第2章 追憶(3)
『愛しているわ、ラーグ』
『わたし、待っています』
ラーグの耳の中で何度もイリアの声がこだまする。
待っていると言ったのに……。
彼女は消えてしまった。
置いて行かないでと言ったのはイリアだったのに……。
彼女は俺を置いて行ってしまった。
「……イリア」
ラーグはこぼれ出る自らの呟きにも気付かない。
ただ、心が痛くて、苦しい。永遠に近い時をさまよったが、いまだにイリアは見つからない。
じっと炎を見つめる。そこには在りし日の想いとイリアの笑顔だけが見えた。
黙り込んでしまったラーグをランティアは哀しげに見つめた。
ラーグの時は彼の身体の上だけでなく、心の上にも流れてはいないのだと、ランティアは溜息をついた。
彼女の行方がわかるものならば、教えてあげたい。私にできることは何でもしてあげたい。
意地悪を言ったことを後悔しながら、ランティアは世界中の大地に気を送る。
しかし、大地の波動は何も伝えてこない。イリアの気配も。イリアがいるという森の波動も。
「あの少年は何を知っていたんだろう」
炎を見つめながら呟いたラーグの言葉にランティアは力を収めた。
ラーグに視線を送る。ラーグはまだ、焚き火をじっと見つめていた。先程と同じ姿勢で。
「さあ。わからないけど。手掛かりになるだろうとあの木が私に伝えてきたの」
ルシアが捕らえられていた木だ。
少年と木が同時に同じ空間に存在していたように見えた。
そしてルシアは呪いだと言った。
ランティアの脳裏にまるで見てきたかのように昼間のラーグと少年のやり取りが浮かんで消えた。
「後悔しているのね?」
「あんなことをするつもりではなかった。俺以外にイリアを知っているかもしれない人間に初めて会ったから……。どうかしていたんだ」
頭を左右に振って、ラーグは自分の掌に顔をうずめた。
それを辛い思いでランティアは見つめた。
もうずっと苦しんでいるこの人を解放してあげたい。
風がそよぐ。草がさわさわと音を立てた。月が雲間に隠れ、辺りが薄暗くなる。
ふわりとランティアは立ち上がった。風が緑の髪をゆらし、髪に差した簪がしゃらしゃらと涼やかな音を紡ぐ。
「もう、いいのではなくて?」
ラーグの真正面の焚火の向こう側の何もない空間にランティアはきつい視線をむけた。
「立ち聞きはお行儀が悪くてよ」
「立ち聞きじゃない」
声が聞こえたと同時に、何もなかった空間に少年が座っていた。それも空中に浮いたまま。
ルシアだ。
「人間じゃない、綺麗なお姉さん」
前髪をかきあげ、ルシアはにっこりと微笑む。
「無礼な子供ね」
ルシアの言葉にランティアが眉を寄せた。
「あいにく、子供でもないんだ」
悪戯っぽく、ルシアは片目を瞑る。
「行ってしまったのではなかったのか?」
驚いたようにルシアを見つめ、ラーグは呟いた。
「まださ。ちゃんとあんたに助けてもらった礼もしてないし……それに、ちょっと気にもなったし」
後半はもごもごと呟いて、ルシアは地面に降り立った。
地面に降り立ったルシアの瞳をまっすぐにラーグは見つめる。
そして、いきなり頭を下げた。
「悪かった」
「え?」
それにバツの悪そうな顔をしたルシアはあさっての方向を向いて、頬をかいた。
「もう、いいよ。びっくりはしたけどさ。怪我もなかったし……」
そう言うとルシアは焚火を挟んで、ラーグの正面の地面に腰を下ろした。ルシアの瞳をじっと見つめる。ルシアもこちらを見つめていた。
「で、オレに訊きたいことがあるんだろう?」
つかの間の沈黙をルシアが破る。
ルシアの言葉にラーグはもう一度、深く頭を下げた。
ランティアは二人の様子を黙って見つめている。
「どこに……」
ラーグはゆっくり質問を切りだした。
「どこに、あの森があるのか、知っているのか?」
「知らない。さっき、そこのお姉さんが言っていた通りさ。この地上のどこにもないんだ」
ラーグの傍らに立つランティアにルシアは視線を流した。
「どういうことだ?」
「だから、魔法なんだって。呪いと言ってもいいかも。あんた、見ただろう?オレが木と二重になっていたのを」
ルシアの言葉にラーグは昼間の情景を思い出した。いま、思い返しても不可思議な現象だ。
「次元がさ。違うんだ。よくわからないと思うけど。こう、世界はいくつも隣接していて……。あー。何って言ったらいいんだ」
いらだたしそうにルシアは前髪をかきあげた。薄茶色の髪が炎の照り返しで赤く光る。
