曹操の下で
陳宮が曹操に任用されるようになった過程と、そこでの彼の仕事などについて。
陳宮公台。
曹操に才能を認められ重用されながら、何故か突如として謀叛を企て、
そして呂布を反乱軍の総帥に担ぎ上げると、
徐州遠征中の曹操の留守を狙って州郡の大半を獲得。
しかしその後、曹操の巧みな兵略によって逆転負けを喫し、
最終的にその曹操から首を打たれて処断されてしまうという悲運の人物。
ただ非常に優れた人物ながら、陳寿の記した正史の「三国志」には
単独の伝も立てられてはおらず、
なので彼についての詳細は他の曹操や呂布らの、本紀や列伝の中に書かれた、
陳宮に関しての記述を拾って探していくしかない。
※(『三国志 呂布伝』注、「典略」)
「鱼氏典略曰:陈宫字公台,东郡人也。刚直烈壮,少与海内知名之士皆相连结。
及天下乱,始随太祖,后自疑,乃从吕布,
为布画策,布每不从其计。
(魚氏の「典略」に曰く:陳宮、字は公台。兗州東郡の人なり。剛直烈壮。
若くして海内の名士達の皆に知られ、相連結した。
天下が乱れるにおよび、始めて太祖(曹操)に従った。
後に自ら(曹操を)疑い、すなわち呂布に従って、呂布に画策を行うも、
呂布はいつも、その計に従わなかった。)」
「典略」によれば、
陳宮は無官の身ながら、若くして地元で顔の利いた名士のような存在。
やがて曹操に仕えるも、不信感を抱くようになり、遂に離反して呂布に従ったと。
陳宮は初め曹操に仕えるが、
どのような経緯で曹操に用いられるようになったのかは不明。
「三国志 武帝(曹操)紀」にも、その辺りの記述は何も無し。
というより、後に裴松之が加えた注釈の記述を除けば、
「武帝紀」では陳宮が始め、彼が曹操の配下であったことさえ良くわからない。
だから兗州乗っ取りの際、いきなり呂布や張邈らとともに、
曹操の敵として出てくる。
「三国志 呂布伝」のほうでは、
※(『三国志 呂不伝』注、「魏氏春秋」)
「布妻曰:“昔曹氏待公台如赤子,
(呂布の妻が言った:“昔、曹氏は公台(陳宮)を赤子の如く
待遇しておりました”と。)」
と、
陳宮は曹操から、我が子のように可愛がられていたなどと
記されているほどなのに、
「武帝紀」では何か、始めから他人扱いのような感じ。(笑)
陳宮の生年は不詳ながら、「赤子の如く」というように、
かなり曹操とは年齢がかけ離れていたような感じである。
陳宮のほうがずっと若い。
若い才子。
その若い陳宮が、曹操に一体どのように任用されていたのか?
『後漢書 呂布伝』には、
※(『後漢書 呂布伝』)
「兴平元年,曹操东击陶谦,令其将武阳人陈宫屯东郡。
(興平元年(194年)、曹操は東[东]に陶謙を撃[击]ち、
その将で、東郡武陽[阳]県出身の陳宮を
東郡に駐屯させた。)」
などと書かれている。
194年、曹操が亡父の復讐として向かった、徐州の陶謙征伐の際、
陳宮は東郡の留守を任されたということだろう。
若いながら陳宮は曹操から一郡の支配を委ねられるほどの、強い信任を得ていた。
東郡は兗州を構成する一郡で、
そして東郡は曹操がまだ兗州牧に就任するよりも前に、
彼が太守として勤めていた郡だった。
なので、曹操が初めに東郡太守として赴任してきた際に、
地元で名の知れた陳宮が、曹操によって登用を受けたということのようである。
(兗州周辺地図)
そして曹操が東郡太守を勤めていたときに、
例の青州黄巾賊100万人が、大挙して襲ってくるという大事件が発生する。
非常に大規模な黄巾賊の侵攻で、
これにより兗州では任城国の相・鄭遂が殺害されただけでなく、
さらにはこの賊徒の討伐に向かった州のトップ、兗州刺史の劉岱までもが、
彼らの返り討ちに遭い、亡き者とされてしまった。
州の長官さえ殺害されてしまう大混乱の中、
