蜜蜂と少年
あるあたたかい午後のこと。
少年は部屋を片付けていた。
窓をいっぱいに開け、ホウキとはたきをそれぞれの手に持ち少年は部屋を睨んだ。
部屋の主は相当おおざっぱな性格らしく、床に教科書が落ちているは机に埃は積もっているはで見ただけでうんざりしてしまいそうだ。
だがその部屋の主というのが少年自身であったため、怒るに怒れない。
まさに自業自得である。
さあどこから片付けようかと少年は思った。
どこもかしこも散らかっていて、かつ少年の少年たる歴史を秘めているので迂闊に手が出せない。
いっそ掃除などいっさいやめにして、この荒れ切った部屋の主らしく何処とはなしに寝転がり、部屋に広がるニオイを埃と共に吸い込んでやりたいがそれも叶わない。
少年は家を出なければならないのだ。
まだ少年であるが故、
鳥が空を目指すように、クジラが海に包まれるように、少年も住み慣れたこの部屋を出、旅立つ時が来たのだ。
それは明日かも知れないし、一年先かも知れない。
だがそれは地響きを立てながら大股で少年のもとへと歩いて来ている。
ずーん、ずーんという足音が遠くから聞こえるたび少年は仕度を急いだ。
足元に落ちていた写真を拾ってみると、それは少年が今より更に若いころの写真であった。
少年は喜々として笑い、それを挟むように両親が並んで立っている。
ぼう、と一頻り眺めた後、写真に着いた埃を手で拭い旅行鞄の一番外のポケットに入れた。
いくら掃除をしていなかったとはいえ、少年一人の部屋などすぐに片付いてしまう。
少年はまだ多少の名残りを残しているものの、変わり果てた自分の部屋を見て少しさみしくなった。
自分の子供時代なぞこんなもんか、と椅子に寄りかかり手にしたはたきを振るっていた。
するとそこに一匹のはちがふらふらと風に流されてやって来た。
だが気がつかずブンブンとやっていたものだから、はたきはハチに直撃しぽとりと床に落ちてしまった。
視界にはちがあらわれ、自分が暇つぶしにはたきを振るっていたこと理解した少年は床に落ちたハチを覗き込んだ。
それは一匹のミツバチであった。
首に生えた毛を擦る手足がどこかぎこちなく、翅は少し曲がってしまっている。
少年はすぐにミツバチに雑巾をつたらせ、机の上まで運んだが他に何もできることがないことに気付いた。
これといった特技もなく頭も便利とはいかなかったが、少年は心だけは優しかった。
いや、むしろそれこそが少年の少年たる所以だったかもしれない。
ミツバチは毛を震わせしきりに頭をかいている。
ともかく外へ連れて行こう。
そう思った少年はミツバチが落ちないように慎重に外へと向かった。
しかし外に着いてもミツバチは一向に飛ぼうとしなかった。
部屋の掃除がまだ終わっていないし、このまま放っておくと誰かに潰されてしまいそうだった。
仕方ないので部屋に戻った少年は窓を開け、そこにミツバチがとまっている雑巾をかけた。
こうすればいつでも飛び立てるし、誰かに邪魔をされる心配もなさそうだ。
そうして少年はまた掃除を始めた。
棚にあった本を片っ端から縄で括る。
もう何回も読んでいるし、それに少年の今の年齢で読むにしては幼過ぎた。
それでも何度も手がとまりそうになり、その度にもう子供じゃないんだからと言い聞かせた。
ただ、一番お気に入りの絵本だけは鞄に入れた。
お母さんが夕方買ってくれて、その夜お父さんが読んでくれた思い出の一冊だ。
捨てようかとも思ったけれど、まあ一冊くらいなんとかなるさとティシャツで包んで奥に入れた。
部屋はだいぶ綺麗になり、少年は掃除することにさして抵抗を感じなくなってきた。
それは原型のなくなった肉や生きていたころを忘れた魚たちに、何の愛情も悲哀も感じられないそれと似ていた。
窓を拭こうと雑巾を探し、さっきのミツバチがまだ何処へも行っていないのを見た。