「シャボン玉がいくつも接しているのを想像してよ。普通はシャボン玉の中から隣のシャボン玉への行き来はできたりしないんだけど。ある程度、魔法が使えれば可能なんだ」
ルシアは言葉を切って、面白そうなことを思いついた顔で、ラーグを見た。
「そして、こんなこともできる」
ルシアの姿がふっと消え、次の瞬間にはラーグの隣に現れた。
ラーグの驚く顔に、満足げにルシアは笑った。
「でもさ、大抵の場合、できてもこんなことだけなんだ。ところが、――は、隣の空間でも、空間と空間の間でも好きなものを丸ごと、どんなものだって置いておくなんていう芸当を簡単にやってのける力の持ち主なわけ」
相変わらず、名前のところは音にもならなかった。やはり、完全に名前だけ封印されているらしい。
「といったって、何の関連性もないところに物を移すのは大変だし、面倒だからさ。オレは、牢の扉に見立てたあの木から、別の空間に閉じ込められていたのさ」
横に座ってラーグを見上げながら、ルシアは口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「では、あの氷の森もどこかの森と繋がっている可能性があるのか?」
ラーグの問いにルシアは首を縦に振った。
「たぶんね。でも、普通に探しあるいたって、辿りつけないぜ。この地上にはないんだから」
「ランティア、ルシアがあそこにいることはどうやってわかったんだ?」
傍らに立つ大地の女神にラーグは尋ねた。
「この子が重なっていたという木が報告してきたの。何か感じが変ですと、ね。でも……」
困ったような哀しそうな表情で、ランティアは言葉を継いだ。
「同じように感じられる森は存在しないわ。報告もないの。残念だけど……」
ランティアは首を左右に振った。
「そりゃあそうだよ。やっと、次元の壁を透かすまで呪をほどいたんだから。大変だったんだぜ」
それでもそこまでだったんだけどさ。とルシアは言葉を足した。
「あなた、何者なのかしら」
発せられたランティアの声は冷たい。同時に警戒を込めた冷たい視線をルシアに向ける。
求めていた手掛かりだったけれど、なぜ、この少年はこうまでいろいろ知っているのだろう。まるで、見てきたように。
ひどく不吉な感覚がランティアに湧き、それが鼓動を早める。
「ちょっと待てよ」
ルシアはくるりと一回転するとまた空中へ浮き上がった。まっすぐに怒ったような顔をしてみつめてくる女神から遠ざかる。
「オレは質問に答えただけだ。順序立てて話すつもりだったけど、そうならなかったのはオレのせいじゃない」
「質問に答えなさい」
命令しなれた口調で、ランティアはルシアに命ずる。同時に、ランティアの緑の髪が生き物のように宙に舞い上がる。
ランティアは嫌な感じを受けていた。この少年に。特にこの少年が告げた魔法使いに。
彼女の髪はうねうねと宙を蠢き、ルシアに向かって移動し始めた。
「なんなんだ。オレが何をしたって言うんだ」
髪の届かなそうな所へルシアは後退する。
「ランティア。やめるんだ」
立ち上がり、ラーグは彼女の腕を取った。
髪を浮かせたままランティアはラーグを見た。ラーグは彼女の瞳を見つめると頭を左右に振った。ランティアの髪が力なく下へと降り、ふわりと彼女の背にかかる。
予感。それも、嫌な予感だ。ラーグに対して恐ろしいことが怒るのではないかと言う予感がランティアの瞳を陰らせた。
「ルシア。続きを。俺もお前が何者で、なぜ、イリアを知っているのかが知りたい」
昼間の激情が嘘のような静かな声だ。しかし、ラーグの瞳には狂おしい光が踊っている。
「いいよ。話すつもりできたんだからさ」
ルシアの返事にランティアは二人を交互に見つめた。
ルシアの悪戯っぽい瞳、そして、ラーグの決意を秘めた瞳に視線がぶつかると女神はまたため息をひとつついた。
「全てを受け入れる気なのね。ラーグ」
ラーグが微かに頷いた。そして、安心させるように微笑む。
「大丈夫。これ以上、なにも悪くなりようがない」
ランティアの手をとって、安心させるように何度か軽く叩く。
「さあ、話してくれ、ルシア」
ラーグはランティアの手をとったまま、地面に座った。ランティアも促されるままラーグの隣に腰を下ろす。
「いいよ」
ルシアは返事をするとラーグの向かい側に降り立ち、どかりと胡坐をかいて座った。
「といっても、大したことは知らないんだけど……」
炎を見つめて懐かしそうに、ルシアは瞳を細めた。
「オレは魔法使いの弟子だったんだ……」
前置きして、ルシアは話し始めた。