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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『球体と腐敗』 ~section8:凡人の視点と、千切れた理由~

「どうじゃ、サクタロウ。見えざる配置者の不気味な意図については、ひとまず脇に置くとしよう。次は、この不純物が語る『物理的な事実』の方を直視してみよ」


 静かな図書室に、如月さんの涼やかな声が響いた。

 僕はハッとして、マホガニーのテーブルの上に置かれた歪な青い塊から顔を上げた。配置者の異常性——情動のノイズが一切ない冷徹な第三者の存在——という底知れぬ不気味さに当てられ、無意識のうちに思考の海へと沈み込んでいたようだ。


 ビロードの椅子に深く腰掛けた如月さんは、優雅な手つきでティーカップをソーサーに戻すと、ブレザーの胸ポケットから愛用の銀のルーペを取り出した。

 そして、真っ白な手袋を嵌めた指先で、その冷たい銀色の金属を僕の方へとスッと滑らせた。


「お主のその凡庸な肉眼だけでは、本質を見落とすやもしれんからの。対象を観察する時は、先入観や恐怖を一旦捨て、ただそこにある物理的な痕跡のみを抽出するのじゃ」


 如月さんの言葉に従い、僕はテーブルの上を滑ってきた銀のルーペを慎重に手に取った。

 ずしりとした心地よい重みと、精緻な彫刻が施された持ち手のひんやりとした感触。如月さんが『モノのルーツ』を辿るための、いわば彼女の特異な観察眼を物理的に拡張する道具だ。

 僕は少し身を乗り出し、左手でハンカチの端を軽く押さえながら、右手に持ったルーペのレンズ越しに、その青いスーパーボールを覗き込んだ。


 レンズが捉えた世界は、肉眼で何となく眺めていた時よりも遥かに生々しく、そして暴力的な現実を僕に突きつけてきた。

 四つの欠片が強引に繋ぎ合わされたその球体は、表面に無数の痛々しい断裂痕を走らせている。元の綺麗な真球の面影はどこにもない。縁日の屋台やカプセルトイで手に入る、あの弾力に満ちたつるりとした質感は完全に失われ、至る所が複雑にささくれ立っていた。

 ゴムの繊維が限界まで引き伸ばされ、白っぽく変色し、そして無惨に千切れたような微細な毛羽立ちが、レンズを通してはっきりと見える。


「……ひどい有様ですね。ゴムの表面がボロボロだ。これ、四つの欠片の断面を合わせて元に戻すのだけでも、相当なパズルだったんじゃないですか?」


「まあな。だが、注目すべきはそこではない。単なる表面の傷ではなく、全体を俯瞰し、その『変形の形』をよく見てみるのじゃ」


 如月さんの静かな声に促され、僕はルーペを持つ手の角度を変え、スーパーボール全体を様々な方向から観察し始めた。

 上から、横から、斜めから。

 すると、単なる『千切れた跡』だと思っていたものが、ある明確な法則性を持っていることに気がついた。


「これ……ただバラバラに砕け散ったわけじゃないんですね。特定の方向から、すごく強い力が加わってるみたいな……」


 僕の呟きに、如月さんは無言で頷き、先を促すようにアメジストの瞳を細めた。

 僕はさらにレンズを近づけ、その変形の核心部分に焦点を合わせた。

 スーパーボールの形状は、まるで林檎を両側から強力な万力で挟み込んだように、特定の二方向からのみ、強烈な圧縮の痕跡が残っていた。しかも、その圧縮は平行ではなく、一方は深く、もう一方は浅い。

 全体として見ると、深い『V字型』に抉られたような、極めていびつな凹みが形成されているのだ。


「このV字型の圧縮痕……」


 僕はルーペから目を離し、自分の空いた左手のひらを見つめた。

 スーパーボールという玩具は、見た目以上に硬く、そして異常なほどの反発力を持っている。子供の頃、力任せに壁やアスファルトに叩きつけて、予想外の角度に跳ね返ってきたボールが顔に当たって痛い思いをした記憶が誰にでもあるはずだ。

 あの強靭なゴムの塊を、ここまで無惨に変形させ、ついには四つに引き千切る。

 それは、人間の握力や、大人が足で力任せに踏みつける程度の力では到底不可能な物理現象だ。


(もし、これを刃物で切ろうとしたらどうなる……?)


