二
【二】
空と水面と、ふたつの月光にさらされながら、舟は沖へすすんでいった。眼下にひろがる黒い水のかたまりを、ヒバはけして怖いとは思わぬ。イト採りが海を恐れたら、もうイト採りでいられぬことを、この年若の少年はよく知っていた。漁師が海を恐れてなんになる。猟師が山へはいるのに躊躇うてなんになる。彼らが猪を、熊を、山神のつかさどる獣たちを恐れぬように、おれは鮫どもを、暗い海を、竜神様を恐れはせぬ。イト採りはそうあらねばならぬ。おれはイト採りだ。少年の誇りは揺るがない。
――おれのこの眼に、夜の海をゆらゆら流れるイトどもは実に美しく見える。おれの眼は父からもらった特捌な眼だ。イト採りの目だ。イト採りの眼を持つ者は、生まれてきたときからそれをせよと定めを受けたのだ。おれはそれなのだ。
ヒバは舟の扱いに長ける。幼子のころから父について舟を漕ぎ出すうちに、いまでは村でいちばん巧く船をあやつるようになった。今宵はヒバが読んでいたとおり、風は凪ぎ、波もおだやかであった。春の宵の独特の匂いと、ひやりとした空気が実に頬にここちよかった。
ところがである。どれほど経った頃であろうか、実に奇妙なことがおきた。というのもさきほど述べたとおり、少年は大変じょうずに波を読み、沖へ沖へと漕ぎ進んだものであるが、そのうちに――ふと、どういうわけか――、ぱちんと泡のはぜたようになった。煮立っていた頭と肝とがすうっと冷えた。あれ、と思うて、ヒバはゆっくりと二度三度、目をまたたいた。何か奇妙な感じがした。ややあって、何がおかしいのかを理解した。なにも見えぬ。
平生ならばとうに見えているはずのイトの実が、今日に限ってはひとつも見えてこなかった。海の中にゆらゆらゆらめく色とりどりのイトどもが、今はいくら眼をこらしても、ひとつたりとも見当たらぬ。ヒバはぐいと身を乗り出し、水面の奥を見詰めたが、そこからあがってくるものは何もない。黒い黒い、ただまっ黒い水がどこまでもわだかまるばかりである。
それでもまだヒバは恐怖を恐怖と思わなかった。それは本能である。海に生きる者の智慧である。恐怖を取り去るには、そのなかに身を浸すのがもっともよいことをヒバは経験から知っている。そんならもっと沖へ行くまでと、またさらにぐんぐん舟を進めていった。ナギの海は、少年をわずかも拒むことなく、ふところふかく受け入れる。そうしてまたいくらか漕いだころ、ヒバはふたたび水面を見遣った。
じいとだまり、息を殺し、いつもと同じように、いつもと同じものが見えるのを待った。ひとつ、ふたつ、待つときは数を数えるがよい。ヒバは胸中で九ツまで数えたが、どうしてもとおが数えられなかった。十を数えちまって、もしそのあと何も起こらなんだら、と思うと、十と言うのが躊躇われた。いま、海は静まり返っていた。舟べりに波の当たる音だけがきこえておるのだった。どれほどにか待って、ヒバはついに声に出して「とお」とつぶやいた。その弱弱しい声は波間にあっというまに吸い込まれた。そして消えちまうと、なにも起こらなかった。イトの実はひとつも、どこからも上がってこなかった。
ヒバはそのときはじめて自分がどこか見知らぬところにいることを知った。ヒバの村は遠浅である。もう幾度も村の浜から舟を出してきたヒバの体は、いまや計り紐よりもただしく位置を知っていた。どれほど漕いだか、どれほど沖合へきたか、道具はいらぬ、体がおぼえている。まだ陸の見えるところにいるはずだった。そう遠くは来ておらぬと体がヒバに教えている。だのに今、ぐるりとあたりを見回しても、視えるのはただ真っ黒い水、水、水だ。どちらを見ても、陸はひとつも見あたらぬ。たったいま舟をこぎ出してきたはずの、なつかしいあの陸が見えぬ。昼のように明るい月光がさらすのは、どことも知れぬ海の真中に取り残されたひとつの舟と、ひとりの少年だけである。
ヒバはしばし、ぽかんと目と口をあけた。考えることを一度はやめたが、すぐにいかんと思いなおし、浜へ戻らねばと櫂をとった。ひと呼吸した。あわててはならぬ。海で迷うたら、まず落ち着くことが肝要だ。落ち着いて陸に戻らねばならぬ。
――漕ぎ始めて、すぐになにかがおかしいと気づいた。舟がいくらも進まない。同じところをぐるぐる、ぐるぐる、何度やってもまわりつづける。こんなことは初めてだ。下手の者ならともかく、このおれの繰る櫂がこんなにむなしく水の中をすべることなどこれまで一度もあったろうか。問うのはおそろしかった。答えが否であることを知っている。
船はまるで進まない。前にも後ろにも行きようがなく、そのうちヒバは、疲れてきた。腕が痛む、首が痛む。肩の下がいやに懈いような気がしてきた。疲れることがおそろしいと思ったのは初めてだった。おれはどうなってしまったのか? ここはいつも見知った、おれのよく知るイトの海の、あの穏やかな沖ではないのか?
