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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『球体と腐敗』 ~section6:静かな放課後と、旧校舎の図書室~

 放課後を告げる穏やかな電子チャイムが、如月学園の新校舎に鳴り響いた。


 壁面のスマートボードに表示されていたホームルームの連絡事項がフッと消え、担任の教師が手元のタブレット端末を閉じる。それを合図に、教室の空気は張り詰めた授業モードから、一気に同級生たちの喧騒へと塗り替えられた。


 月見坂市という完全にネットワーク化されたスマートシティに住む高校生らしく、誰もが息をするようにデバイスと繋がり、効率的に放課後の予定を消化し始めている。部活動のミーティングに向かう者、駅前のカフェでの集まりをSNSで調整する者、あるいは足早にAI制御の学習塾へと向かう者。


 そんな中、僕——朔光太郎(さく こうたろう)は、指定のスクールバッグに手早く端末とノートを詰め込んでいた。


 僕の特等席は、教室の隅の目立たない席だ。得意なことはパソコンやAIを使った情報収集、そしてゲーム。逆に苦手なものは、大きな声で騒ぐ不良や怖い人、僕のインドアな趣味をバカにするような連中。


 そして何より、同世代の女性という存在が絶望的に苦手だった。もし万が一、すれ違いざまに肩でも触れようものなら、途端に心拍数が跳ね上がり、脳の処理能力が完全にフリーズしてしまうという、対人関係において致命的なバグを抱えている。だから、女子生徒たちが賑やかに集まり始める放課後の教室に、僕の居場所はない。長居は無用なのだ。


 ふと、ズボンのポケットでスマートフォンが短く振動した。


 周囲に気づかれないよう画面を盗み見ると、僕が魂を捧げている地下アイドルグループ『GyoGyoっとラブ』——通称『魚魚ラブ』の公式アカウントからの通知だった。推しであるセンターの子の新しい自撮り画像がアップされている。


 三次元の同世代の女性は恐怖の対象でしかないが、画面の向こうやステージの上で輝く彼女たちだけは完全に別枠だ。僕は口元がだらしなくにやけるのを必死に堪えながら画面をオフにした。


 家に帰ったら、旧市街の団地で一緒に暮らしている父親と、水槽で泳ぐ二匹の金魚に挨拶をした後、自室のパソコンでこの画像を心ゆくまで拡大して拝むとしよう。ホットケーキかポテチをつまみながら、コーラを流し込む。それが僕のささやかで完璧な日常だ。


 そんな平和な放課後の予定を脳内で反芻しながら、僕は教室の窓際、一番後ろの席に視線を向けた。


 深いネイビーのブレザーとチェックのスカート。如月学園の指定制服を身に纏った如月瑠璃(きさらぎ るり)が、一切の淀みない動作で席を立ち上がるところだった。


 周囲の女子生徒たちと全く同じ服を着ているにも関わらず、彼女の放つ特異な静謐さは微塵も隠しきれていない。彼女は同級生たちを一瞥することもなく、ただ真っ直ぐに教室の後ろのドアへと歩き出す。クラスメイトたちの会話の輪を避けるでもなく、ただ自然な直線軌道を描いて進む彼女に対し、生徒たちは無意識のうちに道を譲り、彼女の艶やかな漆黒のロングストレートヘアが廊下へと消えていくのを見送った。


 彼女は決して、周囲の人間を見下しているわけではない。他者を蔑んだり、優越感に浸ったりするような俗っぽい感情は、如月瑠璃という少女の中には一切存在しないのだ。ただ単に、彼女の極端な興味の対象——『モノのルーツ』以外の事象が、彼女の網膜には処理すべきノイズとしてすら映っていないだけである。


 いつもの光景だ。


 僕もすぐにバッグを肩にかけ、彼女の背中を追うように席を立った。


「あ、わりぃ朔! これ拾うのちょっと手伝ってくれ!」


 しかし、教室の出入り口に向かおうとしたその時、前の席の男子生徒が声をかけてきた。見れば、彼の手から滑り落ちたペンケースが派手に中身をぶち撒け、床に無数の文房具が散乱している。タッチペン、電子メモの予備バッテリー、消しゴム、そして色とりどりの付箋。


「あ、うん、わかったよ。ほら、そこにもペンが転がってる」


 さすがにこれを完全に無視して通り過ぎるほど、僕の神経は図太くできていない。僕は小さくため息をつき、床にしゃがみ込んでプラスチックの破片やペンを拾い集める作業を手伝った。


