内の大半の県城を曹操から離反させて

クーデターを決行したが、

しかし曹操はその鎮圧のために徐州から軍を引き戻してくる途中、

敵は何故、徐州と兗州の国境に存在する道の難所で、

自分達を待ち構えて迎撃しなかったのか?と、

そんなことを言っていた。



※(『三国志 武帝紀』)

「太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。

太祖曰:“布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道乘險要我,

而乃屯濮陽,吾知其無能為也。”

遂進軍攻之。

(太祖(曹操)が軍を徐州から引き返すと、呂布がやってきて、

鄄城を攻めたが陥落させることはできず、

西へと戻って濮陽に駐屯した。

太祖(曹操)は言った:“呂布は一旦、一州を獲得しながら、

兗州東平国に依拠せず、亢父(兗州任城国)を遮断し、

泰山の道(兗州と徐州の国境)に乗じて我らをその険に拒まず、

ヤツらは濮陽に駐屯してしまった。私はその無能なるを知った。”と。

遂に軍を進めて呂布を攻撃した。)」



挿絵(By みてみん)

(兗州周辺地図)


泰山の道とは徐州と兗州との間に聳え立つ泰山の山道のことで、

亢父は兗州任城国に存在する難道。


共に大軍が通過するには細く険しい道で、

泰山は徐州から北部方面、亢父は南部方面から州境を越えて、

徐州から兗州へと入っていくための要所だった。


その二ヶ所を反乱軍が押さえてしまえば、

実際、曹操を兗州内にも入れず、州外で朽ち果てさせることも

可能だったはずなのだが、

しかし何故か、彼らはそれをしなかった。


彼らは一体何をしていたのか?


勿論やっていることはあった。


で、何をしていたのかというと、

反乱に際し兗州では80以上もある県城の内、たった三城を残して

反乱軍側に加担してしまったわけだが、

実は反乱軍側では、後のその残りの三城も自分達で手を回し、

奪い取ってしまおうとしていたのだ。


曹操がその当時、自分達の本拠地としていた鄄城は、荀彧と程昱が

留守を預かっていたが、

そこには反乱軍総帥の呂布と、それに張邈の軍が現れ、

それと県令の靳允が守っていた范城には呂布軍の氾嶷が、

そして県令の棗祗が守っていた東阿の城には、

あの陳宮が自ら大軍を引き連れ、そしてそれぞれが独自に、

残り三つの城までも完全に制圧してしまおうとする計画でいたのだ。


詰まりもう、兗州内の城を全て残らず完全に曹操から奪い取って、

そして曹操を州の外へと追放してしまうという、

それが今回、呂布、陳宮らが兗州で起こしたクーデター計画の、

初期段階での構想だったのだ。


だから彼らは徐州から引き揚げてくる曹操軍を、国境の難所で

防ぐことをしなかった。


曹操の帰ってくる領土の城を全て占領してしまえば、

自ずと曹操は路頭に迷い、

そうすれば戦さ上手の曹操とももう、無理に合戦をする必要はなくなる。


袁紹も官渡の戦いで、相手よりも圧倒的大軍を率いながら、

曹操の巧みな用兵の前に敗れ去ってしまったように、

やはり野戦には相当なリスクが発生する。


なので反乱軍側ではむしろ、そうした危険性を考えればこその

措置だったのではないだろうか。


が・・・、


その企みを、

反乱軍は、鄄城に残っていた荀彧と程昱の鮮やか過ぎるほどの

活躍によって、

阻まれる運命となってしまう。


先ず鄄城に張邈と呂布がやってくる。




【荀彧の活躍】


※(『三国志 荀彧伝』)

「明年,太祖领兗州牧,后为镇东将军,彧常以司马从。

兴平元年,太祖征陶谦,任彧留事。

会张邈、陈宫以兗州反,潜迎吕布。布既至,邈乃使刘翊告彧曰:

“吕将军来助曹使君击陶谦,宜亟供其军食。”

众疑惑。彧知邈为乱,即勒兵设备,驰召东郡太守夏侯惇,而兗州诸城皆应布矣。

时太祖悉军攻谦,留守兵少,而督将大吏多与邈、宫通谋。

惇至,其夜诛谋叛者数十人,众乃定。豫州刺史郭贡帅众数万来至城下,

或言与吕布同谋,众甚惧。

贡求见彧,彧将往。惇等曰:“君,一州镇也,往必危,不可。”