いつのまにか呼吸が荒くなっていた。あばれものの心の臓が、ヒバの体を踏み鳴らす。うすい胸板をたたいて回る。潮風に焼けたのどが、今、ひりつくように乾いていた。これは何ぞ、おそろしゅう、これはなんぞ。ついに恐ろしいとヒバは思った。そうしたら途端に手足ががたがたいいはじめた。途方もない孤独に押しつぶされながら、ヒバは懸命にあえいで陸を探したが、いま、その眼にもっとも願うものはうつらぬようである。陸がとてつもなく遠く感じられた。家が遠い、屋根が遠い、生まれてこのかた慣れ親しんだ囲炉裏が遠い。父が母がきゅうに恋しい。なぜおれは出てきちまったのだ。言うことを聞いておればよかったに、いっしょに寝ちまえばよかったに。父よ、母よ、ルリよ、おれの村よ、おれを呼べ、呼んでくれ。
たのむから、おれを呼び戻してくれろ。
「夢じゃ……」
ヒバは歯をくいしばってつぶやいた。「夢にちがいない。いったい、こんなことが起ころうはずがあるか。きっとおれは寝ちまったに。夢はどうしたら覚めるのだったか、思いださなきゃあいけん……」
海の真ん中で狐は化かさぬ。このあたりにはもののけも出ぬ。ヒバは夢を見ているのだと思い始めた。すぐに醒めると思わないではいられなかった。あまりにおそろしかった。いま己の身に何が起こりつつあるのか分からぬままに、ただ逃げだしたいと思うようになったのだった。目をとじたり開いたり、息を大きく吸って止めたり、ぐるぐると面をめぐらせたり、わけもわからぬことばかりを繰り返した。
今や海は表情を一変していた。今ここにあるのは、ヒバのよく知る海ではなく、幼い頃からはぐくんでくれた友人でもなく、いつもイトのあがるのをわくわくとのぞき込む暗がりは、いま、恐怖ばかりを返してきた。それらはみな途方もなく大きく、気難しく、おそろしく、怖いなにかだった。真っ黒な水が今にも自分に押し寄せて、ちっぽけな舟ごと飲み込んでしまうのだというふうに思えた。あるいはこの舟が沈んで沈んで、どこまでも沈んで、自分はこの真っ黒の中に呑み込まれてしまうのだと思えた。どちらにせよおそろしかった。歯の根が鳴りだした。
のどがぐっと詰まった。次いで涙がぽろぽろとこぼれ出した。おかあちゃん、おかあちゃん、と、唇から力無い声が漏れた。あれほど豪気を切って出てきただのに、いまは心弱く、ただ泣きじゃくる他になにもできぬ。ヒバはすがる思いで父と母とを呼び続けた。そして聞こえるおのれの声のか細いことにまた泣いた。あるいはだれか見知った人の呼び声がせぬかと耳を凝らした。しかし無情、呼べど待てど、父も母も、誰もいっこうに来てはくれぬ。弱々しいおのれの声ばかりが耳に這入ってきた。どこを向いても誰も見えぬ。夜の夜中、暗い海にひとりきり、月光すら嘲笑うように照るばかりで、ヒバになにもしてくれぬ。むしろなまじ空があかるいだけに、眼下の海原がよけいに黒く、おそろしく見えるのだった。
いちど怖いと思ってしまうと涙は止まらなかった。ヒバはただただ泣きじゃくった。恐ろしかった。父の手も母の声も見当たらぬ。年若の少年は、おのれの頼りなさをこのとき初めて思い知る。眼がしらが熱く、頭にもやがかかったようになり、泣いて泣いて泣くうちに、そのうち全身から力が抜けてきた。ヒバはいよいよ声を張り上げて泣いたが、声はあっという間に海と空に吸い込まれて、散り散りになってしまうのだった。
どれほどそうしていたろうか。ついに泣き疲れて、ヒバはイトのふっつりと切れるように舟の枕に倒れこんだ。一度そうしてしまうと、もう眼を開けることすらかなわぬ。頭が重く、ぐったりとして、指一本すら動かすことができないように思われた。
どこからか闇が降りてくる。深い闇が降りてくる。
少年はそれきり一声もあげず、深い眠りにおちていった。






