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雁が涯て  作者: 市川イチ
第一部
6/16


 【五】


 それからまた四日ほど経った宵口である。

 タキは不意にまた近場の町へ降りると言い出し、ほどなく街道へ抜け出ると、ヒバを独り待たせておいて、さっさと民家に宿を借りてきた。こたびは宿場町でなく、村というにすら及ばぬような家々の寄せ集めであったので、一室をかろうじて借りられるのみであった。見渡すに、どうかすると全体で十人も住んでおらぬのではないかというふうにも見えた。

 そうしていざ見知らぬ家に連れてこられたヒバは、わけもわからずタキの顔を見上げたが、この不可思議な連れが例によってお前ひとりが厄介になれと言うたので、今度こそ少しばかりのいらだちを覚えた。やり込められてなるものかと、少年は少しばかりの抵抗をした。家人らしき中年女に向かって、この髪長の男は連れなのだと繰り返し、どこでもかまわぬから二人一緒に泊めてくれるよう頼んだのである。時世にそぐわず、随分と人の好いたちであるらしい中年女は、少年の頼みを快く了承し、タキにも泊まってゆくよう勧めたが、タキは一向に構わず、家人にむかってこの少年だけでよい、明日の朝に迎えに来るから、と言い残してまたどこぞへと姿を消した。このようなことは二度目であった。

 ヒバはおとなしく部屋に通されたが、ますます腑に落ちぬことだらけの夜となった。こうなると、同行者の謎だらけの有様が気にかかって仕方ないのである。あの男は、前のときもこんなふうにしておれだけを宿へ泊らせ、自分はどこかへ行ってしまったのだ。あの火事がなければおれたちは朝まで顔を合せなかったにちがいない。こたびも、朝になれば迎えに来るとあいつは言うた。ではこの長い夜を、あいつはどのようにして過ごしているのか?

 おかみの敷いてくれた布団に横たわったまま、ヒバは長いこと考え込んでいた。眼はぱっちりと冴えていた。そのうちに、ふすまが開いてタキが戻ってくるのでないかと期待したが、夜はその深い底に冷え冷えとヒバを閉じ込めたまま、いっこうに動かない。あの憎たらしい白い顔も、長ったらしい黒髪も、今はのぞくことがない。じりじり焦げ付くような頭の上を、時ばかりが過ぎてゆく。

 まず先に考えついたのは、女がおるのではないかという想像であった。ヒバもいくら年若とて、海育ちの少年は女を知るのが早いとよくいわれるように、あの年頃の男がそう長く女を抱かずにおれぬのはよく知っている。タキは、見ようによっては男ざかりの歳にも見える。少なくともヒバのように子供ではなく、爺というほど老いてもおらぬ。だがそうそう都合よく、行く先々に顔見知りの女がいるとは思われぬ。道中で文をかわしているようなこともない。鳥が飛んできたこともない。タキは前のときも、こたびも、ふと思いついたように町場へ降りると言い出すのだ。それはどうも違っているように思われた。女などではない、もっとなにか、別の……

(ええい。性に合わん)

 ヒバは生来勝ち気な性分である。このようにひとり悶々と考え込むのは、いかにも苦手なことであった。そうだ、何をあのような男に気兼ねすることがあろうか。この目で確かめてやればよいのである。

 そう決めてからは早かった。ヒバは布団から跳ね起き、髪もざんばら解いたまま、身支度もそこそこに飛びだした。「あらどこへいくの」と、水端で大根を洗っていたおかみさんがいかにも優しげに声をかけてきたが、ヒバはあいまいな返事をして走り去った。いつの間にか夜がふけていた。

 夜空に炯々と三日月がぶら下がっている。その明りは今、ヒバの足元を心強く照らしていた。


 ***


 さほど遠くへも行かぬうち、少年はタキの姿を見つけた。

 村からそう遠くはずれてもいないほどの水沢だった。橋もかからぬ小沢である。見たのは、そのほとりに腰を下ろし、ぼんやりと水面を眺めている姿一ツだった。黒髪が夜風に吹かれて流れていた。いったい何を考えているのか、いつものごとくその横顔からは読み取ることはかなわなかった。ただ青白い夜に照らされて、男の面差しはますます鋭く、それでいて妙にさびしげに見えた。

