君の声
「俺さ、そろそろ魔王を倒しに行こうと思う」
西川はなんの前触れもなくそう言って、そして一切のよどみなく生徒会室を出て行った。ある暑い日である。
「じゃああたしも行こうかな」
僕の隣で部活の予算申請書を整理していた楠も、そう言って席を立つ。長い黒髪をさらさらと躍らせて歩き出す彼女を見ながら、僕は途方に暮れてしまった。
「それじゃあ、この書類はどうするのさ」
「今日サボってる西園にでも押し付けといて」
ひらひらと手を振って、そのまま彼女は開きっぱなしのドアを抜けていってしまった。僕はため息をついて、申請書を引き寄せる。その時、楠の座っていた椅子に彼女のブレザーがかかったままなのに気付いてしまった。さっきよりも大きなため息が出る。
僕は西園くんへのメモを書きおいてから、ブレザーを腕に抱えて部屋を出た。
二人とはすぐに会えた。昇降口に向かいながら、僕は訊いてみる。
「それで、これからどうするのさ」
「そうだな、まずは装備を整えないと」
「あ、あそこなら結構売っているんじゃない?」
楠が指差したそこは、コンビニだった。
涼しい空気が僕たちを撫で回す。実際は寒いくらいだったが、それでも中途半端に甘んじることなく徹底して冷房を効かせているこの店に、僕は好意を覚えた。僕は試しにカップ麺をレジまで持っていく。薄化粧をした二十歳そこそこの女性はバーコードを読み取らせると、蓋をめくっておもむろに冷えた麦茶を入れだした。僕は思わず感嘆の声を上げる。やりきっているその態度は、ここまで及んでいたのだ。
「どうです?僕と結婚してみては」
僕の求婚に、彼女は揺らいだ様子もなく一厘のバラを差し出した。僕は棘に気をつけてそれを受け取る。よく見ると、それは造花だった。
「偽りの情熱。それがあなたの答えなのですね」
僕は嘆くどころか、一層の敬愛を込めて彼女に確認した。が、彼女は何も答えなかった。徹底している。僕は惜しみない拍手を送った。
「お前も、はやく装備を決めたらどうだ」
ふと忠告を受けて、僕は商品の棚に舞い戻った。みれば、二人ともなかなかに良い武器を持っている。これなら魔王にも勝てるに違いない、と僕はそう確信した。
「しかし二人とも、お金はあるの?」
「そういえば、十円しかない」
「あたしも」
見れば、僕も十円しかなかった。思わずくしゃみをする。体も財布も寒かったのだ。しかたがない。三人ともうまい棒を手に取った。
「やあ、また会いましたね」
奇遇だ、とばかりに僕はレジの女性に声をかける。相変わらずに、無言のままバーコードに読み取りを当て、僕に一瞥たりとも向けなかった。あふれ出そうになる感動を押さえ込んで、僕は先に店外へと出た二人を追おうとうまい棒を受け取る。
が、手を出した瞬間に引っ込められる。僕は不意をつかれ、空を掴んだ。女性はうまい棒の袋をあけ、中身を露出させてからなにかをポケットから取り出す。それはうまい棒の中身のようだった。が、それには細すぎる。おまけにうまい棒にあるべき穴もない。どうするのかと見ていると、女性は一切の迷いもなくそれをうまい棒の穴に差し込んでいった。
「こんな僕でも、あなたの心の穴を埋められた。そうであるなら、それは大変に名誉です」
僕は涙を流しながら、完全なる棒と化したうまい棒を受け取った。心なしか、女性の表情が明るくなったような気がする。盛大な拍手が聞こえ、振り返ると、三十人ほどのギャラリーがスタンディングオベーションで僕たちを包んでいた。僕は一礼し、自動ドアへと歩き出す。ふと、続く拍手の中で彼女の声を聞いた気がした。だけれど、僕は振り返らない。
その店は、完成されているのだ。その徹底さに、僕が入って乱してはいけない。暖かさを混入してはいけないのだ。だから僕は、彼女から離れる。
「それじゃ、行こうか」
待ちくたびれた、と言う様に西川が前に向き直り、進んでいく。楠もそれを追うように歩を進める。
一陣の風が吹き、新緑を舞い上がらせた。
夏が、やって来る。
<第一部完>