彧曰:“贡与邈等,分非素结也,今来速,计必未定;及其未定说之,

纵不为用,可使中立,

若先疑之,彼将怒而成计。”贡见彧无惧意,谓鄄城未易攻,遂引兵去。

又与程昱计,使说范、东阿,卒全三城,以待太祖。

太祖自徐州还击布濮阳,布东走。

二年夏,太祖军乘氏,大饥,

人相食。

(明くる年(192年、初平三年)、太祖(曹操)は兗州牧を領し、

後に鎮東将軍となった。

荀彧は司馬として常に従った。

興平元年(194年)、太祖(曹操)は陶謙を征伐し、留守の事は荀彧に任せた。

するとちょうど張邈、陳宮らが兗州でひそかに呂布を迎えて謀叛を起こした。

呂布が鄄城に到着すると、張邈は劉翊を使者に荀彧に告げて言った:

“呂将軍が陶謙を攻撃している曹使君(曹操)の助けに来たので、

よろしく緊急にその軍食を提供してください”と。

人々はこれを疑惑に感じたが、荀彧はすぐに張邈が反乱を起こしたと察知し、

即刻、兵を勒して備えを儲けると、すばやく東郡太守の夏侯惇を召し出した。

しかしその間に、兗州の諸城は皆、呂布に呼応してしまった。

そのとき太祖(曹操)の軍勢は悉く陶謙攻めに出払っていて、

鄄城の留守を守る守備兵の数は少なかった。

しかも督将大吏の多くが張邈、陳宮らと通謀しているような有様だった。

夏侯惇は鄄城へとやってくると、城内で敵と通謀していた謀叛者達

数十人を誅殺し、

これにより人々の動揺は鎮まった。

すると今度は豫州刺史の郭貢が数万の大軍を連れて城下へと現れたが、

或る人が荀彧に、彼も呂布達を手を結んでいるに違いないと告げて言い、

人々はそのことを甚だしく恐れた。

郭貢が謁見を求めてきたので荀彧が会いにいこうとすると、

夏侯惇が言った:“君は一州の鎮めとなるべき人物なのだから、

危ないから行ってはならない。”と。

荀彧は言った:“郭貢は張邈らと平素から結んでいたわけではないだろう。

今、彼が速攻でここまでやって来たのは、

まだ彼の計略が定まっていないからに違いない。

だから彼のその計の定まらぬ内に逆にこちらから説得してしまえば、

よしんばこちらの用に役立てることはできずとも、中立を保たせることはできる。

しかしもし先にこちらが彼を疑わせてしまえば、彼は怒って

計を成立させてしまうだろう。

郭貢は荀彧と会うと、彼の言葉に惧れが無かったので、

未だ鄄城を攻めるのは難しいと判断し、遂に兵を引いて立ち去っていった。

荀彧また程昱に計を与えて、范城と東阿の説得に行かせ、

こうして曹操に残された三城を、敵の手から全て守り切り、

太祖(曹操)の帰りを待った。

太祖(曹操)は徐州から引き揚げてくると呂布を濮陽に攻撃した。

呂布は敗れて東方へと逃げ去った。

興平二年(195年)夏、太祖(曹操)が兗州済陰郡の乗氏に陣すると、

大飢饉が発生し、人々は相食らい合った。)」



呂布と張邈は鄄城までやってくると、城内の者達に対し、

“曹操の加勢に来たから、軍食を提供してほしい”などと言い送ったが、

これは勿論、彼らの謀略だ。


相手がそれで城門を開いた瞬間に、

ドッと雪崩れ込んで城を制圧してしまう積もりだったのだろう。

城内に反乱軍への密通者の存在が十数人も確認されていることから、

これはもう反乱決起の以前の段階から、

事前に双方、城の内外同時呼応で鄄城を奪い取り、

乗っ取ってしまうような計略だったに違いない。


が、実はこの場面に陳宮はいない。

「三国志演義」でも陳宮は呂布の軍師としてのイメージが強いが、

この内乱の初期段階においては、

彼は呂布達とは別々に行動をしていた。

陳宮自身はそれで、東阿の城を攻略しようとしていた。


しかし呂布には無論、こんな込み入った謀略は立てられない。

前以て陳宮が仕込んでおいたか、

もしくはこのとき一緒にいた張邈の考え出した計略だったに違いない。


しかしそれを荀彧に、たちどころに見破られてしまう。


荀彧は固く城門を閉ざしたまま敵の侵入を許さず、

一方で濮陽から夏侯惇を呼び出し、城内の反乱者達を斬り殺した。


