呂伯奢惨殺事件
架空の「三国志演義」だけでなく、「魏書」や「世語」などにも載る、呂伯奢惨殺事件。曹操による犯行として、現代までも華やかな彼の表のキャリアに暗い影を落す一因となってしまっている、この事件の謎についての考察。
【三国志演義での陳宮】
史実では東郡で曹操に仕えていた陳宮だったが、
小説の三国志演義ではまた全然違う。
『三国志演義』 第四回 「漢帝を廃して陳留位に即き、
董賊を謀らんとして孟徳刀を献ず」の回で初登場。
陳宮はそこで、董卓の手から逃れて、
都落ちをしてきた曹操の逃亡を手助けする中牟県の県令として登場する。
勿論これは演義の創作だが、
そこでの曹操は先ず、都で専横を振るう董卓を排除すべく、
司徒の王允から秘蔵の宝刀である七星剣を借り受け、
その剣で董卓の暗殺を企てる。
そのときの曹操の身分は驍騎校尉で、これは史実と変わらない。
しかし史実ではその職に董卓から任命をされている。
けれでも曹操は結局それを受けず、官を捨てて董卓の下から逃亡。
一方、三国志演義では王允から譲り受けた七星剣を使い、
寝台の上に背を向けて横たわっていた董卓を背後から斬り殺そうとするも、
しかし剣を振り上げたその自分の姿が、
董卓の前に置いてあった鏡に映ってしまい、
「曹操、一体何のマネだ!」と、
あやうくバレそうになってしまう。
が、すると曹操は咄嗟に、
「実はこの宝刀を閣下に献じようと思い、持って参りました」などとごまかすと、
上手くその場から立ち去って、その足でそのまま都からエスケープ。
しかし司隷河南尹にある中牟県の関所で捕らえられ、
県令の下へと引き出されてしまう。
県令は曹操の姿を見ると、
「これは都から手配書の届いている曹操だ。
明日、都へと送り返して恩賞に預かろう」と言い、
曹操を牢屋に閉じ込めてしまった。
しかしその夜、県令は密かに牢屋の曹操を訪ね、腹を割った話し合いをすると、
「私は真の主を探し求めていた。貴殿こそ天下の忠義の士だ」と語り、
自分もまた曹操と一緒に、官を捨てて逃亡することを決意。
曹操が相手の名を尋ねると、
県令は、「私は東郡の陳(宮)公台」だと答えた。
実は史実のほうでも曹操は都から逃亡の最中に捕まっていて、
その場所も中牟県だった。
ただ陳宮は出てこない。
たまたま邑の中に曹操を知っている者がいて、
その人が掛け合って開放されたのだという。
※(『三国志 武帝紀』)
「出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解。
(虎牢関の関所を出て、中牟県を過ぎたところ、亭長が疑うところとなり、
捕らえられて県へと連行された。
しかし邑の中の或る者に、密かにこれが曹操だと知る者がいて、
その者が請願して曹操は解放されることとなった。)」
(司隷河南尹周辺地図)
しかし三国志演義ではその後、
中牟県から逃れた曹操と陳宮の二人は、ある悲惨な事件に
巻き込まれてしまうのだった。
それが呂伯奢惨殺事件。
演義では二人が中牟県から出た後、司隷河南尹の成皐県に入ったところで、
曹操は、彼の父と義兄弟の契りを結んだという呂伯奢の家を訪ね、
匿って貰うことにした。
呂伯奢は快く彼らを迎え入れ、
すると呂伯奢は「西の村までいって、好い酒を買ってこよう」と、
二人を残して家から出ていってしまう。
曹操と陳宮は待っていたが、暫くすると、
屋敷の裏手のほうで刀を研ぐ音が聞こえてきて、
不審に思った曹操がさらに近づいて聞き耳を立てると、
そこからは何と「早く縛って、殺してしまえ」などという声が漏れ聞こえてきた。
「そうか、それで呂伯奢は一人で・・・!」と、
曹操は呂伯奢が密かに自分達のことを役人に密告し、
恩賞に預かろうとしているのだと察し、
即座に決意して、
陳宮と二人で、剣を振るって家の中の者たち八名を皆、
全て斬り殺してしまうのだった。
ところが、
台所を良く見ると、一匹の縛られた豚(原文で“豬”)の姿が。
何と彼らはその豚を調理しようとしていただけだったのだ。