そのとき陳宮が曹操の前へと進み出て、自分が兗州の役人達を説得してくるから、
あなたが新たな州の長官として、
青州から兗州へと乱入してきた黄巾賊徒どもを撃退せよと、
曹操に向かって進言を行う。
だけでなく陳宮は実際に自ら州治府にまで出向いていくと、
兗州役人の幹部である別駕や治中の従事史たちを説得し、
曹操を新たな州牧として就任することを受け入れさせてみせるのだった。
※(『三国志 武帝紀』注、「世語」)
「世語曰:岱既死,陳宮謂太祖曰:“州今無主,而王命斷絕,
宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。”
宮說別駕、治中曰:“今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,
若迎以牧州,必寧生民。”
鮑信等亦謂之然。
(「世語」に曰く:劉岱が既に死に、
陳宮が太祖(曹操)に謂いて曰く:“州に今、主無く、
王命は断絶しております。私は赴いて州中を説得して参りたいと思います。
明府(曹操のこと)は後から尋ね往きて州牧となられますよう。
そしてそれを資として、天下をお収めください。
これぞ覇王の業です。”と。
陳宮は別駕、治中を説得して言った:“今、天下は分裂しながら州に主も無い。
曹東郡太守は命世の才の持ち主です。もし彼を州牧に迎え入れたのなら、
必ず民を生かし安んじることでしょう。”と。
済北国の相・鮑信らはその通りだと言った。)」
実質、陳宮は曹操を郡太守の地位から州牧の座に引き上げた功労者となるわけで、
これにより、陳宮は曹操から、
大幅に強い信頼感を勝ち取ったに違いない。
【陳宮と荀彧】
そして曹操がまだ東郡太守をしていたころ、
そのころちょうど、世の人から「王佐の才」の持ち主と謳われたあの荀彧が、
袁紹の下を去って、曹操のところへと仕官してくる。
※(『三国志 荀彧伝』)
「时太祖为奋武将军,在东郡,初平二年,彧去绍从太祖。
太祖大悦曰:“吾之子房也。”以为司马,
时年二十九。
(時に太祖(曹操)は奮武将軍として、東郡に在った。
初平二年(191年)、荀彧は袁紹の下を去って太祖(曹操)に従った。
太祖(曹操)は大いに悦んで言った:“我が子房(張良)だ。”と。
以って荀彧を司馬となした。
時に荀彧、29歳のことであった。)」
曹操は36歳。
陳宮はまだ、荀彧よりも少し若かったかもしれない。
曹操は袁紹の下を離れてやってきた荀彧に対し、
漢の高祖・劉邦を支えた名軍師の張良子房になぞらえて大喜びし、
彼を自分の軍司馬として採用した。
荀彧の任命された軍司馬というのは将軍の下で軍務を掌る者のことで、
一方、陳宮のほうはといえば、
194年(興平元年)の段階で、「其将武阳人陈宫(その将の陳宮を)」と、
『後漢書 呂布伝』には書かれていたが、
この“将”というのは、なになに将軍なのかということも不明。
しかしながらもしこれが、曹操が当時、自分が称していた奮武将軍と対等の、
同じ将軍としての立場に陳宮を置こうとしていたのではないかとみれば、
陳宮はそれこそ荀彧より、曹操の下にも置かれぬほど、
破格の厚遇を受けていたのではないかと考えることもできる。
曹操本人の伝記内での陳宮の記述はゴッソリと削り取られてしまっているが、
各種の関連史書から総合して、
曹操の陳宮に対する信任は本物だったとみて間違いない。
そして曹操の陳宮個人に対しての信頼も待遇も、
何ら不足するようなことはなかったのだが、
それをやがて陳宮のほうから一方的に、
「后自疑(後に自ら疑い)」と、
曹操を裏切って彼の留守中に呂布を引き込んで謀叛を起こし、
兗州乗っ取りを企てることとなった。
果たして一体、彼の身に何があったのか・・・・・?