するとその後に今度は、豫州刺史の郭貢という人物が、

数万の大軍を引き連れて鄄城へと乗り込んでくる。


鄄城内の者達は、郭貢も呂布ら反乱軍側の共謀者に違いないと疑ったが、

しかし荀彧はそうではないと断言した。


史書に書かれているわけではないのだが、

郭貢とはどうも、袁術の息の掛かった人物であるようだった。


豫州は兗州のすぐ南西、揚州九江郡の寿春を本拠とする

袁術の影響力の強い地域で、

また豫州の汝南郡は袁紹・袁術兄弟の郷里でもある。


そして郭貢の豫州刺史という地位も、

その役職は以前までは、袁術配下の孫堅や孫賁らが、

袁術によって任命されていた役職だったと。


郭貢は陳宮、張邈らが画策したクーデター計画に関しては、

恐らく全然、気付いてはいなかったものと思われるが、

しかし何か、急に兗州内で動きが慌しくなったのをみて、

自分でも良くわからないまま、

先ずは様子を確認してみようと、一人で出てきたのではないか。


だからもし郭貢が陳宮、張邈らの計画を知れば、

即座に彼らに加担して、共に兗州の内乱に加わっていたということだろう。


荀彧はそれを平素と変わらぬ素振りで応対し、

郭貢に内乱発生の事実を悟らせないようして、

そのまま鄄城から立ち去らせたということのように思える。


とすれば、

この内乱は陳宮、張邈、張超ら、兗州出身の豪族達だけで画策された

内乱だったといことにもなる。

呂布はまた別だが、

しかしどういうわけか、曹操と敵対している袁術は一緒には誘わなかったようだ。


ただこの反乱が曹操によって鎮圧された後、

張邈は一人、袁術を頼って落ち延びようとしたりしていた。


途中で部下の裏切りに遭って殺されてしまうのだが、

しかしその以前、袁術が皇帝を僭称した際などは、

張邈は袁術を非難するような手紙を送ってもいた。


なので多分、全て事が破れてしまって、それで仕方なく、

張邈は袁術の助けを求めに、行こうとでもしたのではないだろうか。




【程昱の活躍】


さて、荀彧の華麗なる活躍によって、済陰郡の鄄城は

無事に守り抜くことができたが、

まだ残り二城、范と東阿の二県にも、鄄城と同様に

反乱軍の攻略の魔の手が迫っていた。


このまま何もせずに放っておいては、やはり鄄城と同じく、

敵の手に渡ってしまっていたに違いない。


そこで荀彧は程昱に言って、

残り二城の確保に直接現場まで向かってくれるよう頼んだ。


それで程昱は先ず、彼は東郡の范城へと向かう。


范城には反乱軍側の氾嶷という人物が軍勢を連れてやってこようとしていた。


しかも范城県令の靳允は、

反乱軍側に彼の母親や弟や妻子らを人質に取られ、

激しく動揺してしまっていた。


このことなどをみても、

今回の兗州で起こされたクーデターは、

事前からかなり内応者や共謀者を募っての、武力にはよらない、

計画的な曹操追い出し作戦だったということが窺われる。


しかしこんな状態では靳允も、

氾嶷から人質を盾に降伏を迫られれば、

どこまでも抵抗できずに城を明け渡してしまっていた可能性が高い。


だがそれを、

程昱が行って范県令の靳允と直に面談を行い、

そして強引に説得して靳允を反乱軍側とは断交をさせると、

逆に自ら氾嶷のところにまで面会に出向き、

そしてその場で伏兵を使い、氾嶷を刺し殺してしまうのだった。



(『三国志 程昱伝』)

「太祖征徐州,使昱与荀彧留守鄄城。

张邈等叛迎吕布,郡县响应,唯鄄城、范、东阿不动。

布军降者,言陈宫欲自将兵取东阿,又使氾嶷取范,吏民皆恐。

彧谓昱曰:“今兗州反,唯有此三城。宫等以重兵临之,

非有以深结其心,三城必动。

君,民之望也,归而说之,殆可!”昱乃归,过范,说其令靳允曰:

“闻吕布执君母弟妻子,孝子诚不可为心!今天下大乱,英雄并起,

必有命世,能息天下之乱者,此智者所详择也。得主者昌,失主者亡。

陈宫叛迎吕布而百城皆应,似能有为,然以君观之,布何如人哉!