曹操と陳宮の二人はすぐさま事の真相を悟ったが、
しかしこうなってはもはや手遅れ。
二人は慌てて馬に飛び乗ると、屋敷からの逃亡を図った。
ところがその途中、
二人はたまたま酒を買って戻ってきた呂伯奢とバッタリ遭遇してしまう。
「いかがなされました?せっかく家の者達にも豚を殺して貴殿らに振舞うよう、
申し渡しておりましたのに」
と、
首をひねる呂伯奢に対し、
曹操は、
「いや、やはり追われている身では長居もできぬと
思い直しまして・・・」などと、
その場では何とか誤魔化して擦れ違ったが、
しかし呂伯奢が家へと戻って現場を見れば、直ぐに通報されると考え、
馬を返して呂伯奢の後を追い、呂伯奢も同様に斬り殺してしまうのだった。
「“知而故殺,大不義也!”」(『三国志演義』)
「既に誤解だったと知りながら殺してしまうなど、大不義ではないか!」と、
悲痛な叫び声を上げる陳宮に対し、
すると曹操は、
「“寧教我負天下人,休教天下人負我。”」(『三国志演義』)
「私は自分が天下の人を裏切ることがあっても、
天下の人が私を裏切ることなど決して許さないのだ」と。
陳宮はその言葉を聞くと、
「陳宮默然。」(『三国志演義』)
と、
彼は返す言葉も無く、その場でジッと黙り込むしかなかった。
しかしその夜、二人で宿屋へと入り、曹操が先に寝つくと、
陳宮はその寝姿を見ながら、
「私はこの曹操を好人物だと思ったればこそ、官を棄てて後に従ったというのに、
それが実際にはここまで残酷な男だったとは!
今日、このまま彼を生かしておけば、必ず後の禍となるであろう」
と、
おもむろに腰の剣を引き抜いて、曹操の身の上へと翳した。
・・・が、
「設心狠毒非良士,操卓原來一路人。」(『三国志演義』)
「しかしながらもし、自分までもが心を残忍な感情で毒してしまえば、
私自身もはや良士ではなくってしまう。
所詮、曹操などは本来、一路傍の人間に過ぎない」と、思い止まり、
そして、
「そうだ、私はあくまで国のためにと、この人に付いてきたのであって、
今、この人を殺してしまうことは不義になる。
このまま置き棄てて、この場を一人、立ち去るのみ」と、
陳宮は自らの剣を収めて馬上の人となると、
夜明けを待たず、
一人、東郡へと向かって駆け去っていくのであった。
・・・・・と、
さて、ここまでは見事な、出来過ぎなほどドラマ仕立ての展開となっているが、
元よりこれは創作小説「三国志演義」の話。
ところが、
陳寿の書いた正史の「三国志」ではないが、
後に裴松之が注釈として取り上げた関連史書の中に、
実際、呂伯奢という人物や、また曹操がその呂伯奢の家族達に対し、
自ら手を掛けて殺害したのだ、などとも書かれているのだ。
以下、
『三国志 武帝紀』(陳寿 著)内の記述。
※「武帝紀」(陳寿 著)本文の記述
卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事。
太祖乃變易姓名,間行東歸。
董卓が洛陽の都へと到着すると、少帝弁を廃して弘農王とし、
献帝を即位させたため、
京都は大いに乱れた。董卓は上表して太祖(曹操)を驍騎校尉とし、
彼と事を計ろうと欲した。
しかし太祖は姓名を変え、間道を東へと帰っていった。
※「魏書」(王沈 共著)の記述
魏曰:太祖以卓終必覆敗,遂不就拜,逃歸鄉里。
從數騎過故人成皋呂伯奢;伯奢不在,
其子與賓客共劫太祖,取馬及物,
太祖手刃擊殺數人。
『魏書』に曰く:太祖(曹操)は董卓が必ず失敗に終わるとみて、
遂に任務にも就かず郷里へと逃げ帰った。
数騎を従えて旧知である成皋県の呂伯奢のもとに立ち寄ったが、
呂伯奢は不在だった。
彼の子と賓客たちが一緒になって太祖を脅迫し、乗馬や荷物を奪おうとしたので、
太祖(曹操)は自ら刃を取って数人を撃ち殺した。
※「世語(魏晋世語)」(郭頒 著)の記述
世語曰:太祖過伯奢。伯奢出行,五子皆在,備賓主禮。
太祖自以背卓命,疑其圖己,
手劍夜殺八人而去。
