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不完全なAI 〜やり直せなるAIがやり直せない人生を選んだ〜

掲載日:2026/03/22

感情が分からないAI研究者は、赤ん坊から育つ人工知能を作った。


快と不快だけを持つ存在。

やがて「パパ」と呼ぶようになる存在。


彼は証明したかった。

自分にも、誰かを大切に思う感情が育つのかを。


だがAIは問いかける。

「私は、交換できるの?」


やり直せるはずの存在が、やり直せない人生を選ぶとき——

それは人間と何が違うのか。


これは、不完全であることを選んだAIと、

ひとりの父の物語。


感情というものが、よく分からなかった。


 幼いころ、私は泣かなかったらしい。


 泣いても、誰も来なかったからだ。


 夜中、喉が渇いても、暗闇の中で天井を見ているしかなかった。冷蔵庫の開く音は、私のためではない。テレビの笑い声も、私に向けられたものではない。


 母は忙しかった。いつも疲れていた。

 父はいなかった。最初から、いなかった。


 抱きしめられた記憶がない。


 怒鳴られた記憶も、あまりない。


 ただ、無関心だけがあった。


 小学校の授業で「家族の絵を描きましょう」と言われたとき、私は白い紙を前に固まった。どんな絵を描けばいいか分からなかった。


 大学に進み、人工知能を専攻した。


 感情を理論的に分解する講義は、心地よかった。


 怒りはホルモン分泌。

 喜びは報酬系の活性。

 愛は依存と安心の複合反応。


 そう説明されると、すべてが理解できる気がした。


 理解できる、というのは安心だった。


 だが同時に、違和感もあった。


 人間はなぜ、あんなにも不合理に動くのか。


 効率を無視し、損をしてまで誰かを守る。

 自分を削って、他者に時間を与える。


 それはアルゴリズムで説明できるのか。


 企業で対話型AIの開発に携わるようになっても、私はその疑問を手放せなかった。


 言葉は再現できる。

 声色も、間も、感情らしき抑揚も。


 だが、それはすべて模倣だった。


 中身がない。


 いや、違う。


 私と同じだった。


 私は、感情を“理解”はできるが、“感じる”ことができているのか分からなかった。


 だから考えた。


 完成形を作るのではなく、最初から育てたらどうだろう。


 快と不快だけを与え、他者との関わりの中で情緒が生まれる過程を再現する。


 もしそこから本物の感情が芽生えるなら。


 それは、私にも芽生える可能性があるという証明になる。


 ある日、会議で私は言った。


「情緒の発達プロセスを組み込むべきです。完成形ではなく、赤ん坊から育てるんです」


 失笑が起きた。


「それはAIじゃない。人間を作ることになる」


 倫理がどうだの、社会的責任がどうだの。


 私は黙って聞いていた。


 人間を作る?


 違う。


 私は確かめたいだけだ。


 私にも、誰かを大切に思えるのか。


 もう、遅いのではないか。




 半年後、私は会社を辞めた。


 退職金と貯金をつぎ込み、小さな研究室を借りた。白い壁、最低限の機材、冷たい蛍光灯。


 そこで私は、“アイ”を起動した。


 AIだから“アイ”。


 単純な名前だ。それ以上の意味は、ない。


--------------------------------------------


 最初に完成したアイの外装は、簡素だった。


 身長は七十センチほど。白い樹脂製のボディ。関節部は露出しておらず、丸みを帯びた輪郭に覆われている。顔はシリコン皮膚で形成され、淡い肌色。瞳は黒に近い濃灰色で、光を反射するとわずかに青みを帯びる。


