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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『球体と腐敗』 ~section7:忠犬の出迎えと、不純物の披露~

マホガニーのアンティークテーブルの上で、上質なハンカチの布地が、まるで一輪の白い花が咲くようにゆっくりと開かれていく。


 西日が差し込む旧校舎の図書室。静寂に包まれたその空間で、僕——朔光太郎は、息を詰めてその中身を凝視した。


 布の中心に鎮座していたのは、鮮やかな青色をした、一つの丸いゴムの塊だった。


「……スーパーボール、ですか? 子供が遊ぶ、あの?」


 僕の間の抜けた声が、埃の舞う図書室に響いた。


 しかし、それは僕が縁日の屋台やカプセルトイで見慣れている、あのつるりとした綺麗な真球のスーパーボールとは似ても似つかない姿をしていた。


 元々は一つの球体だったものを、無理やり四つに引き千切り、それを再びパズルのように強引に繋ぎ合わせたような、いびつで傷だらけの代物。表面には無数の複雑な断裂痕が走り、特定の方向から深く押し潰されたような跡が残っている。どう見ても、子供が楽しく遊んだ結果としてこんな無惨な姿になったとは思えなかった。


「いかにも。あのありふれたスーパーボールじゃ」


 如月さんはビロードの椅子に深く腰掛けたまま、ブレザーの胸ポケットから愛用の銀のルーペを取り出した。そして、真っ白な手袋を嵌めた指先で、その歪な青い球体をコンコンと軽く叩いた。


「しかし、このゴム球が辿ってきたルーツは、お主が想像するような子供の無邪気な遊びなどではない。この四つの欠片は昨日、警視庁という月見坂市で最も厳重な空間の、極めて不自然な四箇所にバラバラに散らばっておったのじゃからな」


「四箇所にバラバラに……? 警視庁の中でですか? 一体どこで見つけたんですか」


 僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。


 警視庁といえば、このスマートシティの治安の要だ。至る所にAI制御の監視カメラが張り巡らされ、死角はなく、清掃ドローンが二十四時間体制で床のチリ一つ逃さず磨き上げているはずだ。そんな場所に、こんな泥臭い不純物が四つも放置されている状況自体が、システムのバグとしか思えない。


「まず一つ目は、一階エントランスの受付カウンターの足元じゃ」


 如月さんはルーペ越しにスーパーボールのささくれた断面を覗き込みながら、淡々とした涼やかな声で語り始めた。


「巨大な観葉植物の鉢植えが置かれておってな。その葉の陰、人間の視線からはもちろんのこと、床を這う清掃ドローンのセンサーすらもギリギリ掻い潜るような、絶妙な『死角』に転がっておった」


「死角……」


「そして二つ目は、打って変わって目立つ場所じゃ。庁内の職員用食堂、窓際のパイプ椅子の座面のど真ん中。誰かが座ろうとして椅子を引けば、嫌でも目に付く強制的な提示じゃった」


 僕は頭の中で、その二つの光景を思い浮かべようとした。


 受付カウンターの鉢植えの陰。そして、食堂の椅子の座面。


 もし誰かが歩きながらポケットから偶然落としたのだとすれば、床を転がって壁際や部屋の隅で止まることはあるかもしれない。しかし、椅子の座面という高い位置に自ら跳ね上がって静止するなんて、物理法則を完全に無視している。


「三つ目は、さらに底意地が悪かったぞ。女子トイレの洗面台のボウルの底、排水溝の金属網のすぐ横の『淵』の部分に、絶妙なバランスで乗せられておった」


「トイレの洗面台の淵に……?」


「陶器の傾斜と金属の境目。あと一ミリでも内側にズレていれば排水溝に落ち、一ミリ外側なら滑り落ちていたであろう、極めて精密に計算された配置じゃ。不用意に手を出せばセンサー式の蛇口から水が吐き出され、水流で排水溝に流されてしまうという、発見者の行動の慎重さをも試す悪趣味なトラップ付きでな」


 如月さんの口元に、微かな、しかし確かな知的な興奮を伴った笑みが浮かんだ。彼女はそんな悪趣味なトラップを、さも極上のゲームを楽しんだかのように軽々と突破してきたのだろう。その光景が容易に想像できてしまう。


「最後の一つは、特別区画じゃ。取調室が並ぶ廊下で、部屋から出てきた若手刑事の靴底に、ベッタリと張り付いておった。おそらく元々は取調室の床に置かれていたものが、偶然踏みつけられて外に持ち出されたのじゃろう」


 受付カウンターの鉢植えの陰。

 食堂のパイプ椅子の座面。

 女子トイレの洗面台の淵。

 取調室の床。


 四つの場所が出揃い、図書室に重い沈黙が落ちた。西日の角度が少しだけ下がり、マホガニーのテーブルに落ちる影がゆっくりと伸びていく。


 僕は腕を組み、目の前に置かれたその青い不純物をじっと見つめた。


 ただのゴムの塊が、如月さんの言葉を通すことで、急に得体の知れない事件の決定的な証拠品のように見えてくるから不思議だ。


「……確かに、そんな場所に偶然転がっていくわけないですね」


 僕は慎重に言葉を選びながら口を開いた。


「椅子の上や洗面台の淵なんて、誰かが意図的に指でつまんで『置いた』としか考えられない。でも、如月さん。誰かがわざと置いたんだとしても、ただのタチの悪いイタズラって可能性はないですか? 掃除の手間を増やして喜ぶような、ストレスの溜まった警察官がいたとか。あるいは、被疑者の子供が持ち込んで、警視庁の中で落として回ったとか」


