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雁が涯て  作者: 市川イチ
第一部
2/16


 【一】


 ヒバの村に名はない。イトの村は海辺沿いに幾つもあるが、草の自然に分かれて茂るように、ぽつぽつと点在するのみである。それだから、ヒバの村には訪れくる旅人も少なかった。家々で宴をもうける習慣もない。夜は、たいてい水底のように静まり返る。

 小雨の降る春の宵であった。海はだんまりと()いでいたが、今宵舟をだすイト採りはだれもなかった。ただただ静かな夜である。ヒバは先から囲炉裏のはたに座り、母が長箸で鍋からイト玉を掬っては竹ざおに掛けるのを横目にしながら、父の背をちらりちらり見遣っていた。父の背はいやにくたびれていた。それはヒバの心の底を不穏に引っかいた。幼い時分に知っていた父はこうではなかった、こうもふがいない男ではなかったと、近頃のヒバは思わずにおれぬ。

 父はまだ四十にもならぬ。名をタカという。イト採りとしての天賦の才にめぐまれ、とりわけこのタカの眼が海の暗がりから引き揚げる緑イトの見事さは、だれも敵うものがない。都びとは緑の布を仕立てたいと思うとき、この名もなき村に使いを寄越し、このタカの採るイトを求めた。ヒバは父を誇らしく思い、また好敵手とも思うていた。年若い少年はいづれ父を超える夢想をするものである。この年頃の少年にとって、父はすべてである。ヒバはいづれ父よりも見事な色を秘むるイトを己が手で採りたいとねがっていた。いつかこの手で群青を、と口癖のように言うのだった。若さゆえの晴れ晴れとした身の程知らずを引っ提げて、父が舟を出すときは、かならず一緒に附いていった。そんな息子の気丈なところを、かつてはタカもまた心強く思っていたものである。

 ところがこの父は、一年前に膝を悪くしてからというもの、めっきり慎重なたちになっていた。以前の豪気は見えず、ここのところの不天にはめったに舟をだそうとしない。夜はこうして、火のはたでごろりとしていることが多かった。あの見事な緑イトも、ここ暫くは見ることがなかった。いま母が鍋で煮ているのは一昨昨日にヒバが採ってきた萌黄色のイト玉である。いかにヒバの腕がよいとて、幼いヒバの採るぼやけた色のイト玉には、畢竟(それなり)ぼやけた値がつくものである。

 ヒバはそのため先程から身の置き所なく、どんぐり眼を渋らせながら、もぞもぞとしていたのだった。動かぬ父の背がふがいない、そのごろりとした図体がなんともいまいましい。こんな宵、十四の若さをもてあますヒバの手足はうずうずとうずいて仕方がない。心には、生まれた時から抱いていた勝ち気と負けん気の塊がある。眉間にしわを寄せて目を遣れば、赤子の弟ルリは乳をもらって満腹し、産籠の中ですやすや寝息をたてていた。なにかの夢を見ているのか、ヒバの爪先ほどしかない手をくうくうと動かしていた。なにからなにまで居心地の悪いような夜であった。

 さきほどから言葉がのどにつかえていた。否もはや舌の上で転げまわっていた。海へ出ると言いたいのである。今宵はナギの海である。ヒバは海を見るのに長けている。すくなくとも己ではそう思うている。おいでおいでと呼ぶように聞こえる潮騒は、少年の心をいやに急かした。きょうは昼間に通り雨もあった。イト採りとしてのヒバの勘は告げている、今宵はイトがあがる。

 ところが父は赦さなかった。夕餉の前にはさっさとヒバの心中を見抜き、家でおとなしくしているように命じつけた。そうして己は寝転がった。母も父に倣い、ヒバにそうしろといったのだった。

 母キジは豪胆な性根の女だが、体のほうがあまり強くなかったので、家で夫や息子の帰りを待ちながら、彼らの採ってくるイトの実を鍋に放り込む仕事をまかされていた。イト採りが男の仕事なら、イトつむぎは女の仕事とされる。女たちのこまやかな腕と指先は、湯にほぐれたイトを男よりもはるかにじょうずに取り出すのである。ヒバの母キジの腕前も、長年やりつけるうちにいよいよ()れていた。キジはむろんイト採りの眼をもってはおらぬが、夫や息子の採ってくるイトのたちをよく見抜き、あらゆる色を上手くとどめ、美しいイトを仕立て上げた。

 イトの精製は実にむずかしいものである。へたなものがやると、手間取るうちに湯にイトの色が抜け、イトそのものの張りもなくなり、なんとも覇気のない、つまらぬイトがとりだされる。ひどくすると溶けきってしまって何も取り出せぬこともある。よしんば残っても、ところどころ髪のように細くなったり、かというと蕎麦のように鈍重にまとまって、実にみっともない出来となったりする。イトの実を生き物のようにあつかわねばならぬというのは、つまりそういうことである。そのためこれは女に向く。