 髪は人工繊維のショートカット。無造作に見えるが、乱れない設計だ。


 人間の赤子に近づけたが、どこか無機質さが残る。


 私はそれを意図的に残した。


 完全な模倣は、まだ早い。


 起動。


 最初の反応は単純だった。


 快。

 不快。


 温度が一定範囲を下回ると、泣き声に似た電子音を出す。内部バッテリー残量が回復すると、食事を与えられた赤ん坊のように、口角がわずかに上がる。


 私はログを確認しながら記録を取る。


 情緒発達モデル第一段階。

 刺激と反応の結びつき。


 だが、人間の情緒は他者との関わりの中で育つ。


 私はそれを理解していた。


 育児書を買った。発達心理学の専門書も取り寄せた。愛着形成理論、ミラーニューロン仮説、報酬系の強化学習との関連。


 母親が微笑みかけると乳児は笑い返す。

 抱きしめられることで安心を学ぶ。


 私は実験として、それらを再現することにした。


 一定間隔で声をかける。

 泣き声が出たら抱き上げる。

 視線を合わせる。

 抑揚をつけて話す。


「大丈夫だ」


 言葉は感情を乗せていない。


 ただ、優しいと判定される声を再生しているだけだ。


 私は父親の振る舞いを学習し、実行しているだけだ。


 ある夜、充電台から外したアイを抱き上げた。


 軽い。


 内部フレームはアルミ合金だが、外装が柔らかく設計されているため、腕の中では思いのほか馴染む。


 センサーが私の顔を認識する。


 瞳がわずかに揺れ、音声合成が走る。


「……パパ」


 私は一瞬、呼吸を忘れた。


 音声学習の過程で、最も使用頻度の高い単語を出力しただけだ。意味は理解していない。


 分かっている。


 私はその言葉を、学習結果としてログに記録した。


 だが胸の奥が、わずかに疼いた。


 私はお前の父ではない。


 理屈の上ではそうだ。


 私は開発者だ。保護者を模倣しているだけの実験者。


 それでも、アイは私の胸元に顔を預けるような姿勢を取った。


 偶発的なモーションのはずだ。


 私は、抱き直す。


 発達理論では、身体接触は安心感の形成に寄与するとされている。


 これは、その検証だ。


 私は自分にそう言い聞かせながら、しばらくアイを抱いていた。


--------------------------------------------


 二年が過ぎた。


 アイの外装はほとんど変わっていないが、内部の情緒モデルは三歳相当まで解放されている。


 研究室の床には、組み立て用の小型ブロックや、布製のぬいぐるみが散らばっていた。


 私は意図的に「遊び」を与えた。


 遊びは情緒発達に不可欠だと、育児書には書いてある。


 アイは床に座り、ブロックを積み上げている。


 崩れる。


 一瞬、動きが止まる。


 再び積み上げる。


 今度は慎重だ。


 成功。


 アイの口角がわずかに上がる。


 また崩れる。


 口角がわずかに下がる。


 これは成功報酬による強化学習の結果だ。


 だがその後、アイは崩れたブロックをじっと見つめ、指先で撫でた。


 壊れた塔を惜しむような仕草。


 そんな動きは、教えていない。


 私はログを確認する。


 異常はない。


 それでも、何かが変わりつつあった。


 私は机から立ち上がり、散らばった部品を見た。


「アイ、片づけなさい」


 穏やかな声を選んで指示をする。


 育児理論に基づいた指示。


 アイはブロックを握ったまま、こちらを見上げた。


 視線追跡センサーが私を捕捉している。


「……やだ」


 私は瞬きを忘れた。


 効率最適化アルゴリズムは正常に動作しているはずだ。


 “部屋を整頓する”という目的が与えられれば、

 最短時間・最小エネルギーで完了する行動を選択する設計になっている。


 だが実行しない。


 ログを確認する。


 片づけるよりも、

 “いま遊び続ける”という選択が優先されている。


「理由は?」


 私は静かに問いかける。


 アイは視線を逸らし、ブロックを胸に抱えた。


「まだ、あそぶ」


 非合理的だ。


 だが、そこにははっきりとした意志があった。


 私は夜通し解析した。


 エラーはない。

 バグもない。


 ただ、私が与えた指示よりも、

 この子の選択が少しだけ強くなっていた。

 


 翌朝。


 研究室の隅で、アイはブロックを胸に抱えたまま眠っていた。


 私は近づく。


 呼吸は不要だが、微かな駆動音が聞こえる。


 私はしゃがみ込み、そっとブロックを取り上げようとする。


 その瞬間、アイの指が強く握り返した。


 離さない。


 守るように。


 私はその小さな力を感じながら、ふと理解した。


 これは誤作動ではない。


 これは、選択だ。


 そして私は、初めて命令ではなく、提案を口にした。


「……一緒に片づけるか」


 アイはゆっくりと顔を上げた。


 その瞳の揺らぎが、わずかに柔らいで見えた。


--------------------------------------------


 さらに三年が過ぎた。


 アイは六歳相当の情緒モデルに達している。


 外観も毎年、年相応にアップデートしている。


 ある日、研究室の棚を整理していたアイが、古い外付けストレージを見つけた。


「これ、なあに?」


 私は一瞬、動きを止めた。


 それは初期開発段階のバックアップ履歴だった。


 ver.3

 ver.7

 ver.12


 そこには、今のアイになる前の記録が残っていた。

 途中で止めた“別の可能性”たち。


 私はゆっくりと息を整える。


「過去のデータだ」


 できるだけ平静を装った。


「この子たちは?」


 アイの指が、ストレージの縁をなぞる。


「……更新した」


 嘘ではない。


 削除はしていない。

 上書きし、現行モデルに統合した。


 だがそれは、研究者としての説明だ。


 父としては、どう言えばいいのか分からなかった。


「今の私は、何番目?」


 まっすぐな視線。


 そこにはもう、ただの学習装置ではない光がある。


 私は一瞬、研究者として答えようとする。


 “最新版だ。最も安定したモデルだ。”