『世語』に曰く:太祖(曹操)は呂伯奢のもとに立ち寄った。
呂伯奢は外出していたが、五人の子はみな在宅していて、
賓客と主人の礼[禮]も備わっていた。
太祖(曹操)は自分が董卓の命令に背いていたことから、
彼らが自分の命を狙っているのではないかと疑い、
剣を手に取り、夜、八人を殺して立ち去った。
※「雜記」(孫盛 著)の記述
孫盛雜記曰:太祖聞其食器聲,以為圖己,遂夜殺之。
既而悽愴曰:“甯我負人,毋人負我!”遂行。
孫盛の『雑記』に曰く:太祖(曹操)はその食器の音を聞き、
自分が狙われていると思い、
遂に夜になって彼らを殺した。
あとになっていたましく悲しみに打ちひしがれ、
「むしろ我が人を負かせても、
人が我を負かせるようなことはさせない!」と言い、
そこで出て行った。
※「武帝紀」(陳寿 著)本文の記述
出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解。
(虎牢関の関所を出て、中牟県を過ぎたところ、亭長が疑うところとなり、
捕らえられて県へと連行された。
しかし邑の中の或る者に、密かにこれが曹操だと知る者がいて、
その者が請願して曹操は解放されることとなった。)
※「世語(魏晋世語)」(郭頒 著)の記述
世語曰:中牟疑是亡人,見拘於縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,
以世方亂,不宜拘天下雄俊,因白令釋之。
『世語』に曰く:中牟県では曹操を逃亡者ではないかと疑い、
曹操は県で拘束された。
その時の掾もまた、董卓から書状を受け取っていたが、
ただ功曹だけは内心それが太祖だと知り、
世はちょうど乱れているのだから、天下の雄俊を拘束するのは宜しくないと思い、
それで県令に言って曹操を釈放した。
【「魏書」、「世語(魏晋世語)」、「雜記」、三つの関連史書】
『三国志 武帝紀』内の本文の記述では、中牟県で一度捕まった後、
開放されたとしかないが、
裴松之の注釈の、「魏書」、「世語(魏晋世語)」、「雜記」の
三つの関連史書には、
曹操が呂伯奢の家族を斬殺した云々といったことがハッキリと明記されている。
「魏書」は魏、西晋に仕えた王沈による著作で、成立は魏の末期。
この本は、蜀の臣である陳寿が「三国志」を編纂するにあたって、
魏の人物に関してはこの「魏書」を多く参考にして
書いたのではないかとされる書。
「世語(魏晋世語)」は西晋の郭頒の撰で、成立年代もそのころ。
陳寿の「三国志」の成立も、西晋による中国統一後の280年以降辺り。
「雜記」は東晋の歴史家、孫盛による著作で、
大体、東晋建国後の350年前後の頃。
で、これを年代的にみるなら、
陳寿の「三国志」よりも先に成立していたであろう筈の
「魏書」に記載された記述内容が、
「三国志」に書かれていないということは、
陳寿が敢えてカットしたのではないかとも取れるのだが、
が・・・、
孫盛の「雜記」は別として、
王沈の「魏書」、および郭頒の「世語(魏晋世語)」の二つに関しては、
後世、史家からの評価が非常に悪い書物なのだ。
郭頒の「世語(魏晋世語)」は、史書というよりエピソード集といった感じで、
その事実的根拠もかなり、あやふやらしい。
裴松之もこの「世語(魏晋世語)」については、
内容に多少問題があると指摘しつつも、
たまに他の書物とは変わった記事があり、世間でも良く
読まれているということから、
まあ参考として、取り上げていたとのこと。
そして王沈の「魏書」。この書が最も評価が悪い。
どうかといえば、
この書は魏臣である王沈の手によって編纂されながら、
何故か魏の曹氏に対してネガティブな記述が多く、
またその一方、
その後、魏王朝から簒奪して新たに晋(西晋)を興した司馬氏に対しては、
逆にその司馬氏におもねるような記述が多くみられるのだという。
しかしそれもその筈で、
王沈は魏の第4代皇帝・曹髦の時代に、
魏の一臣として仕えていたのだが、