 声をかけてよいものかどうか、ヒバはここへきて迷っていた。声をかけたとて、この男と己との間に、いったいなんの話の種があろうかという考えもした。今までどれほど実のある話をあいつとしたか、否、ほとんどしなかった。それでなおヒバはここにいた。互いの声のかろうじてとどかぬほどの距離をもって、二者はそれぞれ、夜のふちに何がしかのか細い痕を刻むように、今このときこの場所に在ったのである。

 やがて少年は少し困惑した。どこへ行ったか、何をしているのかと勘繰り勘繰り来てみれば、何のことはない、大の男が沢のほとりで座り込んでいるだけである。ばかばかしい、というような心持がした。これでは、はじめから何も案ずることはなかったのではないかと思うた。みなおれの思い過ごしであったか、どうやらそうにちがいない。おとなしく戻って眠ってしまえば、明日の朝この男は何事もなく迎えに来るのではないかという気がした。実を言えばこのとき、ヒバは、タキが自分を置いてどこかへ行ってしまうかもしれぬことを心の片隅でわずかに危惧していたのである。

 ヒバはさらにいくばくか逡巡したあとで、きびすを返そうとした。だがその一刹那に、ほんの一瞬の差のために、ヒバの耳はその声を聞いたのである。おそらくは聞くべきでなかった声を聞いたのである。

「赦せ。赦せ、赦せ……」

 まぎれもなくタキの声であった。ヒバはもと来たほうに戻りかけた足を止めた。またゆっくりと、音のせぬように、タキの背が見えるほうへ向きなおった。タキはこちらを振り向いてはおらぬ。どうやら独り言である。だが確かにその声は、「赦せ」と言うたのである。

 ヒバは今度こそぼうぜんとした。あの男が誰かに赦しを請うことがあるなど、考えもしなかったからである。それであって、これまでほとんど感情らしい感情をのぞかせたことのなかったタキという男が今、口にしたその言葉に、たとえようもない悲哀がにじんでおるのを、ヒバの耳ははっきりと聞き取っていたからである。

 このとき、さっさと立ち去っていれば、すぐのちにタキが振り向いたとき、顔を合わせずに済んだはずである。ところがヒバはすっかり呆けてしまっていたので、その場から去ることを忘れていた。いかにも間抜け面をさげて、そこにぼんやり立っていた。

 やがて、必然、背後に何かしらの気配を感じたタキが振り向き、そこにヒバの阿呆面が立っているのを認めたとき、当のヒバはまるで動けもせず、はっきりとその目線を交錯させたのである。


 タキは驚かなかった。勝手に追うてきたことをとがめもしなかった。ただヒバを見て、やや困ったふうに首をかしげるのみだった。

「聞いたか」

「何を」

「おまえの聞いたことを」

「赦せ、とお前が言うのを」

 そうか、と呟いて、タキはまた暗闇の水面に目をもどした。それきり何を言うでもなかった。去れというでもなければ、自分で立ちあがって去っていく様子もみせなかった。ヒバは所在なく唇を噛んだ。近寄るべきか離れるべきか、その場で足をさまよわせた。いま、ここでこの男と話をすることが、何故かは分からないかが、ある種あぶないことであるようにも思われた。

 たっぷり数瞬ほど躊躇うてから、ようやく意を決し、ヒバはタキのいる場所に大股で歩き出した。沢に近づくと、足もとの草が水に濡れて音をたてた。それであってタキはヒバの足を指でさし、そこは滑るぞ、気をつけて歩け、などと言うのだった。

 タキの隣に腰を下ろすか否か、それも数瞬迷ってから、結局は座り込んだ。タキはなおも何も言わなかった。そうして二人でしばらく水の沢のさざ波と、そこに映る星々をながめていた。