 如月さんは自分の目的地へ向かって一直線だ。同じクラスメイトの僕が遅れようが何しようが、廊下で立ち止まって待っていてくれるような人ではない。


 結局、片付けを手伝って教室を出るまでに、数分のタイムラグが生じてしまった。


 僕は足早に新校舎の渡り廊下を抜け、生徒たちがほとんど寄り付かない、敷地の外れにある古びた建物へと続く道を進んだ。今はもう使われていない、如月学園の旧校舎である。


 最新のAIシステムによって温度も湿度も、果ては時間帯に合わせた照明の明るさすらも最適化されている新校舎とは違い、旧校舎にはどこか懐かしい、埃と古い木材が混ざり合ったような独特の匂いが漂っている。


 完璧に空調管理された無臭の空間から、むせ返るようなアナログの空気への移行。歩くたびに『ギシッ、ギシッ』と軋む床板の音。窓枠は木製で、ところどころペンキが剥げ落ちている。夕暮れ時の西日が、磨かれていないガラスを通して廊下に長い影を落としていた。


 情報過多で常に何かの通知に追われているこのスマートシティにおいて、この旧校舎の空間だけが管理システムから忘れ去られ、時間の流れが止まっているかのようだ。


 僕は薄暗い廊下を進み、二階の一番奥にある『図書室』と書かれた色褪せたプレートの前に立った。


 当然、ここは立ち入り禁止の区画であり、本来なら分厚い南京錠がかけられているはずの場所だ。図書委員ですらないただの高校一年生の僕が、放課後にここを訪れる正当な理由など一つもない。


 しかし、僕が『助手』あるいは『忠犬』として仕えるあの人は、どういうわけかこの場所のセキュリティを合法的に突破し、勝手に自分の拠点にしてしまっているのだ。如月コンツェルンの令嬢という絶対的な権力を使えば、使われていない旧校舎の一室を私物化することなど、造作もないことなのだろう。


 重厚な木製のドアに手をかけると、廊下の埃っぽい匂いに混じって、微かにダージリンの芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。


 僕は小さく息を吐き、真鍮のノブを回した。


「失礼します、如月さん」


 ギィ、という古めかしい音と共にドアを開けると、そこには旧校舎という寂れた場所には到底似つかわしくない、異様なまでの優雅な光景が広がっていた。


 本来なら、古い本棚と長机が等間隔で並んでいるだけの、無味乾燥な図書室。しかし、その奥の窓際のスペースだけが、彼女が勝手に持ち込んだ数々の調度品によって、まるでヨーロッパの古い館からそのまま空間ごと切り取ってきたかのように変貌している。


 床のピータイルは見えなくなり、代わりに複雑な幾何学模様が織り込まれた分厚いペルシャ絨毯が敷き詰められている。その上には、重厚な艶を放つマホガニーのアンティークテーブルが鎮座していた。テーブルを囲むように配置されているのは、座り心地の良さそうな濃緑色のビロード張りの椅子。


 その横には、美しい装飾が施された銀のティーポットと、見たこともないような高級茶葉が入った缶、そして繊細な模様の入ったティーカップが並ぶ木製のワゴンが置かれている。


 さらには、部屋の隅には季節外れのこたつまでがポツンと置かれており、その混沌としたインテリアの組み合わせは、何度見てもシュールな光景だった。格式高いアンティークの中に突如として現れる庶民的なこたつ。彼女の『モノのルーツ』に対する敬意は、和洋のジャンルすらも容易く飛び越えてしまうらしい。相変わらず、空間のデッサンが狂いそうなほどのカオスなインテリアだが、不思議と居心地の悪さは感じない。


 そして、そのマホガニーのテーブルの奥、ビロードの椅子に深く腰掛けている如月さんは、僕が入ってきたことに気付いているはずだが、ティーカップを口元に運ぶ所作を崩さなかった。


 西日が彼女の漆黒の髪を照らし、微かな光の輪を作っている。静かにカップを下ろす所作、アメジストのような深い紫色の瞳が伏せられる瞬間の美しさ。黙って木陰で本でも読んでいれば、全男子生徒が放っておかないであろう、非の打ち所のない可憐な美少女だ。


 同世代の女子が絶望的に苦手な僕だが、不思議と如月さんに対してだけは、あの脳がフリーズするような恐怖や緊張を感じない。


 それはおそらく、彼女が僕にとって『同じ人間の女子』ではなく、『全く別の論理で動く未知の観察対象』のような存在だからだろう。あるいは、僕の生殺与奪の権を握る『主』に対して、忠犬としての本能が恐怖を上回っているだけかもしれないが。


