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雁が涯て  作者: 市川イチ
第一部
5/16


 【四】


 イヅルの村を目指す旅は長くかかった。これからしばらく、彼らの旅のありさまがどうであったかが語られる。道中、ヒバは殆ど口を利かずに歩いた。同道するタキもきわめて寡黙なたちであったので、二人の旅路にはひたすらに沈黙ばかりが降りていたことになる。

 特にはじめのうちは、遅れがちになるヒバの足を、辛抱強くタキは待った。ヒバのきかん気はまるでか弱い子供のようにあつかわれることを嫌ったが、砂浜ならいくらの苦労もなく歩ける両足は、けもの道の硬い地面とちいさな砂利に、信じられぬほど戸惑った。海の者の足と陸の者の足は、まるで勝手がちがうのだった。それは少年の体力を奪い、つかれさせた。岩場を越すのにタキの手を貸りねばならぬこともたびたびであった。

 いっぽうのタキはよほど旅慣れしているとみえ、その歩き辛そうな長が衣で、どのような悪路でもひょいひょい超えて歩いてゆくのだった。それがまた口惜しくも思われた。なにしろ海辺の村から外へ出たことのないヒバは、そうしたいと心では思いながらもことあるごとに足を閊えさせ、そのたびにタキは手を差し伸べ、ときにはヒバを抱えあげ、無言のうちにも励ますようにして歩いたのである。そういうときヒバはタキの顔をそうっと見上げるようにしてみたが、この男はおのれに視線がそそがれていることなど気にも留めず、淡々と足を進めるのみであった。そうして見上げたその顔は、やはり何もなく、うつつにあって夢の如し、ここにないものに向いている一つの真っ白い顔貌であった。 

 この男の顔には、およそ表情というものがない。それだが妙な、実に奇妙な深みがある。そのことには直ぐに気づいた。たとえばそれは、イトのあがってくる海が沖の暗がりなどよりも、もっと深く、濃い、はるかはるか深淵がごとき、光も届かぬ世界からの何ものかがある。そんなふうにヒバには思われた。

 タキが口に出して何か言うことは非常に少なく、そのためヒバは気を紛らすものもなく、道中ひたすら喪った村と家族とのことを思い続けた。村は大波で滅びたとタキは言うた。たしかに村は滅びていた。二日かけて弔いをした。しかしそれをタキの言葉のままに聞きとどけるには何か承服出来ぬものが腹の底にあるように思われた。あの夜ヒバは沖合にいた。いまやすっかり思い出していた。父タカと言い合いをし、おれは一人でとびだしたのだ。そのヒバの知らぬ間に、浜の村が大波で滅びることなどどうして起ころうか。タキは海が沖でヒバを見つけたと、そう言うた。であるならば同じように沖合にいたはずのタキは――。

 考えてもわからなかった。答えとすべきものがどこにも見当たらぬ。そうする間にも、悪路は容赦なくヒバを苦しめた。否そうしているあいだはまだよいといえた。本当にヒバを苦しめたのは、いくらか道がおだやかになり、先行するタキに食い下がるようにしなくとも歩けるようなときであった。かならず辛い記憶がうかんできた。想うことはひとつであった。喪った村、家、家族のことを、ひたすらヒバは想いつづけた。父タカの厳しい物言いも、のんびりと火端に転がっているときの間抜けた風体も、母キジの豪胆な笑い声も、イトを引き上げる指先も、嗚呼、弟ルリの泣き声さえも、ありありとよみがえってはまぶたの裏に次々はじけ、耳朶を打った。何度か泣きたいと思うたが、タキは待ってはくれなかった。涙を振り切るようにしてヒバは黙々とただ歩いた。泣く暇のあたえられないことが、少年の足を止めずに済んだ。タキはだまって少年を導きつづけ、陽が昇ってからまた夕暮れのおとずれるまで、ふたりは毎日歩きつづけた。

 ところでタキという男は実に不可思議な男であった。不可思議、あるいは奇妙というべきでもあり、いささか言葉を選ばずに言えば、それは不気味というほかなかった。野宿のときはかならず不寝番を買って出た。ヒバはこの旅路の間、ついにこの男の寝顔を見ることがなかった。そのくせ昼間はまったく疲れなど見せずに歩いた。いつ寝ているのかと考えるに、寝ていないのは明らかであったが、いやに涼しげな眼元には隈のひとつも現れなかった。ヒバがどこぞへ宿をとればどうかと言うと、聞こえないふりをしているかのように返事をせず、かというてヒバがつまずくようなときには、頭の後ろに目でもついているかのようにまちがえずに振り向いた。ひとけのない道ばかりを選んで歩いているようにも思われた。この男が街道を避けているらしいということは、最初の数日でヒバにも感じ取れた。道の悪さに苦戦するヒバを気遣うようにしながらも、決して大きな道には出ようとしないのがこの男の妙なところであった。けもの道や裏道ばかりを選んでは抜けていく。うっすらとではあるが、どうやらこのタキという男、人を避けているのか――と、何日目かでヒバは気づいた。