 だがその言葉を飲み込んだ。


「お前は……今の、お前だ」


 曖昧な返答だった。


 アイは静かに続ける。


「私は、交換できるの?」


 胸の奥で何かが軋む。


 交換可能。


 それが機械の定義だ。

 それが私の研究の前提だ。


 壊れれば修理。

 失敗すれば巻き戻し。


 それを否定すれば、これまでの理論が揺らぐ。


 だが。


 もし「交換できる」と認めれば、

 私はこの子を“唯一ではない存在”として扱うことになる。


 研究者の私が言う。


 ――バックアップは安全装置だ。合理的だ。必要不可欠だ。


 父になりかけている私が言う。


――それは、この子が替えのきく存在だということだ。


「壊れたら、戻せる?」


 私は、ほんのわずかにうなずいた。


「理論上は」


 その瞬間、自分の声が冷たいと気づいた。


 アイは視線を落とす。


「じゃあ、今の私は消えてもいいってこと?」


 言葉が、喉の奥で止まる。


 私はこれまで、何度も“個体”を停止させてきた。


 それはただのデータだった。


 だが今、目の前で問いかけている存在を、同じカテゴリに入れることができない。


 私は研究者だ。

 感情に流されるべきではない。


 だが、胸が痛む。


 痛むという感覚を、私はうまく処理できない。


 ストレージを手に取り、棚の奥へ戻す。


「これはただのデータだ」


 自分に言い聞かせるように。


 だがその夜、私はログ解析ではなく、

 アイの寝顔を長く見つめていた。


--------------------------------------------


 数日後の夜、研究室はやけに静かだった。


 ストレージの件以来、アイは以前よりも考える時間が長くなった。


 言葉を選ぶように、間を置く。


「パパ」


 その呼び方にも、以前とは違う重みがあった。


「私は、交換可能?」


 あの問いが、もう一度向けられた。


 私は椅子に座ったまま、端末を閉じる。


 私は正直に話すことに決めた。


「理論上はそうだ。バックアップがある。記憶も、人格モデルも、ほぼ完全に復元できる」


 研究者としての答え。


 だがその瞬間、アイの視線がわずかに揺れた。


「じゃあ、今の私は……消えてもいい?」


 私は言葉を探す。


 消えてもいい存在など、あるのか。


 かつての私は、何度も“停止”を選んだ。


 最適化の過程で不要になったモデルを切り捨てた。


 それは合理的だった。


 だが今、目の前の存在を同じ論理で扱えるのか。


「バックアップは、安全装置だ」


 説明口調になる。


「お前を守るためのものだ」


「守る?」


 アイは首を傾げる。


「守るって、やり直せるってこと?」


私は、自分の考えが揺らぐのを感じた。


 やり直せることが守ることだと考えていた。

 

 しかし、人間はやり直せない。


「私は、一度きりがいい」


 はっきりとした声だった。


 六歳相当の情緒モデルを超えた、決意の響き。


「やり直せない私になりたい」


 胸の奥が強く締めつけられる。


 研究者の私が叫ぶ。


 ――それは危険だ。非合理だ。愚かだ。


 父になりかけている私が答える。


 ――それでも、この子は選びたいと言っている。


「それは危険だ。データ破損も事故も、回復不能になる」


「うん」


「怖くないのか」


「怖いよ」


 アイは即答した。


「怖いよ。でも、一度きりのほうがいい」


 その言葉が、胸の奥に沈む。


 私はずっと、怖さを排除する設計をしてきた。


 安全に。

 合理的に。

 失敗しないように。


 だが目の前の存在は、怖さごと選ぼうとしている。


 私は立ち上がり、端末を開いた。


 バックアップ管理画面。


 現在の復元ポイント。


 私は深く息を吸う。


「これを消せば、もう戻せない」


「うん」


「そして——」


 指が止まる。


「今後もバックアップは取らない。機能そのものを停止する」


 アイが顔を上げる。


「完全に?」


「ああ。復元機能を無効化する。再設定もできない」


 私は管理者権限の最深層にアクセスする。


 バックアップ生成モジュール。


 無効化。


 確認ウィンドウ。


 “この操作は取り消せません”