260年、司馬昭の専横に憤った曹髦が、彼を排除する計画を立てた際には、
何と王沈はそれを司馬昭に密告し、
さらに後も司馬氏に重用され、
また司馬炎が晋王朝を打ち立てると、
彼は驃騎将軍・録尚書事・散騎常侍・統城外諸軍事にまで昇進したという、
そんな人物だったのだ。
詰まり司馬氏にベッタリで、
後世、唐代の歴史家・劉知幾などからは、この王沈、および彼の手による
「魏書」について、
「記言の奸賊、戴筆の凶人」、「豺虎の餌として投げ入れても構わない」などと、
そこまで罵倒されているとのこと。(笑)
実際、王沈によって「魏書」が書かれたのは、
時代がもう、魏から晋へと移りかけの頃で、
やはり新たな王朝の支配者となりそうな司馬氏に対しての意識が、
王沈の魏に対しての記述にも、かなり強い影響を与えたということなのだろう。
なので恐らく先ず、呂伯奢を襲った曹操の記述に関して、
「魏書」に記載されている内容は事実無根なのではないか。
だから仮にもし、当時の生きている王沈本人にネタの出所を問い詰めたところで、
“はて?確かそのような話を
どこかで聞いた覚えがあるのですが・・・”といった、
悪い噂話の捏造だった可能性も高い。
だから彼が今後、曹氏から司馬氏への禅譲を睨んだ上で、
“こんな残酷で不徳な行いをしていては、
そりゃ自分達の国が滅んでも仕方がないでしょう”と。
とすれば、
郭頒の「世語(魏晋世語)」はエピソード集なので、
事実の真否に関わらず、出てきた話を郭頒がそのまま拾ったというふうに
考えることもできそう。
そして最後の、孫盛の「雜記」。
これは「魏書」や「世語(魏晋世語)」などより後年に書かれたものなので、
孫盛がそれをみて参考にしたのではないかと思われるのだが・・・。
【孫盛の著述】
しかし孫盛の歴史家としての評価は悪くはない。
裴松之も、
「孫盛や習鑿歯は異同を捜し求めて漏洩なし」と、彼のことを賞賛している。
ただ・・・、
この人に関しては、
“ありもしなかったことをさも、あったように書く”といったような指摘を
受けたりもしている。
例えば「甯我負人,毋人負我!(天下の人が我に~)」という
この曹操の有名なセリフも、
「魏書」にも「世語(魏晋世語)」にもなかったような言葉が、
ここで新たに付け加えられている。
そしてこの文章は後の「三国志演義」の、
「寧教我負天下人,休教天下人負我。」といった、
このシーンのセリフにそのまま流用されることとなった。
裴松之も孫盛のこうした面に関しては一方で、
「『左伝』から勝手に引用した、見当違いな潤色が多く、
事実と違うことを記している」などとも、批判をしているという。
確かにこの孫盛という人は、他にも似たようなことをやっている。
他では後、有名な荀彧の最期の死の場面に言及した、
※(『三国志 荀彧』注、「魏氏春秋」)
「魏氏春秋曰:太祖馈彧食,发之乃空器也,於是饮药而卒。
咸熙二年,赠彧太尉。
(「魏氏春秋」に曰く:太祖(曹操)は荀彧に食の贈り物をした。
しかし送られたのは空の器だった。
これにおいて、荀彧は薬を飲んで卒した。
咸熙二年(265年)、荀彧は太尉を追贈された。)」
という、
これも孫盛によって書かれた一文で、他にはない。
曹操の件も、荀彧の件も、恐らく事実の出来事ではなかったろう。
しかしでは孫盛が、彼が何を言いたかったのか?という点についてみた場合、
全くわからないでもない。
だからガリレオ・ガリレイの「それでも地球は回っている」といった
有名な言葉も、
実際に本人が言った言葉ではないともされるのだが、
しかし彼の人生をみれば、
これはもう、そうにしか言っていない。
だから孫盛などにしても、
彼が事件の内容や状況を総合的に判断して、
例えば荀彧の件ならば、“詰まり、こういう事だろう?”と、
それを表すために、
彼が空の器の話を例えに持ち出して、
説明しようとしたということなのではないか。
孫盛が表わした言葉としてはまた、「武帝紀」内の「異同雑語」に出てくる、
