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雁が涯て  作者: 市川イチ
第二部
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 【二】


 ある夏の宵、ヒバが小漁からもどったときのことである。ふと丘に目を遣ると、村の衆がふたりか三人、波打ち際に水樽をならべて腰かけておるのが見えた。おろした小舟に縄を掛けながら、内心ははあ、と思うたが、ヒバはまったく気楽な思いでいた。今宵はどうせろくなイトがあがらん。お天道様とおれの眼が揃ってそう言うとるが。

 早々とそうふんでいたので、さっさと魚を狙うてきたわけである。空模様を見るに、それはどうやら正解と見えた。ヒバは空を読むのが巧い。幼い頃に父タカにさんざん仕込まれた宝の二眼である。その眼が今宵はなしと告げている。それだから、今晩は静かにスズとふたりで魚でも喰って、ささいな話などしようと思うていたところであった。

 イト採りは、イトの上がらぬ日は魚をとって暮らすのがふつうである。イトは常にあがりつづけるものでなく、またイト採りは眼と手をいためるのを恐れるので、ほかの仕事はやらないのが定石である。ではどうするか。イトがあがらねば金がない。そこで己の食い物はおのれで採ることとなるわけである。

 ただしイトの者は、山に這入ることはできぬ。山は猟師の縄張りである。イト採りが海を譲らぬように、猟師はイト採りが山にくるのを好まない。いっぽう漁師はイト採りと共存する。そのため、イト採りどもは漁師から魚に相対するすべを習うことができた。ヒバも然り、この村に来てほどなく、先達のイト採りに漁を習った。父タカは魚などとらなんだが、と言うと、それではおまえの父はよほど腕がよかったのだ、ということだった。

 とまれ漁は、おぼえてしまうと中々楽しいと思われた。なんのことはない、イト籠が網に替わるだけのことであった。ときに銛もつかう。だが銛は、いかにも痛そうでヒバは得意ではなかった。死んだ魚をさばくのは慣れたが、生きて海をおよいでいる魚に銛を突き刺すのは何度教わってもできるようにならなかった。どうしてもためらわれた。陸に上がれば魚はだいじな糧である。魚を喰うのは好きである。だが海にあるうちは、そこは魚の縄張りである。銛などつかっては、いかにもヒトの奢りのように思われた。ヒバは網ばかりつかうようになった。イトを採るときのように、慈しむように、優しゅう出来るからである。

 体の弱いスズのために、夕餉はヒバがこしらえるのが常だった。スズはそのことをひどく気に病むが、ヒバはなに気にするなといい、せっせと夕餉をつくってスズに食わせた。飯炊きは嫌いではなかった。スズが厨に立てぬことは、ヒバが誰より知っている。

 いつのころか、スズが、あなたはイト採りをやめたら包丁で食べていけるわと言ったことがある。ヒバは笑って手を振った。おれはイトを採らんでは、一日たりと生きておれんよ、というふうに答えた。おれの眼は、海の中の暗がりで光るイトのなんともいえず美しい色を一番最初に見るためにここにこうしてついている。その色をいつかお前に見せてやりたいとヒバはいい、スズは、素敵ね、と答えたのだった。

 そんなことを思い出しながらである、夫婦二人でつつましやかに食うばかりの雑魚を泳がせた魚籠を腰からさげて、ヒバはうちへ向かって歩きだした。男たちは何やら酒を囲んで話し込んでおるようだった。この時期はままあることである。イト採りは、夏の宵は早くからこうして海辺に陣取り、海の様子をながめていることが多い。イトのくるのを待つためである。イトのあがる様子とは、これまた見抜くのが難儀である。おおむね勘頼みとする者も少なくなかった。今宵はどうだ、さあ分からん、たぶん上がらんだろうと口先で昼間言うておいて、夜にこそこそと舟を出すのは常である。これはイトの者の慣習において卑劣とはされない。出し抜かれたほうがとんだ間抜けなのである。

 イトは沖合に出てしまうとさがしにくいものである。陸にいるうちにあらかじめここと決めておかねば、沖合までこぎ出す間に海の水に目が慣れて、ちいさなイト玉を見誤るためである。月のある晩はとくに、光がはねかえるので、すぐれたイト採りの眼をもつ者でも苦戦する。

 そのため夏のイト採りどもは、夜に備えて昼間にねむり、夕暮れ時になるとこぞって海辺に這い出して来る。こうして酒をくらっていても、今と見ればみな文字どおりに目の色を変え、我先にと小舟を駆る。このときつかうのは、一人漕ぎだが船足のたいへん速い、笹駆とよばれる独特の舟である。イト採りが決して酒に酔わぬといわれるのはこのためである。

 ヒバが横を通りがかると、この数年ですっかり顔なじみの男たちは、よう、と手をあげて気軽に挨拶を寄越した。ヒバも片手を挙げて応じた。そのなかに、ヒバに漁をおしえたハチという男がいた。ヒバは詳細を知らぬが、二十年ほど昔に、やはり他所からやってきて住み着いた男だときいている。ヒバより五つばかり年長だが、実に人懐こい男で、どことなく抜けてもいる。職人気質でかたくなな者の多いイト採りにしてはめずらしい性質である。同じく人懐こい性質のヒバともよく気があった。

 獲れたか、と訊いてくるので、正直に魚籠を振って見せ、スズに食わしてやる分だけだと言うと、ここに来たときはきかん気ばかり強かった子供がいっぱしのことを言うようになった、と笑いがおきた。あたりまえだ、スズを食わせてやらねばならぬ。おれはあいつの亭主だからな。またどっと笑いがおきた。

