第2章 追憶(1)
炎が揺れていた。薪のはぜる音が水のさざめく音と唱和する。たった独りでラーグはじっとその炎を見つめていた。ルシアと出会った場所からそう遠くない湖畔。
ばちっという音とともに炎が舞い上がる。
ラーグは大きく溜息をついた。後悔とやるせなさが胸に満ちていた。
あんなことをするつもりはなかった。イリアの情報を持つ者に初めて出会い、あまりに驚き自制が効かなかった。
「相当、落ち込んでいるのね」
鈴が転がるような声がし、突然、ラーグの首元に後ろから白く細い腕が巻き付いた。
柔らかい身体が背に押し付けられる。
頬に柔らかい唇を感じた。
それでもラーグは身じろぎ一つしなかった。全く動じた風もない。
背後から抱きしめられたままじっとしていた。
女性の腰まである緑の髪が風に舞った。金茶の瞳がラーグの横顔を見つめ、炎に女性の額に嵌る金の冠が赤く輝いた。
「ランティア」
視界を舞う髪と雰囲気からラーグは名を呟く。
名を呼ばれると唇に笑みを刷いて、緑の髪の女はラーグから離れ、彼の視界に入る場所へと移動した。
「お久しぶりね」
ランティアをラーグは見つめた。その瞳に感情はない。
美しい女性だった。それこそ人の美しさではない。
異形のモノ……・。
ランティアのサクランボ色の唇が微笑みの形をつくる。瞳が相変わらずねと語っていた。
「こんばんは。地精の女王、ランティア。供も連れずにお散歩か?」
丁寧な口調で、ラーグは視線を外すことなく挨拶を返した。
ランティアは、ラーグが放浪の旅を続ける中で知り合った地の精霊だ。知り合って以来、この気まぐれな精霊はラーグをいたく気に入って、時々、姿を現す。
「つれない御挨拶だこと」
溜息とともに、ランティアはその美しい顔を曇らせた。
「それでも、私の告げたものは見つけたようね」
ランティアの言葉に、ラーグは視線を地面に落し、首を左右に振った。ぐっと唇を噛みしめる。
「あら、見つけたでしょう?」
哀しみに翳ったラーグの瞳を見つめながら、指を顎にあて、ランティアは首を微かに傾げた。
「……イリアはいまだに見つからない」
昏い瞳で地面を見つめながら、ラーグが告げた。そのラーグの様子にランティアは哀しげに眉を寄せた。
「あなたの探し人のことではなくてよ。あなたの探し人はこの世界の大地の上にはいないと私は以前に告げたはず……」
確かにとラーグは思いだす。前にランティアが今夜のように突然、ラーグの前に姿を現した時、厳かに告げた。
『西へ。あなたの運命が見出せるでしょう』と。
しかし、それはイリアのことではないとも。
それでも、一縷の望みに賭けてラーグはその言葉に従い、進路を西にとった。
「では、何を見出したと?」
「さて、あなたの後悔の原因でしょうに」
面白そうにランティアは微笑みを浮かべた。
「あの少年が……運命?」
「あなたらしくないことをしたのね?」
ランティアはふわりと移動し、ラーグの隣に腰を下ろすとラーグの腕に細い腕を絡ませた。
「知っているのか?」
「変なことを訊くのね。私は大地を統べる者。この地上で起こっていることでわからないことはないわ」
ランティアはラーグの黒い瞳を覗き込み、艶やかに微笑んだ。
「だから、私はあなたの想い人がこの地上のどこにもいないことも教えてあげたでしょう?」
「では、どこに……?」
歯を食いしばり、唸るようにラーグは尋ね、昏い瞳で、炎を見つめた。
「わからないわ。私には」
その悲痛なラーグの表情をランティアは寂しそうに見つめる。彼にこんな顔をさせる重荷を運命を取り除いてあげたいと彼女はラーグに初めて会った時から思っていた。それと同時にここまで彼の心を捕らえて離さない少女を羨ましくも感じていた。
私だったら、あなたにこんな顔をさせたりしないのに……。
切なさが意地悪な気分を引き起こす。
「やめてしまったら?」
唐突にランティアは、ラーグに告げた。
何を言い出すんだとラーグは近くに寄せられたランティアの顔を見つめる。
「彼女のことは忘れて、普通に誰かと恋をして、あなたの人生を過ごすことは考えないの?あなたの幸せを掴もうとは思わないの?」
こんなに長い時が過ぎたのに。どこにいるかもわからないのに。
続けた言葉はランティアの心の中だけで囁かれた。
「忘れる?」
すぐ間近にあるランティアの顔を初めて見たかのようにラーグはじっと見つめた。金茶の瞳に炎が映り込んで揺れている。
「イリアを?」
できるわけがない。はっきりとラーグは思った。例え、誰かと暮らしてもラーグの上には他の人間と同じ時は流れない。自分の傍らで老いて行く人を見れば、どうして彼女を思い出さずにいられよう。
それは違うな。そんなことが忘れられない理由ではない。
それなら、ランティアのように年をとらない者と一緒にいればいいだけのことだ。
ラーグは口元に自嘲の笑みを刷いた。
「別れたあの日、それがまだ、昨日のようなのに?」
そうだ。記憶は全く薄れることも思い出になることもない。鮮やかに脳裏に刻まれたあの日はその言葉一つまで、鮮明に思い出せる。そう、風の匂いさえも。
あれは、春先の珍しく暖かい日だった。