ミツバチは相変わらず窓の外を眺めている。
ミツバチにどんな感情があるのかは人間の少年には分からないが、ずっと遠い雲を見つめる姿はもう飛ぶことができないであろうことを悟っているようだった。
少年はわずかだけ涙ぐんだがどうすることもできない。
犬や猫なら多少の怪我ならみてやれるが、ハチなんて何をどう食べさせたらいいのかさえ見当もつかない。
かがんでふー、ふーと息を吹きかけてみたが飛ぶ気配はなく、手足しっかりと雑巾を掴んでいた。
弱弱しく頭をかくばかりで、もうミツバチはどうする気もないようだった。
ただ空を眺めているだけ。
ただ頭に着いた汚れを取っているだけ。
ただもうすぐ訪れるであろう現実を、死を待っているだけのようであった。
少年は少年である故たいへん悩んだ。
どうにかしてミツバチが再び空を飛ばないかと考えた。
すると瓦屋根の向こう、少年の部屋から屋根に出て少しつたっていった先にハチの巣があるのを見つけた。
おそらくあの巣からこのミツバチはやって来たに違いない。
迷いはなかった。
少年は雑巾を握り、おそるおそる屋根に出た。
瓦を踏み外さないように慎重に歩きながらも、手だけはしっかりとミツバチの乗った雑巾を握っていた。
途中、飼っている猫が不思議そうにこっちを見てから少年の部屋へと入って行くのが見えた。
巣の前に腰を下ろし、雑巾を広げてゆっくりとその脇へとおいた。
ミツバチは相変わらず飛ばなかったが、雑巾の上をぐるぐる回り始めた。
すぐには飛ばなそうだったので様子をみることにした。
屋根の上は案外気持ちが良い。
太陽はぽかぽかと照らしてくれるし、風は撫でる程度に吹いている。
それに高いところというものはそれだけでどこかさっぱりとした開放的な気分になれた。
さっきまで狭い部屋を掃除していたのでなおさら気分が良い。
だからといって怖いものは怖く、また怒られるからもうここへ来ることもないのだろうが。
巣からは一度に何匹かのハチが同時に出て、時間が経つとまた何匹かが一緒に出てくるサイクルを繰り返している。
雑巾の上のミツバチは相変わらずぐるぐる回っているが。
わずかながら翅を動かす気が出たらしくほっとした。
家がちょっとした丘の上にあり、遮るものもなかったのでだいぶ遠くまで見る事ができた。
遠く水平線の向こう、そこに一体どれだけ価値があるのか知らないが、友達はみんな旅立って行った。
もう連絡のつかないものさえいる。
つまらなくてもいいから、一緒にいようよ。
そっちのほうが少年にはよっぽど価値があるように思われた。
赤くなり始めた太陽を見ていると視界がぼやけてきて、少年は今日何度目かの溜息をついた。
その時だ。
横に並んで座っていたミツバチが少年の溜息に乗り颯爽と空へと舞い上がり、少年の目の前をくるくると回りながら飛んだ。
すぐに瓦の上に落ちたがまたすぐに飛び立ち、二度三度と繰り返すうちしだいに長く飛べるようになった。
少年は嬉しくて笑い、心のなかでミツバチにあやまった。
夕日が赤々と燃えている。
ここから見る夕日は格段に綺麗だと思った。
そしてもっと早く気付くべきだったと思った。
少年は少年であるからここにいられるが、もうそれも出来なくなる。
残念だが仕方のないことだ。
じっと広がる景色を眺めた後、少年は部屋へと戻った。
ミツバチたちはブンブンと景気よく羽音を鳴らしながらせっせと蜜を運んでいる。
もうどれが連れて行ったハチかも分からない。
窓から部屋に入るとなんだか部屋が小さく見えた。
それから少年は時間をかけてゆっくりと部屋を片付けた。
少年が少年であったことの証明とその蜜のように甘いニオイを嗅ぎながら、ゆっくりと。
何日か経って、少年は水平線へと向かった。
少年は皆、少年であった。
少年が少年であるが故。
次いつ書くか分かりません。