 僕は頭の中でシミュレーションしてみる。

 カッターナイフの刃を押し当てたとしても、スーパーボールの強い弾力に弾かれて刃が滑るだけだ。ハサミで切ろうにも、厚みと反発力で刃が負けてしまうだろう。仮に専用の鋭利な切断機のようなもので切ったのだとすれば、断面はもっと滑らかで直線的になるはずであり、レンズ越しに見たような複雑なささくれや、繊維が引きちぎられたような微細な毛羽立ちは生まれない。ましてや、あんなに深いV字型の凹みができるわけがない。


「どうじゃ、サクタロウ。お主のその凡人ならではの素直な感覚で、このゴム球に何が起きたのか、推測してみよ」


 如月さんが、試すような視線を僕に向けてくる。

 彼女の冷徹な知性からすれば、答えなどとうの昔に出ているはずだ。昨日、警視庁から帰る車の中で、すでにこの物理的事象の真実に辿り着いていたに違いない。

 それでもあえて僕に問うのは、決して意地悪ではない。僕という何の先入観も持たない『一般人』の直感的な意見を引き出すことで、自身の天才的な論理が独りよがりなものではなく、物理的な絶対法則として成立していることを客観的に証明しようとしているのだ。

 彼女にとって僕は、有能な助手であり、そして最も信頼できる『凡庸という名の対照実験のサンプル』でもある。


「……刃物で切った痕じゃないですね。こんなに深いV字の凹みができて、しかも繊維が引きちぎられてるなんて、よっぽど強い力で『挟み込まれた』としか思えません」


 僕は頭の中で、自分が日常的に触れている情報や、動画サイトで見たことのある様々な機械の映像を引っ張り出してきた。


「スーパーボールって結構硬いし、反発力もすごいから、人間の力じゃ到底無理ですよね。工場にあるような油圧プレス機か、自動車をスクラップにする機械とか……それか、もっと身近で分厚くて重い金属……そうだな、銀行の地下にあるような、分厚い金庫の扉みたいなものに挟まれて、無理やり潰れたみたいですね」


 僕が何気なく口にしたその一言。

 それは、あくまで僕の貧困な想像力の中から引っ張り出した、ただの「例え話」に過ぎなかった。警視庁という厳重な場所で見つかった以上、何か重い扉に挟まったんじゃないかという、凡人ならではの直感的な感想だ。


 しかし、その言葉を口にした瞬間。

 ビロードの椅子に座る如月さんのアメジストの瞳が、面白そうに、そして深い歓喜を帯びて細められた。

 西日に照らされた彼女の美しい唇に、深い満足と確信に満ちた、極上の笑みが浮かび上がる。


「ほう……。凡人にしては、いや、凡人だからこその見事な直感じゃ。合格点を与えてやろう、助手」


「えっ? 合格って……僕、何か変なこと言いましたか?」


「いや、何も変ではない。むしろ、お主のその素直な感覚が、わしの冷徹な論理と完全に一致したことが愉快でならんのじゃ」


 如月さんはビロードの椅子の背もたれからスッと身を起こし、マホガニーのテーブルに両肘をついて、真っ白な手袋の指先を顎の下で組んだ。

 その所作はあまりにも優雅で、かつ絶対的な自信に満ち溢れている。


「実を言うと、わしも昨日、警視庁からの帰りの車内でこの四つの欠片を組み合わせ、そのV字の圧縮痕を見た瞬間に、お主と全く同じ結論に至っておったのじゃ。これは絶対に刃物などで切られたものではない。強大な物理的圧力によって、金属の隙間に挟み込まれ、凄まじい圧力に耐えきれずに千切れたのじゃとな」