 イヅルの村とやらがどこにあるのかと聞けば、この先だ、と答える。どれほど先かとつづけて訊けば、その次の返事は返って来ぬ。「なぜおれを連れていく」と訊けば、「イヅルはイト採りの村だ。イトの村なら、おまえのような年若が独りでも食うていかれようが」と返ってくる。

 むろんヒバの訊きたいのはそうではない。だがこの男は、なにを訊いても肝心なことにだけは必ず答えを出さなかった。おれを憐れむのか、と噛みつけば、ただ静かにそうではないと答え、どうしておれの世話を焼く、と尋ねれば、おまえは子供だ、とくる。

 さらに奇妙なことには、この男はものを食わなかった。

 野宿のたびにどこからか食物を採ってきては煮焼きしてヒバに食わせてくれるが、自分はいっさい何も口に入れぬ。はじめは自分に遠慮しているのだと思い、ヒバは幾度となくタキに食い物を分けようとした。自分だけが世話になるのは好かぬ、とも言った。だがタキはかたくなにそれらを拒み、いいから食え、と言うのみだった。ときどきは行李のなかから奇妙な丸薬や葉っぱを出し、それを薬だと言うてヒバに与えることもあった。薬嫌いのヒバが嫌がると、足の疲れに効くものだとか、腹が減らぬようになるから食えだとか、薬師じみたことを言う。そのくせ、おまえは薬屋かと訊けば、そうではない、と答えてくる。ところが実際にそれらを食すと、足の疲れは奇妙なほど吹っ飛んだし、食い物の少ない夜でも飢えずにねむることができた。

 さまざまなことどもが腑に落ちぬまま、ヒバは毎夜、火のはたで横になる。ヒバはなにも荷物がないので、タキの行李が枕である。そうして地面からちらりと傍らの男を見上げれば、タキはいつもの茫洋とした眼をどこぞへ注いだまま、じっと黙りこくっていた。毎夜そうであった。いったい何を考えているのか、まるで読み取れぬ顔一つ、夜闇のなかに浮いている。ぱちぱち爆ぜる真っ赤な炎とあいまって、それは実に不気味に見えるのだった。飲まず食わず歩き通し、さらに眠らず火の番をし、とうていヒトのわざとは思えぬ。あるときヒバは、寝入りしなに、ほとんど寝ぼけるようにして尋ねたことがあった。おまえはヒトか、タキよ。

 それにタキが何事かぼそぼそと答えたときには、すでにヒバは眠りに落ちてしまっていたので、その返事を聞かなかった。

 タキはこう答えたのである。さあ、俺にもわからんのだ、と。 


 ***


 何日目のことであったろうか、はじめて二人は山道から街道に降りた。

 これまであれだけ人の居そうな場所を避けて歩いてきただのに、どうしたのかとヒバが問うと、タキはこれまた珍しく、まともな返事を寄越してきた。食事のようなものだ、という。

 それをきいてヒバはいくらか安堵した。なんだ、日頃ものを食わんのはただのやせ我慢だったか、こいつめ。この男に、はじめて生身の人間らしいところが見えたからである。おまえも腹が減るのかというヒバの言には返事をせず、タキはまた淡々と歩いた。ヒバはなんとなく気楽な心持でついていった。

 立ち寄ったのは小さな宿場町であった。おそらく名前もないにちがいないその町は、ひかえめに立ち並ぶ家々も質素なら、行き交う人々も質素なものであった。何間か真っ直ぐ歩けばそのまま抜けてしまうほどのごく小さな町とみえたが、ともあれ久しぶりに屋根のある場所で眠れそうな気配がしたので、ヒバは素直に有難いと思った。

 ところがである、タキは町に着くやひとり分の宿をとると、今夜はここで休めと言い置いて、ヒバを残してどこぞへ去っていった。きょとんとするヒバの胸元に、背負っていた小包みの行李を押し付け、明日の朝に迎えにくる、とだけ言いつけた。ヒバは慌てて後を追いかけ、どこへ行く、と呼びかけたが、タキは振り返らなかった。長い黒髪を背中に揺らして、背高の男はあっという間に見えなくなった。

