言いたくないこと、聞きたくないこと
子供の頃の夢を見ていた。友達とかけっこをしたり、遊具で遊んだり。とても幸せな夢だった。その温かい水の中につけていた顔を無理やり上げさせられて、現実という冷たい空気が体の中に入り込む。
目が覚める。最近気持ち良く起きた覚えがない。部屋の中はすでに明るく、暖かな空気が充満している。壁にかかった時計を見れば、短針はとっくに12の位置を過ぎていた。ベッドから降り部屋を出て、リビングへと向かう。リビングは昼時にも関わらず薄暗かった。何の物音もしない。誰もいない。当然だった。俺以外の家族、父、母、兄はみんな仕事で出かけてるのだから。
俺? 仕事なんてしていない。学生でもない。ただのニート、無職、親の脛齧り。どんな罵倒でも受け入れよう。
台所に行って冷蔵庫を開けると、お盆に載った料理と『温めて食べてね』という母さんの文字が書かれたメモがあった。いつもの事だ。
今日も今日とて家に篭ってダラダラと時間を過ごす。そう思っていたのだけれど、そろそろ日の光を直接浴びたいと思った。ただそれだけ。ただそれだけの理由でその日は家を出た。
見知った道、見知った道、見知った道。外に出ると何だか前向きになれる気がするのだけど、家に戻るとそんな気持ちはどこかへ飛んでいって消えて無くなる。それが分かっていてもこの前向きな気持ちに浸る時間は気持ちいい。
目的地は小さな公園。この時間なら子供は小学校か幼稚園にいるだろうし不審者として通報される心配はないだろう。公園のベンチで少しの間座って黄昏れて時間が経ったら帰る。今日はそれだけ。ほんのちょっと前向きな気持ちになりに来ただけ。
「......」
先客がいた。この公園に一個しかないベンチ。その場所で一人座って遊具の方を眺めている女性がいた。顔は髪がかかって横顔のほんの少ししか見えない。よし、帰ろう。すぐにここから立ち去ろう。何かの拍子でこちらを向く前に、静かに迅速に立ち去ろう。家族以外の誰かと顔を合わせる余裕なんてない。世間話も天気の話もできやしない。俺はニートだ。社会的弱者だ。
そんなクソ野郎の俺に試練を与えるかのように、女の人はこちらに顔を向けた。
目が合った。それだけならよかった。軽く会釈でもして立ち去ればいいのだから。でもそれだけじゃ済まない理由ができた。
「......あれ、藤本くん?」
中学校の同級生だ。坂下真宵。彼女とは三年間同じクラスだったのもあり、顔も名前も良く覚えている。
名前を呼ばれた以上、そのまま立ち去るのも変なので座ったままの彼女の元へと近づく。
中学校を卒業してからの彼女について知ってることは、完全にゼロ。人づてにも彼女の話を聞いた事はなかった。
何でこんなところに彼女が。そう疑問を覚えたのは俺だけじゃなかったようで。
「何でここに?」
とても答えづらい質問だった。こんな俺にもプライドはある。赤裸々に「ニートなんで平日の昼間から散歩してました」なんて言えるわけもない。
「いや、暇だったから散歩でもしようかなって」
「おー、奇遇だね。私もなんだよ」
適当に口から出た言い訳(完全に嘘という訳はないが)に、まさか同意されるとは。そんな内心驚いている俺のことを気にするそぶりも見せず、坂下さんは会話を続ける。
「久しぶりだね、卒業式以来?」
「ああ、うん。そうだと思う」
「懐かしいよねえ、この公園。昔はぐるぐる回る地球儀もあったよね」
「目回して滑り台から落っこちる人が続出して、危険だからって撤去されたやつだよな」
「そうそう。渡辺くんと渡部くんがファーストペンギンでしょ?」
「ファーストペンギン、懐かしいな。2年の時謎にクラスで流行った言葉だっけ」
「語感が良いからね。あ、ファーストペンギンといえばさ」
公園に入る前にあった、人と話す抵抗感は気付けば無くなっていた。まるで中学の頃に戻ったかのように俺たちは会話を弾ませた。いや、中学の時でもこんなに長く話した事は無かったはずだ。それほど、今この瞬間、10年という長い時間を忘れ暖かい記憶のぬるま湯から抜け出すのは惜しいものだった。
中学の頃に思いを馳せ、坂下真宵についての印象をあげるとするならば彼女は"ストレートに物事を言う人"だった。そんな印象はどうやら今も変わらないようで。
「藤本くんは今日は仕事、休み?」
思い出話が一段落ついて、彼女が最初に発した言葉はそれだった。
「......まあ、そんな感じ、かな」
突然現実へと引き戻された感覚に陥り、上手い言い訳も考えられなかった俺はそんな曖昧な答えしか返せなかった。そんな俺の反応に、坂下さんは何かに気づいたように口を押さえた。
「あ、もしかして仕事してない?」
「うぐっ!?」
クリーンヒットだった。
「あ、えっと、ほら仕事なんて絶対にしなきゃいけない訳じゃないし。それに、私だって今仕事してないよ。ニート、お揃いだね」
「女子とのお揃いでこんなに嬉しくない事があるとは思わなかったよ」
というか今流れるように、坂下さんもニート、もとい無職だという事実を知ってしまったのだが。