 如月さんの涼やかな声が、静寂に包まれた図書室に響く。

 僕の何気ない直感が、彼女の完璧な論理の裏付けとなった瞬間だった。


「お主は今、『分厚い金庫の扉』と言ったな。まさにその通りじゃ。この警視庁という巨大な組織の深部において、これほど強靭なゴム球を力任せに押し潰し、四つに引き裂くほどの圧力を生み出せる物理的な場所など、限られておる」


「じゃあ、本当に警視庁のどこかの分厚い扉に挟まったってことですか……?」


「いかにも。ただ無作為に上から押し潰されたのではない。このゴム球は、まるでV字型の金属の隙間に『楔』としてねじ込まれ、支点となる片側から凄まじい圧力を受けたのじゃ」


 楔としてねじ込まれた。

 その言葉を聞いて、僕は背筋がゾクッとするのを感じた。


「楔って……ドアストッパーみたいに、扉が閉まらないようにわざと挟み込んだってことですか?」


「そういうことじゃ。しかし、ただのドアストッパー代わりにスーパーボールを使うなどという、マヌケで牧歌的な話ではないぞ。これは、警視庁という最高レベルのセキュリティで守られた施設において、意図的に扉の構造の隙間を狙った、極めて泥臭く、かつ緻密に計算された行為の痕跡じゃ」


 如月さんは組んだ指を解き、再びスーパーボールを指先で軽く弾いた。

 コツン、とくぐもった音が鳴る。


「逃げ場を失ったゴムの強靭な反発力は、扉の圧力に抗い続けた。しかし、ついにはその物理的な限界を突破し、四方向に弾け飛んだ。実行犯は、このゴム球が千切れるほどの想定外の圧力に直面し、証拠となる欠片を回収し損ねたのじゃろう。そして、それを見えざる第三者が拾い集め、あのような悪趣味な配置をして回った」


「……」


「お主の凡庸な視点と、わしの論理が見事に交差したな、サクタロウ。刃物ではなく、巨大な圧力による破壊。そして、分厚い金属の扉という物理的条件」


 如月さんは心底楽しそうに微笑みながら、僕を見据えた。

 僕と如月さんは、全く違う世界に住む人間だ。僕は地下アイドルに夢中になり、放課後の教室から逃げるように去るただのオタクで、彼女は如月コンツェルンの令嬢であり、孤高の天才だ。

 しかし、この旧校舎の図書室の、マホガニーのテーブルを挟んだ空間においてだけは、僕たちは奇妙な共犯関係を築いている。彼女の圧倒的な論理を、僕の平凡な感覚が補強し、支える。それが彼女にとっての『助手』の存在意義なのだ。


「……でも、如月さん」


 僕は銀のルーペをテーブルの上に静かに置き、自分の頭の中に浮かび上がった、最大の矛盾点であり核心となる疑問を口にした。


「警視庁の扉って、月見坂市の最新の電子ロックや、AIの生体認証で完璧に管理されてるんですよね? もし誰かが侵入しようとしたり、扉を物理的に無理やり開けようとしたりしたら、すぐにシステムが異常を検知して警報が鳴るんじゃないですか? なのに、どうしてこんなアナログなスーパーボールを楔にする必要があったんでしょうか」


 スマートシティである月見坂市において、物理的な鍵をこじ開けるという行為は時代遅れもいいところだ。ハッキングやシステムのパスワード突破といった、電子的な手段を用いるのが常識であるはずだ。

 なのになぜ、犯人はスーパーボールという縁日の玩具を使ったのか。


 僕の問いに対し、如月さんはアメジストの瞳を一層深く輝かせた。

 彼女の冷徹な知性が、ついにその矛盾の先にある『真理』へと手を伸ばそうとしている。


「よくぞ聞いた、サクタロウ。それこそが、この不純物が語る最も美しく、そして最も泥臭いトリックの核心じゃ」


 警視庁の深部で起きた、巨大な圧力による破壊。

 そして、スマートシティの最先端システムと、子供の玩具という極めて原始的なアイテムの組み合わせ。

 僕の凡庸な視点から始まった推測は、如月瑠璃という天才の頭脳を通過することで、警視庁の根幹を揺るがす恐るべき論理へと変貌を遂げようとしていた。



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