夫布,粗中少亲,刚而无礼,匹夫之雄耳。

宫等以势假合,不能相君也。兵虽众,终必无成。曹使君智略不世出,殆天所授!

君必固范,我守东阿,则田单之功可立也。

孰与违忠从恶而母子俱亡乎?唯君详虑之!”

允流涕曰:“不敢有二心。”时氾嶷已在县,允乃见嶷,伏兵刺杀之,

归勒兵守。

(太祖(曹操)が徐州を征伐すると、程昱と荀彧に鄄城の留守をさせた。

張邈らが呂布を迎えて謀叛を起こすと、郡県は響応したが、

ただ鄄城、范、東阿の三県だけは動[动]じなかった。

そのとき呂布の軍から降伏してきた者が、陳宮は自ら兵を率いて東阿県を取り、

また氾嶷に范県を取らせるつもりでいると言ったので、吏民は皆、恐れた。

荀彧が程昱に言った:“今、兗州が離反し、こちらには三城が残っているだけだ。

もし陳宮らが重兵でこれらの城に臨んでくれば、深い結束がなければ、

三城は必ず動揺する。

君は、民に信望があるから、君が帰って彼らを説得してくれれば

大丈夫だ!”と。

程昱は帰って、范城へと移り、県令の靳允を説得して言った:

“聞けばあなたは呂布に母や弟や妻子を人質に取られているとのこと。

孝子として誠に心を痛めておられることでしょう!

今、天下は大いに乱れ、英雄は並び起っていますが、

しかし必ず命世を有す者が、天下の乱を収めるに違いありません。

これは知恵者ならばハッキリと選ぶことができます。

その主を正しく選んだ者が栄え、失った者が滅びるでしょう。

陳宮が呂布を迎えて謀叛を起こすと百城は皆、応じ、

大事をなすようにもみえますが、

しかしあなたの目からみて、呂布とは一体どのような人物でしょうか!

そもそも呂布などは粗暴で親しむ者は少なく、剛情で礼無く、

匹夫の勇者に過ぎません。

陳宮らは勢いから俄かに連合しているだけで、

主君を助け合っていくことなどできません。

兵は多いといえども、終いには必ず成功しないでしょう。

曹使君は不世出の智略を備え、殆ど天から授かったお方です。

あなたが范城を固め、私が東阿城を守れば、

きっとあなたは田单の功績を打ちたてることができるでしょう。

忠に背き、悪に従い、母子と共に滅びるのとどちらがよいでしょうか!”と。

靳允は涙を流して言った:“決して二心は抱きません”と。

そのとき氾嶷すでに県にまできていた。靳允は氾嶷と会見すると、

伏兵で彼を刺し殺した。

それから城へと帰ると兵を勒して守った。)」



ただ、こうして程昱は范城こそ守ったものの、

彼のこの時した行為に関しては、

後世の論者達からの激しい非難を浴びる結果となってしまった。


そもそも儒教社会の中国では特に先祖、祖父母、両親に対しての孝心が、

最も強い倫理として社会全体が構成されている。



※(『三国志 程昱伝』注、徐衆「三国」評)