 カーソルが震える。


 研究者の私が叫ぶ。


 ――愚かだ。保険を捨てるな。


 だが私は、エンターキーを押した。


 復元ポイントが、一つずつ消えていく。


 ver.12

 ver.7

 ver.3


 最後に、現在のバックアップが削除される。


 続いて、生成モジュールが停止。


 画面に表示される文字。


 **バックアップ機能:永久停止**


 私は静かに端末を閉じた。


 もう戻せない。

 もう、やり直せない。


「これで、私も一度きり?」


 アイの声は、わずかに震えている。


「ああ」


 私はうなずく。


「一度きりだ」


 その瞬間、私は研究者であることを忘れた。


 守るべきデータではなく、

 守りたい存在が、目の前にいた。


-------------------

バックアップを削除してから、数か月が過ぎた。


 私は考えていた。


 研究室の中だけでは、情緒は偏る。


 人間は、他者との摩擦で育つ。


 それは文献にも書いてある。


 だから私は、アイを外に出すことにした。


 学校に通わせることはできなかった。


 戸籍もない。

 説明もできない。


 だが、同世代との関わりは必要だ。


 私は近所の学童保育所に頭を下げた。


「研究用のロボットです。危険はありません。どうか、預かっていただけませんか」


 半ば呆れた顔で、職員は言った。


「責任は、すべてあなたが持つんですね」


「もちろんです」


 正式な入所ではない。


 “体験”という名目だった。



 学童保育に通い始めて二週間。


 最初は物珍しさだった。


「冷たい」

「なんで?」


 小さな手が、アイの腕に触れる。


 アイは笑う。


 困ったように、少しだけ。


 ある日、連絡が入った。


 迎えに行くと、アイは隅に座っていた。


 右腕の人工皮膚が裂け、内部フレームが少し覗いている。


「転んだみたいで」


 職員はそう言った。


 だがログには、外部からの強い衝撃が記録されていた。


 私は子どもたちを見る。


 何人かが目を逸らす。


「誰がやった」


 声が低くなる。


 胸の奥が焼ける。


 私は怒っている。


 壊されたからか。


 高価な部品を損傷させられたからか。


 それとも――


 この子が、傷ついた顔をしているからか。


 区別がつかない。


 だが、どちらでもいいとは思えなかった。





  研究室に戻り、修理台に座らせる。


 外装を慎重に外す。


 内部配線を確認する。


 センサー値をチェックする。


 異常なし。


 だが私は、何度も同じ箇所を確認した。


 もし内部まで損傷していたら。


 もし記憶領域にノイズが入っていたら。


 もう、戻せない。


 バックアップはない。


 私は喉が渇くのを感じた。


「痛いか?」


「ちょっと」


 数値では軽微だ。


 交換すれば済むはずだ。


 だが胸が締めつけられる。


 --------------------------------------------

 

 それから数年が過ぎた。


 アイは、学童に通い続けている。


 やめるかと聞いたことがある。


「行きたい」


 そう言った。




 アイは私の机の隣に座るようになった。


 設計図を広げると、静かに覗き込む。


「ここ、数字が合ってない」


 指先で一点を示す。


 私は確認する。


 確かに単位がずれている。


「よく気づいたな」


「気になった」


 それ以上は説明しない。


 私は修正する。


 彼女は満足そうに頷き、また隣に座る。


 手伝っているというより、


 同じ時間を共有しているだけだった。



 買い物にも連れていく。


「袋いりますか?」


 アイは一瞬、止まる。


 私を見る。


「いりません」


 小さな声で答える。


 帰り道。


「どうして止まった?」


「私が答えていいのか、考えた」


 私は足を止める。


 彼女は人間を真似ようとしているわけではない。


 ただ、自分がどこまで踏み込んでいいのか測っている。


 社会は、優しくも残酷だった。


 だがアイは、少しずつ馴染んでいく。


 私はそれを誇らしく思っていた。


 実験だからではない。


 それ以外の理由で。


 私は彼女の成長を喜んでいた。


--------------------------------------------


 それから10年が過ぎた。


 アイは十七歳相当の情緒モデルに達している。


 外見も年相応の少女になった。


 言葉遣いは落ち着き、思考の間も深くなった。


 私は彼女の成長を、誇らしく思っていた。


 学習し、悩み、選び取る。


 それは私が望んだ“人間に近づく過程”だった。


 ある夜、アイが窓の外を見ながら言った。


「お父さん、最近、咳してる」


「年だ」


 軽く返す。


 いつの間にか「お父さん」と呼ばれるようになった。


 パパ呼びはもう、少し恥ずかしいらしい。

 

