三
【三】
目をあけて最初に見たものは、真ッ青にひろがる空であった。
ヒバはそのまま眼を瞬いた。どうやら仰向けで寝かされているようである。寝ている、でなく寝かされている、と思ったのは、何やらじっとりと湿った背中に蓆を敷かれてあるようだからである。ヒバは首をめぐらした。見れば体の上にも蓆があった。さらにその上には見慣れぬふうの白い上着までひっかけられているようである。――これじゃまるで死人のていじゃ。ヒバはぼんやり思ったが、とすると自分は死んでしまったのだろうか、と間抜けなことまで考えた。
むろんヒバは生きている。自分のものとも思えぬまま投げだしていた四肢に力を入れてぐっと縮め、また伸ばしてみると、じんわりと体に血がめぐっていった。おおむねどこも損じておらぬ。痛みのある箇所も、これとて無いようである。しいていえば体のあちこちで下敷きにしている小石のとがっているのが痛む。そこで体の上の蓆をのけ、半身を起してみた。見晴らしのよい場所であった。遠く眼下にイトの海が広がっているのが見えた。空の青と海の蒼とが一本の線でとけあっている、いつも知るイトの海である。どうやら村の裏手の高台にいるのだとそれで知ることができた。子供のころから幾度となく遊びまわった裏山である。勝手知ったる場所にいるとわかったことで、ヒバはいくらか元気を取り戻した。だがすぐにはてなが浮いてきた。――自分は一体なぜこのような場所に居るのだったか。
腕白坊主のヒバは、平生からよくこの高台へ上がってきてはコケモモだのアケビだの採って食ったものであるが、このたびは、ここまで自分であがってきたような覚えはどうにも無いようである。少なくとも今、それというような記憶を思い出すことはできなかった。それではこれは何事であろうか。
あてどもなく思案をめぐらすヒバの後ろから、ガサガサという音がした。あわてて顔を振り向けると、見慣れぬ背高の男が一人、のっそりと姿を現したところだった。ヒバはわっと声をあげ、男と顔をまともに見合わせる形となった。ちょうど男は背で陽を遮るように立ったので、ヒバのまわりには影が落ち、ヒバは男の顔をよくうかがい知ることができぬ。だが、男が村の者でないことはすぐに知れた。ヒバは、村の人間なら赤子から年寄りまで、みな見分けがつくからである。まったく知らぬ男である。ヒバは座り込んだままぽかんとして、まじまじとその風体を見あげた。
男は、ヒバの年齢にもう一重ねしたほどにも見えたが、幾つ、と数にしてあらわすことがどうにも出来ないように思われた。おとなではあるが、年寄りではない、それはわかるが、さてそれよりのことはわからぬ。そういう風体である。年齢をもっているふうには見えぬ。たまにこういった歳の取り方をする人間がいることをヒバは知っているが、それとてめったにあるものではない。村のはずれのトキという薬師がやはりこのような風体を持つが、トキは自らを四十と一だといっている。
このあたりでは余り見かけぬような珍しい着物をつけていたが、それが間違いようもなく旅装束であったので、長いこと旅に枕してきた者であるように思われた。逆光のためにはっきりと顔つきはうかがえぬが、額に大きく傷のあるのが見えた。目つきはいかにも鋭いようだった。旅をする人間はだれでもこういう目になるものである。だがこの男は、それでいてどこかぼうっとしているようでもあり、遠い遠くを見ているようでもあり、かといえば身近な葉の筋の裏まで具に見ようとしているようでもあり、つまるところ何も見ていない目ということだった。そのくせ表面はちょうどナギの海のように、奇妙に静まり返ったふうである。そのうえに、長い長い、実に長い黒髪が、いま、海風になびいて流れていた。
男はヒバが起き上っているのを見ると、一声、「腹はへっているか」と尋ねてきた。目がそうであるならば、声もまた凪の海とよく似ていた。否、こちらは凪に見せかけた時化海と似ていた。このあたりにはときどきそういった海男騙しの海もようが起きることがある。凪と思って舟を出すと、水面のすぐ下に渦巻くうねりに掬われる。ヒバにも幾度か覚えがあった。表ばかりがおとなしく、きかん気のうねりを閉じ込め、静かを装うあの海に、その声はいやに似ている気がした。