「遅かったのう、サクタロウ。わしが教室を出てから、実に四分三十秒の遅れじゃ。日直の雑務でも押し付けられたか?」


 僕が定位置である向かいの木製の椅子へと腰を下ろすと、如月さんは手元の銀のティーポットを優雅な所作で持ち上げながら、いつもの古風な言い回しで口を開いた。


 咎めているわけではない。ただ単に『四分三十秒』という物理的な時間のズレを確認しているだけだ。


「いや、前の席のやつがペンケースを派手に落としまして。拾うのを手伝っていたら少し遅れました。すみません」


「なるほど。お主のその無駄に人の良いところは、時として余計なノイズを生むが……まあよい。その凡庸な優しさが、結果として足元の不純物を拾い上げる助けになることもあるからの」


 如月さんはそう言いながら、空のティーカップに赤褐色の液体を注ぎ、ソーサーごとスッと僕の目の前へと押し出した。


 ダージリンの香りが、マホガニーのテーブルを越えてより一層強く立ち上る。僕の好みで言えば、放課後はジャンクなポテチとコーラが一番なのだが、彼女が淹れてくれるこの紅茶の味が格別であることだけは否定できなかった。


「ありがとうございます。頂きます」


 僕がカップに口をつけると、如月さんは少しだけ満足そうに目を伏せた。


 如月さんは他者の感情に共感することは決してないが、作られた『モノ』に対しては異常なまでの敬意を払う。最高級の茶葉がどのようなルーツを経てこのカップに注がれたのかを熟知している彼女にとって、それを美味しく飲む人間を観察することは、ある種の礼儀に適っていると考えている節があった。


 紅茶をごくりと飲み込みながら、僕はテーブルの上をさりげなく視線で探った。


 いつもなら、彼女の手元には何百年も前の古文書や、カビ臭い革の手帳が広げられているはずだ。僕が来るまでの間、彼女はそれらを愛用の銀のルーペで熱心に覗き込んでいるのが常である。


 しかし今日、マホガニーのテーブルの上にあるのは、優雅なティーセットだけだった。


 古文書も、手帳もない。ただ、如月さんが両手を膝の上に上品に重ね、僕が紅茶を飲み込むのを静かに待っている。


「……あの、如月さん」


 僕はカップをソーサーに戻し、少しだけ居住まいを正した。


「今日は随分と、テーブルの上がスッキリしてますね。いつも読んでる、あの分厚い古文書はどうしたんですか?」


「ああ、あれか。あれのルーツはあらかた辿り終えてしまったからの。それに……今日はそれ以上に、極上の事象の報告会をせねばならん」


 如月さんのアメジストの瞳が、面白そうに細められた。


 今日の彼女の表情は、ただの落とし物を拾った時のような軽いものではない。もっと深く、もっと泥臭く、そして極上の謎の気配を感じ取った時の、あのゾクッとするような知的な興奮が、その美しい顔に張り付いている。


「極上の事象……昨日、お爺さんの仕事に同行して警視庁へ行ってた件ですか?」


「いかにも。じいじの退屈な用事に付き添ってやった甲斐はあったというものじゃ。大人たちの会談が終わるのを待っている間、わしは一人で庁内を散策しておってな。そこで極上の不純物に出会ったのじゃ」


 如月さんは制服のブレザーのポケットから、真っ白な手袋を嵌めた手をゆっくりと引き出した。


 その手には、上質なハンカチに厳重に包まれた『何か』が握られている。ハンカチの布地越しにも、それが奇妙に歪で、ゴツゴツとした不規則な形をしていることが分かった。


「ただ落ちていたわけではない。明確な意図を持った何者かによって、わざわざ見せつけるように、あるいは発見者を試すように『配置』されておったのじゃ」


 如月さんはそう言うと、真っ白な手袋の指先で、マホガニーのテーブルの上に置いたハンカチの包みをゆっくりと開き始めた。


 西日が差し込む図書室の静寂の中、布が擦れる微かな音だけが響く。


「さあ、サクタロウ。お主のその凡庸な瞳で、この極上の謎の残骸をしかと見るがよい」


 ハンカチの布が少しずつ開かれ、中身が姿を現そうとしている。


 僕は息を呑み、身を乗り出してその物体を凝視した。


 警視庁という厳重な空間に、一体どんな『ありえないモノ』が配置されていたというのか。


 僕の平穏な日常が、如月瑠璃の特異な鑑定願によって再び奇妙なルーツの旅へと引きずり込まれる、その最初の合図が鳴ろうとしていた。



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