第1章 出会い(1)
黄緑色の草々の間に伸びる一本の道が、初夏の太陽に白く光った。
なにぶん、人里からは外れた辺境のこと、行きかう旅人もほとんどいないのだろう。白い道はところどころ草に覆われていた。
風が音を立てて通り過ぎ、草々の間を点在する木々の梢を揺らした。夏の訪れを告げる先駆けの風だ。あと幾許もしないうちに夏の女王が到来するその知らせ。喜びに草木の精霊が躍り出ようとして、突然の人の気配に身を縮めた。
黒い人影が道の向こうに姿を現した。一人のようだ。全身黒ずくめの格好で、腰には剣を指している。草かげの精霊たちは、息をひそめてその姿を見た。風が絡む長めの黒髪、よく日焼けした肌をした肢体は、服の上からでさえ、鍛えられていることが分かる。筋骨たくましいというより、意外に細身だ。背も高いので余計にそう見えるのかもしれない。物思いに耽っているらしい瞳はどこか謎めいた光を湛えていた。
ラーグだ。たった一人で永の時、旅を続けている男。
不意に何かに気付いたようにラーグは、歩みを止め、顔を上げ辺りを見渡した。
「……か。……け……く……よ……」
風に乗って何か音がする。
「……か。たす……」
先ほどよりもはっきりした音がまた届いた。人の声のようだ。それも少年の声。ラーグは再度辺りを見渡した。ラーグの瞳が街道からそう離れてはいない木に留まる。傘のように枝葉を広げている木は、なだらかな丘にたった一本だけ存在していた。樹齢は50年をくだらないだろう。
声はそちらの方向から聞こえてくるようだった。
もう一度耳をそばだたせ、ラーグは声の方角を確認すると走り出した。木に近づくにつれて、声はだんだん大きくはっきりと聞こえた。
「誰か。助けてくれよ」
声が言い終わるのと同時に、彼は木の側まで辿りつき、下からその太い幹を見上げた。
「わっ」
助けを叫んでいた声は、驚きの悲鳴に変わった。しかし、驚いたのは声の主だけではない。ラーグもまた、その幹を見て、黒い瞳を見開いた。
「これはまた奇怪だ」
少年がいた。薄茶色の髪を肩で、きっちり切りそろえ、片側の髪を耳にかけていた。身なりは旅の軽装だ。どこにでもいる少年に見えた。その美しい顔立ちを除けば。
「あんた、オレの声が聞こえるの?」
少年は心底驚いたように尋ねた。
「ああ。姿も見えるが。木とだぶって……」
ラーグは何と言っていいかわからずにそう答えた。その言葉の通り、少年の姿は透けており、後ろに大木の幹が見える。透き通った人間というより、まるで2重写しのように重なって見えるのだ。
「姿も?」
少年はその細い切れ長の目で、突然、出現した男を頭の先からつま先までゆっくり検分した。
「勇者の剣ね」
腰の剣でその視線を止めると、少年は呟き、瞳に嫌そうな光を湛える。少年が見た剣の柄の先には、龍の爪の形の装飾がついており、その爪は紅い珠を握っていた。
「それも赤龍の剣……」
少年の声はどういうわけかいくぶん険を帯び、眇めた瞳がラーグを睨んでいた。
「助けを求めていたのは、お前か?」
その無礼な視線をラーグは受け流すと尋ねた。
「さあ」
意地の悪い光を湛えた茶色の瞳でラーグを睨みながら、少年はそう答えた。
「そうか」
ラーグはそう言い捨てると、くるりと少年に背を向けると街道に向かって歩き出す。
まるで、世間話は終わったというように。
「え?」
少年は驚きの瞳をその背に注ぎ、それから、はたと我に返ると、慌ててその背を引きとめた。
「まっ、待てよ。非人情!お前には人を思いやる気がないのか」
「人なら思いやるがな」
向けたままの背から応えが返る。
「おっ、おいってば」
振りむきもしないラーグにさらに慌てて少年は叫んだ。
「助けてほしいのか。そうじゃないのか」
ラーグの問いに少年は一瞬、言葉に詰まった。唇を噛みしめ、瞳を閉じた。
「助けてほしい……」
消え入りそうな声で呟く。その声が届くやラーグは身体の向きを変え、木に近づいた。
そして、少年に笑いかける。
「で。助けてやるのはいいが、どうしたもんか。木とだぶって姿は見えるが、触れられないときた」
木の幹に手をおいて、ラーグは首を傾げた。ラーグの手は少年を突き抜けて、幹に触れている。感触も通常の木と変わらない。
「あんた、解放の呪文って知ってる?」
少年の問いかけにラーグは首を左右に振った。
「そう」
ひとつ大きく溜息をつくと少年は困ったように眉間にしわを寄せた。
「まあ、いいや。言う通りにやってみてよ」
「俺は魔法は使えない」
「いいんだよ。本人に使えなくても。それの代わりになる道具があれば。おあつらえ向きにあんた勇者の剣を持ってるし」
少年はにっと笑った。そういう表情をすると年相応に見える。
「腰の剣を抜いて掲げて。それが鍵になる」
言われた通り、ラーグは腰の剣をすらりと抜いた。
「扉をイメージして、なんでもいいよ、扉なら。とにかく木の幹の前に扉を思い描いて、オレの手の動き通りに剣を動かしてよ。空中に字を書く感じでさ」
右手に剣を持ち、ラーグは神経を集中して、扉をイメージする。難なく、目の前に重厚な両開きの木の扉が出現した。その向こうに透けて見える少年の動きに合わせて、ラーグは剣を振るう。
まるで、古代の失われた文字のような綺麗な曲線が剣の切っ先で空中に描かれていく。その動きは剣先が空気と踊っているように見えた。
「そのまま、両開きの扉の隙間に剣を刺して」
少年の声が響き、ラーグは剣を水平に突き出した。柄の紅玉が光を放ち、あたりに紅い光が満ち溢れる。さらりと扉が霧散し、代わりに金色の光が瞬き始め、またたく間に人の形を形成した。