ともあれ、わけもわからぬままにヒバがうなずくと、手にしていたものをほうってよこした。見れば木苺であった。そのほかに幾つかの赤い実があった。ヒバは男を見上げた。男は黙ったまま、それを食えというように小さく動作をした。どうやらヒバに食わせる為にそれらを採りに行っていたようである。とすると、どういう経緯のためかは知らぬが、ヒバをここに寝かせ、蓆を敷いたのは、この男であるように思われる。
男はヒバの上にかぶせていた例の上着のようなものをさっと取って肩に羽織った。やはり見慣れぬ長が衣である。袖口に錆赤の文様がある。それで少し異国ふうの出で立ちとも見ゆる。すくなくともこの辺りの者ではない。イトの者はみな軽装であるし、かといって都びとならもうすこしましな装いがありそうなものである。
男はヒバの逡巡もまるで気に留める様子なく、傍らに腰を下ろし、ヒバが実を喰うのをだまって見ていた。うまいかともまずいかとも言わぬ、どこか痛むかと訊くでもない、ぼんやりとした様子である。気味の悪くなったヒバが食うのを止めて見やると、ややあって男はそれに気づいた。ヒバの目線の意味を解したか、
「おれはタキという」
ぽつりとした声色でそんなふうに名乗った。続けて「お前は」と訊いてくるので、ヒバは首をひねりつつ、木苺をかじりながら名を教えた。するとタキの返事は奇妙だった。「では、ヒバ」といい、それにつなげて「おれと来るか」と言う。ヒバはとたんに眉をひそめた。――なんじゃ、この男は、いったい何を言い出すのか?
男はそれぎりヒバのほうを見るでもなく、ただ茫洋と眼前に目をくれている。ヒバが食い終えるのを待っているのか、その返事を待っているのか、ただどうということもない顔ひとつ、首の上に据えている。ヒバはすっかり枝と葉だけにしてしまった木の実どもを放り出し、身に力を入れた。
「おれはこの村のイト採りじゃ。どうしておれが、おまえと行かねばならんのだ」
返事はない。ただ、男は妙な動きをした。その気味が悪いほどほそ長い指で、だまって遠くを指したのだった。それは海を指したようにも見え、崖下の村を指したようにも見えた。ヒバは一度ずつ男の指と顔とを見比べたが、男がまだ何も言わぬので、しびれを切らして立ち上がった。幸い、くらりとするような感じはなかった。
――このときヒバは先ず考えるべきだったのである。いったい何故ここにいるのか、何故覚えもなくこのような場所に寝かされていたのか、何故この男は何も言わぬのか、そして何故、もう日もさんざ高いというのに、崖の下にあるはずの村からなんの声も聞こえてはこぬのか。
ヒバは裸足の足を進めた。もう一歩、二歩、前に出るだけで、眼下に慣れ親しんだイトの村が見えるはずだった。ヒバは高台のふちにふらりと立った。そうして、昨日までそこにあった村が、跡形もなく流されているのを視た。
生温い風が頬をなでていった。同じ風が、紐のほどけた髪もさらった。どこかで鳥が鳴いていた。後ろから、タキのしずかな声がした。
「おれと来るか、ヒバよ」
ヒバはそのすべてに応えられぬまま、ぼうぜんと眼前を見詰めていたのだった。頭の中はぐるぐると大渦を巻き、体の中はごっそりとどこかにやってしまったようだった。途方もない混乱の渦の真ん中からうかびあがってくるものは、全身全霊をこめた拒否だった。タキの静かな声がする。
「昨晩、大波があった。おまえの村はみな流された。生きているものはない。おれが見てきた」
それを聞いても中身のなくなった体は動かなかった。ヒバはただ崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。まばたきすら忘れてしまったヒバの目は、いまだ村の残骸をうつろに映していた。目玉は乾ききっていたが、もはや涙すらにじまぬ。あるのは虚である。空虚である。タキの声が耳のなかにこだました。大波。流された。生きているものはない。生きているものはない。