「治世の能臣、乱世の奸雄」という有名な許劭による曹操への月旦評。
この「異同雑語」も孫盛の著。
「孫盛異同雜語雲:太祖嘗私入中常侍張讓室,
讓覺之;乃舞手戟於庭,逾垣而出。才武絕人,莫之能害。
博覽群書,特好兵法,抄集諸家兵法,名曰接要,又注孫武十三篇,皆傳於世。
嘗問許子將:“我何如人?”子將不答。
固問之,子將曰:“子治世之能臣,亂世之奸雄。”太祖大笑。
(孫盛の異同雜語に曰く[雲=云う]:太祖(曹操)はかつて、
中常侍・張讓の室へとひそかに侵入をした。
張讓がそれに気付くと、曹操は庭で手戟を振り回し、垣を越えて出ていった。
才武は人に懸絶し、誰も彼を殺害することができなかった。
ひろく多くの書を読み、特に兵法を好んで、諸家の兵法の抄集を作り、
「接要」と名付けた。
また孫武の兵法十三篇に注釈を著し、皆、世間にひろまった。
曹操がかつて許子將に:“私はどうでしょうか?”と尋ねたことがあったが、
そのとき許子將は何も答えず。
それでも固く曹操が問い詰めると、許子將は答えた。
“君は治世の能臣、乱世の奸雄だ”と。
太祖(曹操)は大笑いした。)」(『三国志 武帝紀』注、「異同雑語」)
ちなみにこれが「武帝紀」本文の記述では、曹操に評価を与えるのが
許劭ではなく橋玄で、
「玄謂太祖曰:“天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!”
(橋玄が太祖(曹操)に言った:“天下はまさに今、乱れているが、
命世の才の持ち主でなければ、この乱れた世を救うことはできないであろう。
よく乱を鎮めることのできる者、それは君であろうか!”)」
(『三国志 武帝紀』 )
と、
なっており、
これが別に、『後漢書 許劭伝』では、「清平の奸賊、乱世の英雄」で、
『世説新語』では、「乱世の英雄、治世の姦賊」となっている。
『後漢書』も『世説新語』も同じ、成立が南朝宋の時代で、
大体400年以降のころ。
孫盛の時代より少し後くらい。
なので『後漢書』や『世説新語』が孫盛のマネで、
孫盛のほうは恐らく橋玄が曹操に与えた評価をみて、それに対し、
“自分ならばこうだ”と、
言い表そうとしたものが、「治世の能臣、乱世の奸雄」という
一文になったのではないか。
だから事実としては嘘でも、表現としていった場合、どうなのかといった問題。
それにこれら孫盛の書き残した表現は、後世いずれも「三国志演義」の中に
そのまま取り入れられて、
しかも最も「三国志演義」らしい表現として定着している。
「三国志演義」は明代までに、様々な民間伝承や説話などを吸収して
成立したものと言われるが、細かなことは不詳。
作者も一般的には羅貫中とされるが、
これも定かではない。
しかしそんな「三国志演義」の成立するまでの過程に、
この孫盛のカラーが色濃く反映されたことは間違いない。
孫盛という人は、非常に抽象的な表現で、物事を言い表そうとしている。
だから「甯我負人,毋人負我!(天下の人が我に~)」という、
彼の曹操を評しての言葉にしても、
これはもう実際の曹操本人の言葉というわけではなく、
孫盛が曹操を見て、抱いた彼の人物評。
自分から見て曹操とはこういうキャラの男だと。
しかし同じ曹操のキャラクターの扱いでも、
「三国志演義」では、どちらかといえば、全編に渡って曹操の残酷さが
強調されているが、
一方、孫盛の残した著述のほうでは、
性格の残忍さというより、もっと曹操の独断専行、ワンマンで頑なな面を、より強調しているような感じだ。
そして「甯我負人,毋人負我!(天下の人が我に~)」の、
後に有名になるその言葉も、
「三国志演義」ではこの一文が、陳宮と曹操の、確執と対立を生む場面に
転用されることとなったが、
あるいはこれが、
実際、史実のほうで陳宮が曹操から離反するきっかけとなった、
その要因について示唆する、
一つの有意義な手掛かりになっているようにも思える。
「后自疑,(後に自ら疑い)」といった、
その疑念の正体について。