 キジは息子の不満げな様子もそ知らぬていで、ひととおり仕事をあげてしまうと、できあがったイトを竿に掛け、手で均し、海に向かって手を合わせた。これはイトで飯を食う者の欠かさぬ習慣である。イトの実がどこからくるのか、なぜくるのか、生き物でなく、むろん植物でもない、この不可思議な贈り物がどこからもたらされるのか知る者は今昔ひとりも記録にないが、ヒバの村では海に虹がとけるためだと考えるのがふつうだった。雨の降った日の夜や、虹の出た日の夜にひときわ色の濃いイトがあがりやすいためもある。

 ずっとずっと海底深くの、光も届かぬ竜王の(しとね)に空から虹が溶け落ちると、おどろいた竜王が海の渦を暴れさすので、水のあぶくが紡がれて、虹とまざりあい七色に染まり、それが沖からやってくる。イトの村に住む者どもはそのイトの実をとり、ヒトの手で紡いでヒトの使うイトにする。そう考えられている。誰もほんとうのところは知らぬ。ただ習慣として、イトの者はみな海に手を合わすのだった。イトは竜王からの賜り物である。そのためイトの者は、みな竜王あるいは竜神をあがめている。このあたりでは、竜王も竜神もおなじ海神をさす。

 さてこれでヒバはいよいよもって退屈した。母キジが海に手を合わすのは、きまって毎夜、床に入るまえのことだったからである。いろりの火にとろとろとあぶられていた父タカは、キジがそうしたのを見て、よっと重たげに身を起こした。寝支度のためにちがいなかった。

「とうちゃん」と、ヒバはたまらずに声をかけた。父タカは憎たらしいような無精ひげづらでふりむいた。「何をむくれとるんが」という声色は、うんざりとしていた。

「凪いどるが」

 まるで駄々子のように板張りの上にあぐらをかいて、ヒバはいった。長い腕でぴんと海を指さした。それを聞くやタカはとたんに厳しい顔つきになった。ルリをかごから抱き上げようとしていたキジもぴんと眉を上げた。

「いけん」

 父のしぶい声がそう告げた。にがい声だった。「いけん。今夜は舟を出す宵ではない。だいいち――」

「来んでいい。おれはひとりで舟を出してこられる」

「いけん。おまえは何もわかっとらん」

 父は三たび制止した。それでもヒバは強情を張った。

「とうちゃんが近ごろ舟を出さんから、村のイト採りがみな腰ぬけになってしまった。干上がるぞ。おれが行く」

「命いらずは勝手にせいが。だがおまえはいけん。おまえはおれの息子じゃ」

 タカは歯の隙間から低い声で繰り返した。「いけんぞ、ヒバ」

 まるで頭ごなしに駄目だ駄目だという。得心がいかぬ。すると持前のきかん気が頭をもたげてきた。ヒバはだんだん意固地になって、真ッ正面からくいさがった。

「何でいけん。海は凪いどる。今ならだれも他に舟を出さん。とうちゃんは体を壊したから、あれっぽちの波でも怖くていけんようになったんじゃ」

「おまえは何もわかっとらん。とうちゃんはなにも臆病で舟を出さんのではない。イトは竜神様の賜り物じゃ。こんな海ぐあいの宵に水面をさわがすと、竜神様がへそを曲げなさる」

 ヒバは噛みつかんばかりに声を張った。

「おれは分からん。こげん宵に舟を出さんでどうしてイト採りでいられようが。それでもとうちゃんはイト採りか」

「阿呆が! よう見い、これがナギか、ナギの海か。そう思うか。まとものイト採りがこげん海に舟など出そうか。お前にはまだよう海が読めんと言うておるのがわからんか」

 タカが低く吐き捨てて背を向けた。話はこれで終いだと言わんばかりの様子だった。

それをきいて、いよいよ大人しくしていられなくなったヒバはついに癇癪を起した。ここのところのじれったい鬱憤がふきだした。海を見れば凪いでいる。ただ静かに凪いでいる。父の言うことがわからぬ。少年の目に、海はひたすらに穏やかに見ゆる。 

 もういてもたってもいられずに、手足をまとめて叩きつけるようにして立ち上がった。「阿呆でええ。阿呆のすることにはいっさい口を出さんが利口じゃ……」

 ヒバがずかずか戸口にむかったのを見て、キジが一声「ヒバ!」と腹から鋭く吼えた。めったに聞かれぬ母の怒鳴り声に一瞬びくりと身がすくんだが、もうあともどりは出来ぬ。ヒバはとまらなかった。やがて父タカが舌打ちして腰を上げたが、膝を悪くしたタカの足では、俊足のヒバには追いつかれない。ヒバは裸足のまま舟場へ駆けて行ったのである。ひとたび足がめざめると、手長足長のヒバのこと、村人はだれも追いつけぬ。月の明かりがヒバの足元をよく照らし、かけてゆく少年の全身をも照らし出した。矢のように速く、つま先から頭のてっぺんにまで実にしなやかなばねを秘めた、ひとつの年若い身体だった。

 やがて船着場にでた。走り足のまま一人がけ舟にとびのると、あっというまに舫いを解いて漕ぎ出した。もう誰も追いかけてはこなかった。父の声も母の声もきこえなかった。ヒバはじっと夜の海面を見据えながら、静かに沖を目指していった。






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