第3章 魔法使いの弟子(1)
「あっ、師匠。おかえりなさい」
急な帰還にルシアは慌てて、玄関で師匠を出迎えた。師匠は男のなりをしていた、
出かけた時には女性の姿だったのに……。
「今回はずいぶん長いお留守でしたね」
師匠の後をついて歩きながらルシアは文句を言う。
いつものやりとり、いつもの挨拶。師匠はいつもふらっと出て行って、連絡もなく帰ってくる。
そう、今日のように。そしてルシアの文句にいつも言うのだ。
「仕方ないだろう。暇なんだから」
しかし、今日の師匠はどこかが違った。機嫌がいいのだ。いつになく。
彼の文句にもとっておきの笑顔を向けただけ。
何かあったなとルシアは察した。
この世の法則の何物にも縛られないこの魔法使いはいつも退屈していた。限りのない時間、性別さえも自由に変えられ、できないことなど存在しないかのような圧倒的な力を有した彼の人にとって、生きていくことは退屈極まりないことだった。
その師匠が時折こんな表情をする。こういう時は決まって暇つぶしの種を見つけた時だとルシアは思った。
「何かいいことがあったんですか?」
ルシアは問うた。
「ああ」
師匠はにっこりとルシアに微笑んだ。こんなことは滅多にないことなので、ルシアは内心ひどく驚いた。
「お前にもみせてやろう。久々の傑作なんだ」
歩みを止めずに師匠は言う。
「部屋にお茶を運んでくれ。そこで、見せてやろう」
言いつけどおりにルシアは最近手に入れた花の香りのする茶をこれまた花の柄の茶器に入れて、彼の人の部屋を訪れた。
「来たな。そこに座って」
ゆったりとした部屋着を纏って、彼の人はお気に入りの椅子に腰かけていた。お茶を受け取り、ルシアを隣に座らせると窓を指さす。
「あそこを見ていろ」
言いざま、パチンと指を鳴らした。すうっと辺りが暗くなり彼の人が指した窓の枠だけが黄金色に輝きだした。そして、そこに現れた一幅の絵……。
金の髪の乙女が木の幹に背を凭せ掛けていた。その足は地にはついておらず、木の中ほどあたりに身体が浮いている。手を祈りの形に胸の前で組んでおり、その白い瞼は閉じていた。周りの木々の枝が、彼女の髪に口づけるかのようにすくい上げ、白いドレスがそよ風に揺れた。
「きれいだろう」
満足気に彼の人は囁いた。吐息が部屋の空気を震わせる。
「死んでいるの……?」
あまりに美しくて、何故か哀しくて、ルシアは尋ねた。
「バカ言うんじゃない。眠っているだけだ。頬の色を見てみろ。薔薇色だろう?」
じっと彼の人は自分の作品を見つめた。しばらく声もなくその絵に見入る。ルシアは不思議と胸騒ぎと不吉な予感におののいて、彼の人を見つめた。
「仕上げはお前にも見せてやろうと思ってね」
木々の配置や乙女の位置を確認して、彼の人はルシアに片目を瞑って見せた。ルシアは不安げに彼の人を見つめ返す。
「いいか。よく見ていろよ」
そういうなり、彼の人は絵に向かって、ふうっと息を投げかけた。ほんのささやかな動作だった。
その瞬間……。
森は下草から一気に氷に閉ざされる。氷のケースに入った塑像のようにも見える乙女の金の髪が氷の反射で銀色に光った。
「だんだんと凍っていくようした」
目を細めて彼の人は自分の作品に落ち度がないかじっと眺める。
「だんだんとね。時が経てば、全てが氷でできているようになるだろう。彼女以外はね」
それきり彼の人は口を閉ざした。口元に優しげな笑みを刻み、ただその絵を見続ける。ルシアはそんな師匠をただ呆然と見つめるしかできなかった。
年月は矢のごとく過ぎ去った。彼の人の留守中にルシアは氷の森を見に行った。森そのものが見たいという我儘を彼の人がやっと聞き届けてくれたのは、人間の時間で50年ほど経った頃だった。