 どれほどにか経った頃、タキがぽつりと呟いた。

「飯は食わせて貰ったか」

「ああ」

「旨かったか」

「まあまあだ。おれの母ちゃんのつくる飯のがずっと旨いが、ぜいたくは言えん」

 タキの横顔は静かに笑ったようだった。「そうか」

 まるで兄のごとくに優しい微笑みであった。母の話などしていごこちの悪くなったヒバは口をとがらせた。

「おまえこそ何も食うてなかろう。やせ我慢しいは分かっとるぞ」

「やせ我慢?」

「おれは最初、おまえがあんまり飯を食わんから、仙人かと思うたが」

 ヒバが言うと、タキはついにごく小さく吹き出した。続けて、「阿呆」とつぶやいた。

「おれとて、食うもの食わねば生きていかれぬ」

 と静かにいった。その声がいやに深みを帯びている。海にも似た、茫洋とした遠い声である。いつものあの声である。ヒバを不安にし、心をざわつかせる声である。

 ヒバは常々気にかかっていたことを、今なら訊けるというような気になって、ついにこう言うてみた。

「おまえ、何を食うて生きとるんじゃ。霞か」

「おれは――」

 何を訊いてもろくに答えぬのがこの男の常であるが、タキはこのときばかりは何事か返そうとした。それは奇妙なほど真摯な様子であったと、のちにヒバは思い出す。今この一瞬、このときは、ずっと後に迎えることとなる唯一つの夜を除いてはまさに最初で最後、タキが何事かを真の意味で語ろうとしたときであった。そのずっと後の夜のことについては、やはり、ずっと後に語られることとなる。

 いつになく会話のつづくことに驚いたヒバはだまって言葉を待ったが、やがてタキはふとその続きを呑み込んでしまった。それぎりまた黙り込んだ。

 

 やがてどれほどにか無為な時間が過ぎたころ、タキは立ち上がった。

 ヒバに先に戻れというて、なおもどこぞへ歩いて行こうとした。明日の朝には必ず迎えに来るという。おまえには行李も預けてある、おまえをイヅルへ連れてゆくという約束がある、置いては行かぬ、信じて待て、という。それはいかにももっともなことと思われたが、そんならなぜ、何処へ、何をしに行くということをおれに言わぬ、とヒバも食い下がった。

「どうしておれに内緒にする」

「早う行け。戻れ。あの家に戻れ」

 と、タキは言う。心なしかそこの声に、一片の焦りが滲みだした。

「早う行け。なんのためにあの家を借りたと思うている」

「おれはさっぱりわけがわからん。お節介を焼いたり、隠し事ばかりしよったり、おまえはいったい、何がじゃ。おまえはなぜおれといっしょにおるが、タキ」

 頑是無いヒバにわづかにいら立つ様子を見せたあと、一瞬の沈黙を置いて、タキはまなざしを鋭くした。

「行かんのならここにいろ。だが見るな。なにも見るな」

「おまえの言うことは、さっぱり分からん!」

 ヒバが思わず声を荒げたその時である。

 地鳴りがした。

 それは速かった。聞こえたと思うた次の刹那には、足元の地面が揺れだしていた。何事かと思う間に、腹の底を揺らすような、おそろしいまでの大地の鼓動が突如として響きわたった。

 タキは静まり返った眼をして、ヒバのうしろを見遣っている。平静な眼であった。静謐な眼であった。諦観じみた眼であった。

 ヒバは眼を釘づけられたようになって、タキの後ろを凝視していた。タキの背にしている山肌が、昼間タキと連れだって降りてきたはずの雑木の山の土と砂が、雪崩の如く崩れだしておるのが見えた。ごうごうと、どうどうと咆哮をあげ、土くれどもの塊が、化け物のようになだれ落ちてくる。

 タキはその光景を背に負ったまま、身じろぎひとつしなかった。


 ***


 のち、この夜に起こったことは、実に数奇な回帰をもってふたたび両者を引き合わせることとなる。だが、その運命がめぐるまでには、およそ五年ほどの月日を待たねばならぬ。次章にてそれが語られよう。これにて、この時代においては、いったんの幕引きを許されたい。





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