刹那なにかが閃いた。
「嘘をつけ」
ようやっと言葉を絞り出すと、ヒバは緩慢に振り向いた。タキがじっとこちらを見ていた。――きゅうにその静まり返った目つきが気に障った。カッと頭に血が上る。膝が今一度跳ね上がった。飛びかかり、その胸倉つかんで揺さぶった。
「嘘をいうな。おれはきのう、沖にいた、そうじゃ、思いだしたぞ。おれは舟を出しとったが! ええか、海は凪いどった、なにが、なにが大津波じゃ……そんなことが起ころうはずがあるか……」
タキは答えぬ。ただわづかに憐れむような目で見つめるのみである。ヒバはさらに募りかけたが、そこでふと頭に冷水を浴びせられたようになった。目の前の男に何かどなりつけようと思って口をあけたまま、言葉の出ないかわりに目をみひらいた。何か聞こえてくる。きのう聞いた父の声か。
――こんな海ぐあいの夜に水面をさわがすと――
「遺骸はみな埋まっている。そうでないのは手が足りるだけは弔った。いずれ墓を建ててやれ」
イトの切れた凧のように、ふらりと手を離したヒバに、タキは静かにそう告げた。さらに続けて、「昨晩おれが海が沖でお前を見つけた。お前、気を失うていた……」といった。ヒバはへなへなと膝をくずした。「おれが――」と呟く自分の声が、まるで遠くから聞こえるようであった。
「おれが舟を出したからか」
その意味が通じなかったとみえ、タキは僅かに眉をあげ、目顔で問いかけるようなふうをした。ヒバは唇を震わせて、かろうじて声を紡ぎ出した。「とうちゃんは、舟を出すなといった。きのうの海は、舟を出す海ではないと……ナギではないと……水を騒がしたら、竜神様がお怒りなさると……」
「イトの者は竜神を崇めようが。竜神はおまえたちに祟るのか」
「阿呆な! 知らん知らん。迷信じゃ。イトは竜王さまがつくられるという、それだけじゃ。そう――云われとるだけのことやが。とうちゃんは言った、昨晩は舟を出してはならんと言った。おれは舟を出した、凪の海だと思うたから! 腰の抜けちまったとうちゃんに代わって、おれがイトを採らねばならん。イトを採らねば村は誰も食うていかれん。イト採りはイトの採れんようになったらおしまいじゃ。海が怖ぁては漁にならん、それがこれか! おれのせいか!」
ヒバは男にすがりついた。金切り声を上げた。
「おまえ、なぜ村を救けなんだ。なぜ村に報せてはくれんかった! おまえがそうしてくれたら村は流れんかったのに、おれなど救ける暇に、なぜ!」
男のひたすらな冷静がどうしようもなく癇に障った。己よりはるかに体躯の勝る相手にのしかかるようにして、ヒバは唾をとばして怒鳴り上がった。だがそれに返ずるタキの目は、このとき、奇妙なほど切なく静まり返っていた。その白目と黒目のいやにはっきりした目に、わづかばかり憐れむような色が泛んだ。その理由をヒバが知るまでには、この先何年も長きを待つこととなる。
ともあれ今は、タキの返答はこのようであった。
「おれにはできなかった」
***
この二日のち、すなわち村の弔いを終えてから、ヒバはこの見知らぬ男タキと旅立つこととなる。
タキはヒバを山一つ越えた道が果てにあるイトの村、イヅルの村へ送り届けると申し出た。ヒバははじめこの見知らぬ男の世話になることを固辞したが、村の残骸に囲まれて暮らしてこれからどうするというタキの物言いに、答える言葉をもたなかった。
それは後ほど顧みるに、実に奇妙な義理立てと思われる。男と少年は、これまでに何らかかわりなく、交わることも隣り合うこともなかったイトとイトである。虚空に渡された、か細い二つの僅イトにすぎぬ。しかしながらこのときヒバは、寄る辺もなくただこの世にほうりだされた一つの哀れな魂として伴を求める。タキもまた、いまは彼のみが知るひとつの理によって、少年を庇護することとなる。
タキの瞳に宿る哀切の色を、このときヒバはまだ真に見てはおらぬ。家族を、寄る辺を失ったこの哀れな少年は、いまは何も知らず、視えず、哀しみにとまどうばかりである。
二人が旅立った朝は美しい春の日和であった。冬を終え、北へ帰る雁が一列、矢を描いて飛んでゆく。