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雁が涯て  作者: 市川イチ
第二部
7/16


 【一】


 イヅルの村の西のはずれに、若夫婦が住んでいる。

 夫はイト採りである。腕のいいイト採りである。いつもぱさぱさの黒髪をうなじで縛り、実に闊達なたちで、いやみなところのまったくなく、大口をあけてよく笑い、背が高く、手足が長い。イトのあがる時期になると、誰よりも早く舟を出し、ほかの誰よりも美しいイトを山ほど採ってもどってくる。どうやら黄色が多いようである。ときおり青みがかったり、橙じみていたり、緑がかったりすることもある。まだ年若であるからか、この男の採るイトには熟れぬがゆえのすがすがしい風合いがあった。色こそまだ落ち着きを見ぬが、しかしどのイトもすばらしく美しかった。また黄色のイト採りは、総じて奇縁の者である。一見ありがちなように思われ、しかし実は、黄色のイトがあがることは珍しい。黄色のイトをよく採る者は、昔から家を離れ故郷を離れ、奇縁をつかむとされている。こういう者を運命星とよぶことがある。イト採りは海辺にしか生きられぬものであるから、この星に生れついたと思しき者は、たいがいなにがしかの苦労をしょって生きることになる。それを思い悩むか笑い飛ばすかは当人の性分による。人はだれでも苦労せずには生きられぬ、はたして人のさだめなど、己の手ではどうにもならぬとさっさと承知している者は、とりあえずは笑い飛ばすものである。どうやらこの者は後者である。

 鑑みるに、たしかにこの者はこのイヅルが村の生まれではなかった。さかのぼること五年ほど昔、どこかからかやってきて、イト採りの腕前ひとつで棲みついた。

 イトの村は人がすくなく、閉鎖的であるのがふつうで、よそ者は容易に受け入れられぬものである。ましてやこの青年がやってきたころ、彼はまだ子供であった。十四ほどの、気ばかり強そうな、だが素直な眼をいっぱいに見開いた、手足のそれは伸び伸びと長い、いかにも健やかそうな子供であった。そのほかにはこれといったところのない子供と見えたが、ただひとつちがっていたのは、その眼がまぎれもなくイト採りの眼であったということである。炯々と、爛々と、それでいて水底のように静かな光をためこんだ、イト採りが持つ眼であった。

 その眼は少年の身をたすけた。いまや知る者もなく、誰とも知れぬ馬の骨が唯一これといって見せることのできる己の証明であった。おれはイト採りだ、というその言葉は、その眼をもって真実とされた。イト採りはイト採りの眼を見抜くものである。その眼をもっていたことで、少年は村に住みつくことを許されたが、何か月かの間は、波打ち際の掘っ立て小屋にひとりで棲み、イトを採っては選りすぐって村が長に見せた。ここに真の意味で住み着くには、そうして己の腕を証明せねばならなかったのである。

 半年が経つ頃、少年は村に迎え入れられた。おくれたが、名をヒバという。

 三年経って妻女を得た。妻スズは、黒髪の長い、おとなしい気性の女である。この村で生まれ育ち、この村から一歩も外へ出たことがない。つねに楚々とした立ちふるまいで、荒くれぞろいのイトの村には、こういった女はめずらしい。ヒバと所帯を持って二年になるが、そのあいだ一度も夫と喧嘩をしたことがない。言い争うこともない。おのれの腹にあることを、めったなことではおもてに出さぬ。

 長くひとりで立っていられぬほど体が弱く、口数も少い。眼の大きい器量よしであるが、いつも心もち顔を伏せているために、なかなか面と向かうことがない。少しばかり青じろいが、それが可愛いのだ、あいつは都の女よりきれいだとヒバはぬけぬけ言うものである。声は名の通り鈴の鳴るように美しいが、か細い声色で話すので、この夫婦においては、背の高い夫ヒバが彼女の口もとに屈んで耳を寄せておる姿がよく見られた。仲睦まじいと評判である。

 夜、いろりの端に座って、若夫婦は話をする。ヒバはときどき、自分の生まれたイトの村の話をする。おれの父もイト採りだった、きれいな色のイトを採った……おれはな、スズ、いつか群青のイトをこの手で採りたいと思うのだ、この世で最も美しい青、イト採りがそう信じる色、おれはまだ見たことがない――

 群青のイト玉は、イト採りのあいだで長いこと噂され続けているものでる。イトはさまざまな色をもち、イトに染まらぬ色はないと言われるが、ただひとつ、海の色がそのまま吸い込まれたかのような群青のイトだけは、不思議と容易にあがることがなかった。紅も萌黄も若草色も、緑に山吹、ときには白、黒ですら、イト玉はいろとりどりに海の底からあがってくるが、そこにただひとつ、無い色がある。それを見つけるのは、腕の良し悪しなどでない、なにかべつのことが作用するのだとヒバの父タカは口癖のようにかつて言った。イト採りの腕前はおれもおまえもそう変わらんのだ。なあ、そうだろう、おれの息子よ、ヒバよ。そう話をする父は心なしか嬉しそうであるのが常だった。