その頃には下草は全て氷に変わっており、踏んで壊してしまわないようにルシアは注意深く、宙を飛んで移動した。
いつか、この乙女が目を覚ますのではないかと期待してルシアは許可を貰ってから時折、この森を訪れていた。しかし、乙女が瞼を上げることはない。
今日は師匠もいない。本当は触ってはいけないと言われているのだったが……。
ルシアはふわふわと飛行して、乙女の側に近づく。そして壊さないようにそおっと乙女の頬へ手を差し伸べた。掌は氷の壁に遮られ、冷気がそこからゆっくりと染み込んできた。
「やっぱり冷たいや」
自分の熱で氷を溶かしてしまわないかとひやひやしながら、ルシアは掌を離そうとした。
嘘……。
乙女の瞼がふるると震え、ルシアはビクリと身体をこわばらせた。瞼がゆっくりと持ち上がり始める。
「目を開く?!」
驚いた顔でルシアは乙女を見つめた。長年、この瞳を見たいと思い続けていたが、まさかそれが叶う日が来るなんて。ルシアは息を飲む。
乙女の瞼はゆるゆると開かれ、睫毛の下から瞳が覗いた。
青い瞳だったんだとぼんやりと思う。
その間にも乙女の瞼は徐々に上がっていき、完全に開かれた。ルシアは視線を逸らすことができない。
ビクンと身体が震え、次の瞬間には身体が金縛りにあったように動かなくなった。指一本、自分の自由にならない。
「……つた……えて……」
頭の中に直接、声が響いた。
「私を探している……あの人に……」
更に声がはっきりと聞こえる。頷いてあげたかったが、身体は少しも動かない。
喉が渇き、ひりりと痛んだ。
どうしようかと思った途端、瞬きのできない瞳の隅に青色の光が映った。その光が目の前に浮上してくる。ルシアが護符代わりにつけている瑠璃のペンダントヘッドだった。
瑠璃の珠が青色の光を発しながらゆっくりと目の前に浮き上がる。
『これに……想いを……』
青い光が激しくなり、頭の声がその明滅に重なった。
『彼に……渡して……伝えて……心……』
光が痛いくらいにルシアの瞳を射るのと横から誰かに突き飛ばされるように空間を移動したのが同時だった。ルシアには一体、何がおこったのか認識できない。
何度か瞬きをして、自分の身体がやっと動くと思った途端、右の頬が派手な音を立てた。
「触るなと言ったろうが!!」
痛みで殴られたことに気付く。目の前には彼の人が立っていて、恐ろしい目でルシアを睨み据えていた。
「あれ?お師匠?」
ルシアは打たれた頬に手を当てようと腕を持ち上げた。指先がぱりぱりして、腕は思うように持ち上がらなかった。ガラスの壊れるような音が指先から聞こえる。ゆっくり頭を巡らせて、ルシアは自分の指に視線を落とす。
愕然とした。
指先から腕の中ほどまでが氷で覆われている。その氷が指を動かそうとすると剥離して音を立てた。
彼の人は瞳に怒りの色を湛えたまま、掌をルシアに向け、頭からつま先に向かって一振りした。
ぱりんっ
微かな音がして、氷が一気に蒸発した。ルシアは手を何度も開いたり握ったり繰り返す。
「ったく。言いつけも守れないのか」
「俺の瑠璃は?」
彼の人の言葉にルシアは全然違う問いを返した。
少し驚いた顔をして彼の人はフンと鼻で笑った。
「ここだ」
彼の人の手の上に瑠璃が乗っていた。さっきまでルシアの首に掛かっていたペンダントの瑠璃。綺麗な球形だった瑠璃は、幾つかの破片に砕かれていた。
「これは預かっておく」
ルシアの伸ばした手が瑠璃に届く前に、彼の人は掌を閉じた。
「お前にも罰が必要だ」
静かな彼の人の声が遠くなり、ルシアの意識は闇に沈んで行った。