 男たちの一人がおおげさに手を振って笑いだした。

「どうやら無駄酒じゃ。今宵はヒバがイト舟を出さん」

「酒に無駄などありゃあせん」

「分からんぞ。夜中にしゃあしゃあと出る気か、なあ」

 ヒバは舌をだした。

「スズの具合があんまり良うない。おれは、しばらくは夜の漁を休む。おれを出し抜くなら今夜かもしれんぞ」

「こいつ、言いよる!」

 しばし歓談がつづいた。

 そうするうちに、ハチがふと顔色を変えて妙なことを言い出した。「――スズの具合が悪いんは、ほんとうか」

「いつもといえばいつものことやが、ここ数日ひどいらしい。立ってられんというので、寝かしとる」

 ハチはなにやら考え込むように、丸顔をうつ向かした。みなが顔を見合せていると、意を決したように顔をあげて語り始めた。

 そのハチが言うには、先日イトを売りに出たとき、この界隈で不気味な男を見かけたということであった。すっかり売れたイト籠を下げ、銭と少しばかりの酒をかかえて上機嫌で村に戻ったそのとき、村の入りぐちに、髪の長い男がひとり、たたずんでいたというのである。このあたりではとんと見掛けぬ風体のその男は、ちょうど村と街道との境目に、ぼうと無言で立っていた。いっけんは若者と見えた。背は高かったように思うが、どうも不可思議な感じがし、何故だか人相の掴めぬような風体であったという。

 不審に思い、誰何の声をあげたハチを、男はふらりと見遣ったが、唇は中途にひらかれたまま、言葉が出ることはなかった。そのため男の声は聞かれぬままだったという。ただそのうすい唇の形だけはいやに記憶に残った。

 なおも見ていると、男はまたふらりとどこかへ立ち去って行った。そのとき、男の長い黒髪がいつまでもなびいていたのが、いかにも未練がましく村にへばりつくようで、何やらぞっとしたとハチは言う。

 平生ハチは恐がりなたちである。海の男に似つかわず、日頃から微々とした風の音にもひょうと声をあげてとびあがる肝の小さい様は、村の中では知らぬ者のないほど評判である。その様子は歳をくってもまるで変わらない。むしろ年々ひどくなる、と村の者は笑っていうものである。また海に出れば決まって桃色のイトばかりとってくるのも、なんとも笑いの種であった。

 そのためヒバは、このときは話半分、おもしろがって聞いていた。ハチは何につけ大げさで困ったもんじゃ、と内心で思うていた。なにしろ風に下着が揺れておるのを、夜中にゆうれいと見まごうたことのある男である。おい、その男はおまえにおかしな真似をせんかったか、操は無事に守ったろうな、とふざけて問うと、ハチはからかいの腕をはねのけた。「おまえがそんな様子では、スズを任せておれんぞ、おれは」

 その様子がいやに真剣であったので、ヒバはたまりかねて唇を尖らせた。スズは己の嫁である。「スズのことはおれがしっかり守っとるが。大きなお世話じゃ」と言うた声が、すこしばかり拗ねたような響きとなった。

 ヒバが村に来る以前、スズの兄貴分として何かとめんどうを見ていたのがこのハチである。スズにとっては幼馴染の間柄である。ひっくり返しのハチといるときは、スズもよう笑っていたと、あとからヒバは村人に聞いた。

「その不気味な男とやらも近づけん。おれが眼の玉ふたつで見張っとる」

 と眼を剥くと、すかさず野次がとんだ。「ヒバの眼ァ、安心していいぞハチ、そりゃお墨付きじゃ……」

 ハチはまだ納得いかぬという面持ちであった。笑い事ではない、という。そもそもイトの村には余所者が来ぬのがふつうである。ましてイト採りでもない人間はめったにやって来ぬ。イト採りは、ちかごろでは都からの買い付けを待つより、じぶんの足で売りに出るのが主流となった。

 ただし近頃はこの国をみな一紙のうえで地図にしたいとかいうお上のお達しで、山沿いにも海沿いにも街道がちょくちょくと整いつつある様子でもあり、いかに古くは幻といわれたイトの村とて、いまや街道を進めばたどりつくというだけの、ただの村となった。旅人がふらりと迷い込んでくるようなことは、いかにもありそうと思われた。

 だがハチはくどいぐらいに念を押した。あんまりうるさいので、ヒバが何か思うところでもあるのかと尋ねると、ハチは逡巡の後うなずいた。「ようわからんが、たぶん気のせいではない」

「そう怖がることなかろう。おまえの勘があたらんのは皆承知のうえじゃ」

「えろう不気味な男じゃ。どこかで見たことのあるようにも思うが、出てこん。だがいやに気分の悪い男じゃった。ヒバ、おまえ、スズを家から出すなよ。具合が悪うて寝とるなら、おまえがつきっきりでいろ」と、最後にハチは言い置いて、ひとり先に腰掛けを立った。

「イトは」

 思わずヒバが声をかけると、ハチは背中のまま言うた。「おまえが舟を出さんのにか」

 取り残された男たちはそれを聞いてまだ笑っていた。ヒバはそのとき何かひっかかったような心持がし、笑おうとした声が上っ滑りになった。

 ハチの様子に興醒めしたか、言葉通り眼利きのヒバが舟を出さぬことで今宵の漁を見限ったか、とまれ男たちはさほど深くもない酒をここで切り上げた。水樽を小屋へ蹴転がし、のこった酒をさっさと集め、ヒバの肩をたたいて、めいめいのうちへ戻っていった。漁をしないと決まった夜のイト採りは酔う。ひとりはともかく、もうひとりは足元おぼつかぬありさまであった。

 遠い海が原を見遣れば、夕焼けの向こうに群青の闇が、すぐそこまでせまっていた。





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