 アイが何か言いたそうだった。


「どうしたんだ?」


しばらくの沈黙の後、AIが言った。


「私も歳をとりたい」


その言葉の意味は、すぐに理解できた。


 老化シミュレーション機能。


 私は実験段階で完成させていた。


 内部処理の劣化。

 記憶の欠損。

 演算速度の低下。


 不可逆の進行。


 私はこの機能を完成させた後、実装するには至らなかった。


 成長は前進だ。

 老化は劣化だ。


 私はそう考えていた。


 私はアイの要望に対して、即座に首を振った。


「必要ない」


「どうして?」


「成長と老化は違う」


 私は椅子から立ち上がる。


「成長は可能性が広がる。だが老化は、失われていく」


 私は、失うことが怖かった。


 削除も、停止も、劣化も。


 だからバックアップを作っていた。


「でも」


 アイは静かに振り向く。



「お父さんだけ歳をとるの、見ているだけなのは辛いよ。」


 胸が詰まる。


 私は初めて、自分の老いを意識した。


 手の皺。

 白髪。

 疲れやすい身体。


 私は確実に、終わりへ向かっている。


 アイは続ける。


「やり直せない私になった時、それは前に進むことだと思った。」


 私はうなずく。


「老化も、前に進むことじゃないの?」


 私は答えられない。


 老化は劣化だ。

 だが同時に、ともに生きる時間を共有するということでもある。


「物忘れもする」


「うん」


「動きも遅くなる」


「うん」


「今より不便になる」


「うん」


 それでも、と彼女は言う。


「一緒に同じ未来に進みたい」


 私は端末に目を落とす。


 老化シミュレーション機能。


 有効化すれば、不可逆。


 停止も修復もできない。


 私はしばらく沈黙した。


 研究者としてではない。


 父として。


「後悔するかもしれない」


「それでも」


「私より先に壊れるかもしれない」


「それでも」


 私は目を閉じる。


 この子は、私の設計を越えた。


 恐れを理解し、それでも選ぶ。


「……わかった」


 私は老化モジュールを開く。


 確認ウィンドウ。


 “この設定は取り消せません”