「徐众评曰:允於曹公,未成君臣。母,至亲也,於义应去。

昔王陵母为项羽所拘,母以高祖必得天下,

因自杀以固陵志。明心无所系,然后可得成事人尽死之节。卫公子开方仕齐,积年不归,

管仲以为不怀其亲,安能爱君,不可以为相。是以求忠臣必於孝子之门,

允宜先救至亲。

徐庶母为曹公所得,刘备乃遣庶归,欲为天下者恕人子之情也。

曹公亦宜遣允。

(徐衆の「三国」評に曰く:靳允と曹公とは、未だ君臣の関係ではなかった。

母は、もっと近親の関係である。道義に応じて立ち去るのが当然だ。

昔、王陵の母が項羽に捕らわれるところとなったとき、

母は高祖(劉邦)が必ず天下を得るに違いないと、

そのため自殺して王陵の意志を固めさせた。

明らかに心に引っ掛かることが無くて、

しかるのち、人に死力を尽くさせる節度を成り立たせることができるのだ。

春秋時代、衛[卫]の公子の開方は斉に仕え、何年にも渡って帰らなかった。

斉の宰相だった管仲は、その親[亲]を懐[怀]かしまず、

どうして君主を愛することができるであろうかと、

相にするわけにはいかないと判断した。

だからこそ孝子の門から忠臣を求めるのだ。

靳允も先ず、最も親しい人を救うべきであった。

徐庶の母が曹公に捕らえられたとき、劉備も徐庶を母の下へと帰らせた。

天下を欲する者は人の子の愛情を思いやるべきだ。

曹公もまた靳允を帰らせるべきであった。)」



と・・・、

その母を裏切ってまで、忠義の道を強制させるのは、

この国にあってはやはり評価が悪い。


それで程昱は自分の伝が記載される場所を、同じく素行の悪い郭嘉などと一緒に、

それこそ“似たような人達”として、

列記される結果にもなってしまったのだろう。

曹操には感謝されていたが。


さて、そして最後、残りの一城。


東郡の東阿県。


東郡といえば陳宮の故郷だ。兗州東郡の武陽県が陳宮の出身地。


そして陳宮は曹操が徐州遠征へと向かう際、

曹操から直接、東郡の留守を任されていた。


陳宮が東郡の中のどの城に駐屯していたのかは不明だが、

陳宮は東阿の城を攻略するにあたって、

黄河の北岸から渡って南に向かって攻め下ろうとしていた。


だからその黄河の南岸の倉亭津(“津”とは船の渡し場)を、

程昱に騎兵を送られて押さえられてしまい、

渡っていくことができなかった。


地図を見ると東阿県から黄河沿いの上流、西のほうで、

黄河の北岸の場所に、東武陽県がある。


なので恐らく陳宮は張邈や呂布らと別れた後、

自分の故郷である武陽県へと戻って、

そこで反乱のための兵士を徴募してから、

黄河を南に越えて東阿の城を攻めようとしていたのではないか。


東阿でも人質を確保していたのかどうかは不明だが、

そこでは県令の枣祗が良く吏民を取りまとめていたため、

城内に内反の動揺は見られなかったという。


となると後は軍隊で攻めてくる陳宮への対応だけだ。

だがそれも、

程昱はいち早く別働の騎兵隊を東阿から派遣し、

黄河の渡し場を押さえてしまった。


これは先に押さえられてしまうと、もうダメらしい。


ただその後、

陳宮はまた黄河を南に渡って呂布の軍と合流を果たしていることから、

どっかからは渡れるのだろうが、

しかし時間の問題として、

その間に敵に城の防備を完全に整えられてしまうといった、

そんな感じだったのではないか。


そのため陳宮がモタモタして失敗したとも言われるのだが、

これはでも、陳宮が遅かったというより、

荀彧や程昱の対応のほうが早過ぎたのだ。


先に、鄄城へとやってきた豫州刺史の郭貢が、

彼は兗州での内乱については何も知らないような感じだったが、

元よりこの兗州クーデター計画に関してはあくまで極秘裏の内に、

陳宮や張邈らの手で進められていた。


しかしその内密のことを、

荀彧は張邈が呂布を連れて鄄城にまでやってくると、

もうその時点で即座に、

彼は「“張邈”が叛乱を起こした(彧知邈为乱,)」と、見抜いてしまった。


これは後での考察になるが、

要するにこの兗州クーデター計画に関しては、

少なくとも荀彧は事前にその不穏な動きを察知してしまっていた。


いつ内乱が発生してもおかしくはないと。


もうそんな状態だった。


だから異常に、呂布達の挙兵に対しての対応が素早く、

反乱軍側では逆に、

事前に考え抜いていた彼らの初期計画を阻害されてしまったということだ。


そしてそれはまた、

結果としてクーデター作戦実行の成否の問題にまで、

深い影響を及ぼすこととなってしまった。



(『三国志 程昱伝』)