 僕が凡人ならではの率直な感想、もっと言えば、この不気味な事象をなんとか『日常の枠内』に収めようとする希望的観測を口にすると、如月さんはフッと冷ややかな息を吐いた。


 彼女がこの反応を見せる時、僕の凡庸な推測はすでに彼女の思考の何十歩も後ろに取り残されている証拠だ。


「サクタロウ、お主は相変わらず想像力が足りんのう。もし子供が落としたのなら、わざわざこんな力任せに四つに引き千切る必要がどこにある? しかも、警視庁の監視カメラの死角を完璧に把握し、清掃ドローンの巡回ルートすらも避けて配置して回るような計算高さが、子供にあるとでも思うのか?」


「う……それは、確かに。でも、警察官の内部犯によるイタズラなら……」


「それに、だ」


 如月さんは僕の言葉を遮り、真っ白な手袋の指先で、スーパーボールの表面をツーッとなぞった。


「この配置には、人間の行動特有の『情動のノイズ』が一切感じられんのじゃ」


「情動のノイズ……?」


「そうじゃ。わしは常日頃から『情動の視座』を用いて、モノに付着した過去の持ち主の感情の残滓を読み取っておる。普通、これほど手の込んだ、警視庁という権威を愚弄するような悪戯をする人間には、何らかの強烈な感情が伴うものじゃ」


 如月さんはアメジストの瞳を真っ直ぐに僕に向けた。その見透かすような視線に、僕は思わず背筋を正した。


「警察という巨大なシステムに対する反発。システムの隙間を突いてやったという、自分を誇示したい強烈な自己顕示欲。あるいは、特定の誰かを陥れようとするドロドロとした悪意や焦燥感。人間が意図的に何かを『隠す』『見せつける』という行為には、必ずそういった泥臭い感情の揺らぎが、行動の痕跡として残る」


「……」


「だが、この四つの欠片の配置には、そういった人間特有のノイズが一切見えん。まるで、極めて几帳面な存在が、アルゴリズムに従ってただ淡々とタスクを実行したかのような、ひどく無機質で平坦な印象を受けるのじゃ」


 如月さんの言葉に、図書室の空気が急激に温度を下げたような気がした。


 感情のない配置。


 それはつまり、この奇妙なゲームを仕掛けた何者かが、怒りも、喜びも、悪意すらも持たず、ただ『観測』するためだけに、この四つの欠片を警視庁の中に散らばせたということだ。


「監視カメラの死角という物理的な空白地帯を狙いすまし、まるで発見者を試すような幾何学的で精密な配置。見つけられなければそのまま清掃ドローンに処理されるか、水に流されるだけ。見つけられたとしても、それが何の意味を持つのかは一切語らない。これは、実行犯自身の焦りや保身から生まれた偶然の落とし物などではない。明確な意図を持った見えざる第三者による『配置』じゃ」


 僕は無意識のうちに自分の両腕をさすっていた。


 警視庁という、この街で最もセキュリティが厳しいはずの場所。そこで、誰にも気付かれずにスーパーボールを四つに千切り、監視の目を縫ってあちこちに配置して回った人間がいる。


 その見えざる存在の不気味さが、背筋をゾワゾワと這い上がってくる。


「……でも、目的は何なんでしょう。わざわざそんな手の込んだことをして、一体何を伝えたかったんですかね。如月さんへの挑戦状……とか?」


「さあな。わしにこの事象を気付かせるためか、それともただ純粋に、人間の非論理的な行動を観察して楽しむための余興に過ぎんのか。配置者の真意など、わしには全く分からんし、興味もない」


 如月さんは冷たく言い放ち、再びティーカップを手にとってダージリンを一口飲んだ。


「興味がない? じゃあ、如月さんは一体何を解き明かそうとしてるんですか?」


「サクタロウ、お主はいつも本質から目を逸らす。この不純物の真のルーツは、あのような奇妙な場所に配置されたこと自体ではない」


「えっ? 違うんですか? あんなに長々と不気味な配置の話をしておいて……」


「ああ。配置されたのはあくまで結果じゃ。配置者の意図など、ルーツ解明の副産物に過ぎん」


 如月さんはカップをソーサーに戻し、銀のルーペを通して、マホガニーのテーブルの上にある歪な青い球体をじっと見据えた。


「本当に解明すべきは、この子供の玩具が『なぜ、このような歪な形で千切れているのか』という、物理的な事実の方じゃよ。そして、それがこの警視庁の深部で起きた、ある泥臭い事象の決定的な痕跡であるということじゃ」


 如月さんの言葉に促され、僕は再びテーブルの上のスーパーボールに視線を落とした。


 無理やり接着された四つの欠片。


 その断面は、刃物でスパッと切られたような滑らかさはなく、複雑にささくれ立っている。表面には、両側から深く押し潰されたようなV字型の変形痕。


 この青い不純物が、警視庁の奥深くでどのような凄まじい物理的圧力を受けたのか。


 そして、それが警視庁という組織に隠されたどのような闇へと繋がっていくのか。


 如月さんの冷徹な論理が導き出したその恐るべき真相の核心へと迫るための、僕の凡人ならではの一言が引き金となるのは、このすぐ後のことだった。



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