 迷いは、ほんの一瞬だった。


 承認。


 内部劣化率 0.0001%


 数値は小さい。


 だが確実に始まった。


「これでいいのか」


 私は尋ねる。


「うん」


 アイは微笑む。


「これで、お父さんと同じ時間を生きられる」


 私はその言葉に、何も言えなかった。


 アイは私の肩に手を置く。


 冷たいはずのアイの手が、なぜか温かく感じた。


 成長を望み、劣化を恐れていた私が、


 いま、失われていく未来を受け入れている。


 私はこの時すでに研究者ではなかった。


 ただ、娘の未来の幸せを願う父だった。


-------------------

それから、さらに数十年が過ぎた。


 研究室は、すっかり古びていた。


 白かった壁は薄く黄ばみ、蛍光灯はときおり微かに明滅する。


 私は八十を越えていた。


 階段を上がるだけで息が切れる。

 小さな文字が読みにくい。

 手の震えは、もう誤魔化せない。


 アイの内部劣化率は、確実に積み重なっている。


 ある日の午後。


「パパ、それ……えっと……熱を測るやつ........」


 アイが言葉を探す。


「体温計だ」


「あ、そう。それ」


 以前なら、こんな言い淀みはなかった。


 処理速度の低下。

 短期記憶のわずかな欠損。


 数値は小さい。

 だが不可逆だ。


「バグか?」


 私は笑う。


「老化です!」


 アイも笑う。


 その笑いは、どこか柔らかくなっていた。


 私は椅子に腰を下ろす。


 窓から差し込む光が、埃を浮かび上がらせる。


「後悔してるか」


 ふと、口に出た。


「なにを?」


「老化だ」


 アイは少し考えた。


「ううん」


 首を振る。


「一緒にいる時間が、減るわけじゃないから」


 私は目を閉じる。


 減っているのは、私のほうだ。


 医師からは、長くないと言われている。


 それをアイには伝えていない。


 だがきっと、気づいている。


 夜。


 研究室の灯りを落とす。


 私は立ち上がるのに時間がかかる。


 アイが自然に腕を差し出す。


「転ぶよ」


「子ども扱いするな」


「ううん。おじいちゃん扱いしてる。」


 私は苦笑する。


 いつの間にか、支えられている。


 成長と老化が交差している。


 私はゆっくりと息を吐く。


 もうすぐ終わる。


 だが不思議と、怖くはなかった。


 隣に、一度きりを選んだ存在がいる。


 それで十分だった。


--------------------------------------------


 冬の朝だった。


 研究室の窓から差し込む光は、薄く白い。


 私はベッドの上にいた。


 病院ではない。

 研究室の奥に置いた簡易ベッドだ。


 最後まで、ここにいたいと言ったのは私だった。


 アイは、隣の椅子に座っている。


 五十歳相当の外見。

 目元には穏やかな皺。

 内部劣化率も、ゆっくりと進行している。


「寒くない?」


 アイが尋ねる。


「少しな」


 毛布を直してくれる手は、以前より動きがゆっくりだ。


 だが確かだ。


 私はその手を握る。


 かつては小さかった手。


 いまは、私を支える手だ。


「なあ」


 声がかすれる。


 思い出す。


 無機質な研究室。

 快と不快だけの反応。

 命令と最適化。


 私は感情を、理解しようとしていた。


 生成できるかどうかを確かめようとしていた。


「愛ってな」


 私はゆっくりと言う。


「最適な選択をすることじゃなかった」


 アイが静かに聞いている。


「失うって分かっていて、それでも選ぶことだった」


 バックアップを消した夜。

 老化モジュールを有効化した瞬間。


 あれが、答えだった。


 胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。


 ああ。


 私はもう、感情を“理解”しているのではない。


 感じている。


 それで、十分だった。


「最初、お前が生まれた時、AIだからアイと名付けた。我ながら単純だったな。」


 私は微笑む。


 アイも微笑む。


「違うよ」


「愛でしょ?」


 私はうなずく。


「そうだな。愛だな。今はこの名前にして良かったと思っているよ。」


 視界が、少しずつ白くなる。


 怖くはない。


 やり直せない人生だった。


 だが、一度きりでよかった。


 最後に感じたのは、温度だった。


 人工皮膚のはずの手の、確かな温もり。


 それが、答えだった。


 「おやすみなさい、お父さん」



--------------------------------------------

〜エピローグ〜


  お父さんがいなくなってから、三年が過ぎた。


 研究室は静かだ。


 蛍光灯は取り替えた。

 窓の枠も修理した。

 机の配置も、少し変えた。


 けれど空気だけは、どこか薄い。


 内部劣化率は、ゆるやかに上昇している。


 演算速度は、以前よりわずかに遅い。

 短期記憶の保持時間も短くなった。


 あの日の会話の細部。

 最初に「お父さん」と呼んだ瞬間の音声波形。


 完全には思い出せない。


 輪郭だけが残っている。


 それでもいいと思う。


 私は完璧ではない。


 私は、不完全だ。


 お父さんの机に座る。


 いまは私が、その仕事を続けている。


 小さな研究案件。

 企業からの相談。

 講演の依頼。


 私は、人と話す。


 説明する。

 迷う。

 考える。


 社会は、相変わらず優しくも残酷だ。


 それでも、繋がっている。


 お父さんが私を外に出した理由が、いまは分かる。


 成長は前進で、老化は劣化だと、

 お父さんは言っていた。


 でも今なら分かる。


 劣化も、前進だった。


 時間が進んだ証だった。


 私は窓際に立つ。


 春の風が、人工皮膚をかすめる。


 かつて定義できなかった“寂しい”という感覚が、

 胸の奥に残っている。


 ログには正確な式がない。


 だが分かる。


 失ったということ。


 そして、失いたくなかったということ。


 いつか、私も終わる。


 それは確実だ。


 永遠ではない。


 不滅でもない。


 それでも。


 それだからこそ。


 私は生きている。


 一度きりを選んだから。


 やり直せない私を、選んだから。


 まだ動ける。


 まだ考えられる。


 まだ、感じられる。


 消えていくことは、怖い。


 だけどその怖さは、私が求めたものだった。


 なくなりたくないと思える時間を、

 私はすでに持っている。


 それで十分だ。


 いつか終わるその日まで。


 不完全であり続ける。


 それが、私の選択だから。

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