 海からあがってきたばかりの、色とりどりのイト玉のなかに、ときどき、ほんとうにときどき、ひときわつややかに輝く青が混じっていることがある。それこそが、この世でもっとも美しい色、イト採りがそう信じる色、竜王の群青である。ヒバはときどきそれを夢に見る。月光に照らされて白じろと輝く手の中に、ひっそりと息づく神の色の、その姿を、まぼろしのなかに確かに見る。

 スズはたずねる、あなたはどうしてこの村に来たのか。黒い瞳を不安げに揺らしてたずねる。ヒバは決まって、そうしろと言った奴がいた、とだけ答えるのだった。彼が十四のときに村を喪い、家族を喪い、寄る辺ない身となってこの村にやって来たのだということを、スズはそうして知ったのである。そのあいだに、おそらく何日かつづいたに違いない旅のあいだのことを尋ねぬのは、彼女の気遣いである。村の者もおなじである。イト採りにかぎらず、閉ざされた小村に生きる者は、おたがいの過去に手を触れぬをよしとする。そのためヒバの過去には、いまだにだれもなにも触れぬ。ヒバはその心遣いに感謝する。イヅルの村人の、その悪意ない気だての良さに、頑是無い年若の少年の頃から、彼はいく度も救われてきた。

 少しばかり二者の出会いにさかのぼる。ヒバがこの村に来て間もないころであった。ヒバが十四、スズは十二のころである。

 はじめ、疲れ果てて山間から降りてきたこの少年に村人はおどろいたが、まだ年若の子供ひとりほうっておくのがはばかられ、けっきょくは招き入れて介抱をした。どうやら長い旅をしてきたと思われた。着物はところどころ擦り切れていた。野宿が長かったとみえ、髪紐には泥がしみついていた。履物はなかった。足の裏はおとなも驚くほど頑丈であった。

 粥を食わせ、寝かせると、生来頑健なたちであるのか、ほどなく頬に赤みがさした。名を尋ねればヒバと答え、家はときくと、この先の、ずうっと先の、イトの村からきたと答えた。おまえはイト採りかという問いには、大きな眼をみひらいて、ああそうだ、と答えた。

 この家の小さな娘がスズといった。スズはヒバの着物を洗い、髪紐を洗い、枕辺に座って何かれとなく世話をやいた。体の弱い娘のことであったので、周りのおとなははらはらと様子を見守ったが、少女はか細い手でかいがいしく立ちふるまった。間もなくヒバが元気になると、その有様は逆転し、今度はヒバが何かとスズを気にかけるようになった。こわれもののようなスズを、少年は不器用な手で大事にあつかった。

 やがて二人の間が慣れてくると、気弱なたちであったスズを、闊達なヒバはどこにいても物陰から見つけ出し、手をつないで引っ張り出した。ヒバには生来このように、世話焼きな気質があった。スズの体の弱いのに合わせ、無理じいな遊びは決してしなかった。砂浜に絵を描くの、貝殻を拾うのと、よく面倒をみてやり、ときにはスズの黒髪に飾る花をとってきてやることもあった。ヒバのよく笑うのを、スズは好ましく思った。日ごろ陽の光を避けるようにして、奥の間の暗がりで暮らすスズにとっては、ヒバの笑顔が太陽となった。スズがそれでも具合を悪くすると、背負って家まで連れ帰ったものである。そうして世話を焼く様子を、村の者どもはしだいにほほえましく思うようになり、誰ともなく見守った。

 起きているあいだじゅう、兄妹のように、つがいのように、二人は常に一緒であった。それだからスズに初めて女の障りがあったとき、何も知らぬヒバはたいそう慌て、村じゅうの大人を呼ばわって助けを求めた。顔を真っ赤にしたスズが、ことの次第を知らされてこれまた真っ赤になっていたヒバを弱々しくも殴ったのは、このときが最初で最後である。

 最初に心を寄せたのはおそらくスズのほうであるが、ヒバのほうでも、妹のようだったスズが女としての存在をもつのに、時間はそうかからなかった。わづか十四歳だった少年は、一年、二年が経つうちに、きかん気の子供から男になった。手足がさらに伸び、肩幅がたくましくなるのと同じくして、ヒバには好いた女を護る男の力が根付いた。

 やがてふたりが所帯を持ったとき、村人はみな夜中まで祝った。よい祝言の夜であった。


 夜毎の眠りに、ヒバはかならず夢を見る。この村に来た日から、毎夜くりかえされる一つの夢がある。となりに眠るスズを起こさぬように、スズの夢を邪魔せぬように、ひっそりと、頭のなかだけで夢を見る。

 その夢のなかでヒバは十四の少年のままである。小さな小舟に飛び乗って、沖へぐんぐん漕いで行く。陸が消え、村が消える。ヒバの船は月に冴え冴えと照らされて、真っ暗な沖をどこまでも行く。イト玉はひとつも無い。眼下には黒い水が、ただまっくらな水がわだかまる。イト玉のあがって来ぬ海を、ヒバは独り、ぽつねんと漕ぎ続けている。

 いやな汗をかいて眼を覚ますと、きまって心臓が早鐘を打つ。なにか追いかけてくるような、奇妙な焦燥に追い立てられて、のどがひどく乾いている。





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