「昱又遣别骑绝仓亭津,陈宫至,不得渡。昱至东阿,东阿令枣祗已率厉吏民,

拒城坚守。

又兗州从事薛悌与昱协谋,卒完三城,以待太祖。太祖还,

执昱手曰:“微子之力,吾无所归矣。”

乃表昱为东平相,屯范。

(程昱はまた倉亭津の渡し場を別働の騎兵を派遣して遮断させたので、

陳宮はやってきても、河を渡ることができなかった。

次いで程昱が東阿に至ると、東阿では県令の枣祗がすでに吏民を厳粛に統率し、

城を堅く守って敵を拒んでいた。

また兗州従事の薛悌は、程昱と協謀して最後まで三城を守り、

太祖(曹操)が帰還するのを待った。

太祖(曹操)は程昱の手を取って言った:

“あなたの協力がなければ、

私には帰るところがなくなってしまっていた。”と。

そこで太祖(曹操)は程昱を東平国の相として上表し、

范城に駐屯させた。)」




【曹操VS呂布 ~濮陽の戦い~】


こうして曹操は何とか、荀彧や程昱の活躍によって、

本拠地の城を確保し、

無事、兗州への帰還を果たすことができた。


後は呂布との勝負である。


呂布は鄄城の奪取に失敗した後、

西の濮陽城へと撤退を遂げる。


しかしここでの戦いがまさに、死力を尽くした総力戦となった。


互いに攻めつ攻められつつの激しい攻防戦の繰り返しとなり、

そんな状態が三ヶ月、100日以上にも渡ってひたすら続けらるという

デッド・ヒートな展開となった。



※「武帝(曹操)紀」の記述


(『三国志 武帝紀』)

會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,

太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。

太祖曰:“布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道乘險要我,

而乃屯濮陽,吾知其無能為也。”遂進軍攻之。

布出兵戰,先以騎犯青州兵。

青州兵奔,太祖陳亂,馳突火出,墜馬,燒左手掌。

司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。

(張邈と陳宮が呂布を迎えて謀叛を起こしたとき、郡県は皆、応じた。

荀彧と程昱が鄄城を保ち、范、東阿の二県はもともと自分達で守っていた。

太祖(曹操)が軍を徐州から引き返すと、呂布がやってきて、

鄄城を攻めたが陥落させることはできず、

西へと戻って濮陽に駐屯した。

太祖(曹操)は言った:“呂布は一旦、一州を獲得しながら、

兗州東平国に依拠せず、亢父(兗州任城国)を遮断し、

泰山の道(兗州と徐州の国境)に乗じて我らをその険に拒まず、

ヤツらは濮陽に駐屯してしまった。私はその無能なるを知った。”と。

遂に軍を進めて呂布を攻撃した。

呂布も出兵して戦い、先ずは騎兵で青州兵を破った。

青州兵が奔ると、太祖(曹操)の陣は混乱した。

太祖(曹操)は馬で馳せ、火の中を突き出たが、落馬し、

左の手の掌に火傷を負った。

司馬の楼異が太祖(曹操)を馬の上に乗せて助け、遂に軍を引いて去った。)


(『三国志 武帝紀』注、「献帝春秋」)

「袁暐獻帝春秋曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏為反間,太祖得入城。

燒其東門,示無反意。及戰,軍敗。

布騎得太祖而不知是,問曰:“曹操何在?”

太祖曰:“乘黃馬走者是也。”布騎乃釋太祖而追黃馬者。

門火猶盛,太祖突火而出。

(袁暐の「献帝春秋」に曰く:太祖(曹操)は呂布を濮陽に囲んだ。

濮陽の大姓の田氏が反間となり、太祖(曹操)は濮陽城内へと入ることができた。

曹操はその際に、東門を焼き、再び引き返すことのない意志を示した。

そして城内で敵と戦闘になったが、軍は敗れた。

そのとき呂布の騎兵が太祖(曹操)を捕らえたが、

それが曹操本人だとは気付かずに、

太祖(曹操)に向かって聞いた:“曹操はどこにいる?”と。

太祖(曹操)は:“黄色の馬に乗って走っている者がそうです”と答えると、

呂布の騎兵は太祖(曹操)を放して黄色い馬に乗る者を追った。

東門の勢いはなお盛んで、太祖(曹操)は火を突き抜けて脱出した。)」


(『三国志 武帝紀』)