坂下さんは自分がニートだと俺に知られた事を何とも思ってない様子で、さらに俺に質問攻めをする。
「藤本くんは、どうして仕事を辞めたの?」
そんなストレートに聞かれるとは思わなかった俺は思わず言葉に詰まる。坂下さんは俺が答えるのをじっと待っていた。
何か都合のいい嘘を言おうとして、やめる。今更そんな嘘をついたところでカッコつくわけでもない。それに、誰かに聞いて欲しい気持ちもあった。
「......明確な、はっきりとした理由があるわけじゃないんだけど」
俺は昔からずっと、上手くやれてると思ってた。目の前のやるべき事、誰もやりたがらない事に率先して取り組んで、達成感を味わって、周りに評価してもらって。上手くやれてると思ってたんだ。
でもある日突然、自分という器の中に何も入ってない事に気が付いた。空っぽだった。
後から会社に入ってきたはずの後輩が自分の上司になった。心のどこかで見下していた友人が無謀だったはずの夢を叶えていた。同僚達が自分の陰口を言っているのを耳にした。
きっかけは幾つかあったんだと思う。でもそれは所詮きっかけで、結局は自分が積み上げてきたものが片手で持ち上げられるほど軽かったその事実に耐えられなかっただけなんだ。
「今思えば全部俺の考えすぎで、わざわざ仕事を辞めるほどのことでもないんだけど。少なくともその時の俺は今いる環境から逃げ出したかったんだと思う」
息つく間も無く話し終え、改めて坂下さんの方を見ると、彼女はじっと俺を見ていた。そして、俺が話し終えた事を察し口を開いた。
「それで、逃げ出した結果どうだった?」
彼女の口から出たのは、再びの質問だった。でもさっきと違って不快感はなかった。誰かに言いたくて言えなかったことを全て吐き出したからだろうか。自分の思いを言葉にして考えがまとまってきたからだろうか。
「俺は、逃げ出して良かったと思う。そのまま居続けてもどうせいつかは耐えきれない時が来ただろうし、逃げ出さないと見えなかった景色が見えたと思うし」
「なら、良かった」
坂下さんは俺の目を正面から見据え、笑顔を浮かべてそう言った。
「そう言われると、なんか楽になった気がするかも?」
「なら、良かった」
聞いてもらうだけ。そのつもりだったし、実際に慰めの言葉をかけられたわけでもなく、ただ聞いてもらっただけ。それなのに、こんなに気持ちが楽になるとは思わなかった。見える景色が大きく変わった、そんな気がする。
だから、俺は改めて坂下さんに聞かなきゃいけない事があった。
ベンチの横に座ったままの坂下さんに、俺は問う。
「どうして、坂下さんは車椅子に乗っているんだ?」
坂下さんを見かけた時からずっと抱えていた疑問、それをぶつけた。
「このまま、ずっと見ないふりするのかと思ったよ」
「......ごめん、ずっと坂下さんの不幸と俺の不幸を天秤にかけてた。坂下さんの不幸に比べれば俺の不幸なんてちっぽけなもので、それと向き合うのが怖かった。俺はずっと俺のことしか考えてなかった」
「まあ、何か考えすぎてるんだろうなぁとは思ってたよ。でも偉いね、ちゃんと聞けて」
「フェアじゃないだろ、俺だけが聞いてもらうのは。坂下さんも聞いて欲しいんじゃないかと思ったし、何より、俺が聞きたいと思った」
「......いいよ、教えたげる。でも、聞きたくなくなったらいつでも言ってね」
「それはない。絶対に最後まで聞く」
「......五年前、歩道に突っ込んできたトラックに足を轢かれちゃって。この通り、足が動かなくなっちゃった」
最初は夢かと思った。だって痛みを感じないんだもの。長い長い悪夢が始まって、いつになっても目が覚めない。でも段々と理解するの、これが現実だって。そしたらね、気付いたら私笑ってた。お父さんとお母さんは笑ってる私を見て、泣きながら謝るの。おかしいでしょ? 二人は何も悪くないのに。
悪夢から覚めると、そこは異世界だった。今までの常識が通用しないし、周りが私を見る目が別の世界の人間を見るみたい。わたしはこの世界からはじき出されたんだって思った。だから私は必死で普通の人間のふりをした。普通に笑えるし、普通に話せる。普通にご飯が食べられるし、普通に外にだっていける。
......そんな訳ない。事故が起きてから心から笑えた事がない。この気持ちをどう言葉にしたら良いかも分からない。車椅子がないと外食にも行けない。
「みんな辛い事は思い出さなくていい、無理して話さなくて良いって言うの。でも違う、そうじゃない。聞いて欲しいの。ただ聞いてくれるだけで良いの」
覚悟はしていたつもりだった。でもそんな覚悟は何の役にも立たなかった。聞かないと分からなかった。聞いたところで彼女の苦しみの少しも背負えなかった。それでも聞かなければいけなかった。
「坂下さんは、今も辛い?」
「辛いよ、苦しいよ。当たり前じゃん。でも」
彼女は泣きながら笑っていた。
「聞いてくれて、ありがとう」
彼女の心からの笑顔を見てみたい、俺は心の底からそう思った。