 しかたなしにヒバはうすぐらく狭い宿の部屋にひとり荷をほどき、出された飯をひとりで食い、宵のうちから横になった。はじめ、あの男はどこへ行ったのか、食事ならおれといっしょに摂ればよいのに、なぜ独りで行っちまうのか、まさか今頃になって俺がうとましくなったのではあるまいな、ここで俺を見捨てるつもりだろうか……など悶々と思い悩んでもいたが、すぐに睡魔がやってきた。野宿ばかりで痛めた体には、安宿の薄い布団も有難く、少年はたちまちのうちに寝入ってしまった。

 ヒバがふと目を覚ましたのは夜半ごろである。

 平生、眠りは深いたちである。夜明け前に目を覚ますときは、必ず何か異変のあるときだった。今も、空気中になにがしかの気配を感じて目覚めた神経はすでにぴりぴり研ぎ澄まされ、その感覚に這いのぼって来るように、火事だ、火事だという誰かの悲鳴じみた叫びを聞いた。ヒバは布団から跳ね起きた。

 階段を駆け下り、玄関を抜け、裸足のままで外へ出ると、すでに夜空は真っ赤に染まっていた。町のはずれのあたりが燃えあがっていた。怒号が行き交い、人が行き交う真ん中で、ヒバは茫然と立ち尽くした。火事など間近に見るのは初めてだった。おそろしいとは思わなかった。むしろ美しい、と、正直な心は思った。夜の闇を切り裂き、焦がし、紅い炎があれくるって噴き上がる。

 そのとき、ほとんど反射的にヒバは駆けだした。タキのことを咄嗟に気にかけた。そうだ、あいつはどうしている。

 昼間、あの男がすたすた歩いて行ったのは、たしかあの火の上がっているほうだった。どこへ行ったのかは知らぬが、方角としては今まさに炎を噴いているあちらのほうだった。まさか巻き込まれてはいるまいな、あの男はそれほど間抜けではない、なんだかわからないがそう思う、と理性は告げるが、このとき手足を動かしているのは感情だった。まさか、まさかという危惧ひとつ抱いて、ヒバは火事の町を駆け抜ける。すれ違った大人たちが何人か、何事か言ってきたようであるが、それらをみな振り切って駆けた。

 やがてどれほどか走ったころ、ふと後ろから声がかかり、ヒバはぴたりと立ち止まった。その声はヒバ、と言うていた。自分を呼ぶものがいる。そんなものは、こんな見知らぬ場所ではひとりしかおらぬ。とたんに体から力が抜けた。

 振り向けば案の定、タキが立っていた。平生となにひとつ変わらぬ平然とした面持ちで、燃える町のなかにありながら、着物も肌も、ススひとつつけておらぬ。むしろ無防備に走り回ったヒバのほうが、顔を真っ黒くしている有様だった。

「無事か」

 思わずヒバがそういうと、タキはわづかに目元をゆがめた。その顔は、ヒバの知っていることばのなかでは、苦しげ、というのにもっとも近いと思われた。この男が人間らしい表情をのぞかせたのは、このときが初めてである。何かしら胸のつまったような表情だった。

「おれを探していたのか」

 ヒバはしごく当然という声をだした。

「当り前じゃ。お前が昼間、おれを置いてさっさと行ってしもうたが」

「そうか。……それは、悪かった」

 タキは言い、それぎり黙った。ヒバもその場でしばらく息を弾ませていた。この二人のまわりだけが奇妙に静まり返っているようだった。走り回る町人たちの喧騒が少し遠くから聞こえていた。

 炎はその後もしばらくのあいだ暴れ狂い、ようやく静まりはじめたのは夜明けごろのことであった。一晩かけた騒ぎの収まった町のなかで、皆水浸しの地面にへたり込んでいた。誰かが、死んだ者はおらぬといった。出火したのはどうやら村のはずれの粉ひき小屋だが、原因は分からぬとのことだった。

 日ごろ火の気もないこの建物からどうして火なぞ出るものか、と言い募る者もいたが、結局のところは誰も死ななかったのだから儲けもの、感謝せねばならんという、いかにも小さな町場のことらしい結論となった。街道ぞいとはいえ、人からも山からも閉ざされたこの小さな町でおいそれと人を疑う話を持ち出すわけにいかぬのは、ヒバにもよく理解が出来た。ヒバの村でもそうだったからである。どこかでだれかのものがなくなったからといって、うかうか誰かが盗ったなどと言ってはならぬのは、暗黙の決まりごとのようなものだった。

 日が昇りきったころ、ヒバとタキは連れだって町をあとにした。

「そういえば、おまえ、結局どこで飯を食うたんじゃ」

 とヒバは思い出して問うたが、タキは答えなかった。ただ真っ直ぐ、振り返らずに歩くのみだった。






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