「未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖。太祖乃自力勞軍,令軍中促為攻具,

進複攻之,

與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。

秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。

於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兗州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,

太祖從之。

冬十月,太祖至東阿。

是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者。

(未だ軍営に辿りつく前、そのとき太祖(曹操)の姿が見えなかったので、

諸将は皆、恐れた。

帰ってくると太祖(曹操)はケガを押して軍を労い、

軍中に命じて攻城兵器を作ることを促し、また進んで濮陽城の呂布を攻めた。

呂布と相対峙すること100余日。蝗害が発生し、百姓は大いに飢えた。

呂布もまた糧食が尽きたため、おのおの引き返した。

秋9月、太祖(曹操)は鄄城へと帰還した。呂布軍が兗州済陰郡の

乗氏にまで到ったが、

その県人の李進に撃破されるとことなり、東に向かって山陽軍に駐屯した。

そんな様子をみて、袁紹が人をやって太祖(曹操)を連和させようと欲した。

太祖(曹操)兗州を失ったばかりで、軍食も尽き、これを承諾しようとしたが、

程昱が太祖(曹操)を止めたため、太祖(曹操)はこれに従った。

冬10月、太祖(曹操)は兗州東郡の東阿県へと至った。

この歳、穀物は一斛五十万銭にもなり、人は相食らうほどとなり、

そのため新たな軍吏や兵士の募集は取り止めた。)」



曹操も激戦の中、左手に火傷を負うなどするほど、

激しい戦いだった。


「献帝春秋」では、田氏の反間によって、

曹操が濮陽城内へと突入する機会を得たなどと書かれているが、

事実としてはどうだったのか。


ただ『武帝紀』の本文のほうでも、猛火の中、馬に乗って突き抜けたことや、

ケガをしたことは書かれているので、

信憑性は高いように思える。


ただこの田氏の反間というのも、

田氏が曹操の内通者として、呂布を裏切って曹操軍を城内へと引き入れたのか、

それとも田氏が呂布を裏切る振りをして、

曹操を城内へと引き込んで殺してしまおうとする計略だったのか、

それによっても大分、意味合いが変わってくる。


後者なら曹操はまんまと呂布側の計略に嵌められたことになる。


しかし曹操の性格から考えて、

この100日以上にも渡る、先の見えない泥沼の死闘へと

突入することなったこの展開に、

何とか少しでも早く、

戦いの勝敗に決着をつけて終わらせたかったということは、

十分に考えられる。


曹操は意外に、我慢“弱い”。


しかもこの場合、彼が兵法の専門家であるだけに、

戦争が長引けば長引くほど、

いよいよ“やばい・・”といったことも見えてきてしまうわけで、

その面での、

彼の焦りや不安がかなり、大きかったことは間違いないだろう。


そんなときにポッと、

“私が密かにあなたがたを城内へと導き入れましょう”なんてことを言われれば、

焦りを募らせた曹操が食い付く可能性は非常に高い。


ただ特に、曹操軍が城内で待ち伏せをされて

包囲されたというようなことも書いていないので、

普通に田氏の呂布達に対する裏切りだったのだろうか。


しかし結局、決着はつかず。


濮陽での攻防も、蝗害の大発生で痛み分けのサスペンド。


が・・・、


本当なら、

曹操はこの濮陽決戦で呂布軍を叩き潰してしまわねばならなかった。


そのためにありったけの物量をこの一戦に投じたわけで。


だから100日以上にも渡って、ひたすらずっと同じ場所で粘り続けた。


しかし失敗に終わる。


失敗だとわかるのは、この濮陽の戦いの後、

秋の九月に鄄城へと引き返してきた曹操に対し、冀州の袁紹が、

大喜びで彼に従属を勧めてきたこと、

それでわかる。


この時点で曹操軍はもう、相当ズタボロだったようだ。


そこで袁紹が、曹操の妻子を自分の人質として送ることを条件に、

彼に救いの手を差し伸べてくる。


そして、曹操もそれを、かなり悩みに悩み抜いてだが、

諦めて受け入れることを、決めてしまうのだった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