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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『球体と腐敗』 ~section5:歪な完全体と、帰還の途~

 特別区画の分厚い強化ガラスのゲートが、背後で重々しい電子音と共に閉ざされた。

 警視庁のエントランスホールに戻ってきた如月瑠璃は、深紅のゴシックドレスの裾を揺らしながら、大理石の太い柱の陰で静かに足を止めた。休日の朝とはいえ、行き交う警察官や関係者たちの数は先ほどよりも心なしか増えているように感じる。

 瑠璃は鞄の専用ポケットから真新しい真っ白な手袋を取り出し、先ほど若手刑事の靴底から最後の不純物を受け取った際に僅かに汚れた手袋と素早く交換した。モノのルーツを辿求するプロフェッショナルとして、対象に触れる道具の清浄さは決して妥協できない絶対条件である。


(さて、見立て通り四つの欠片は全て揃い、ひとつの歪な球体へと収束した。これ以上、この無機質で退屈な空間に長居する理由はないな)


 手袋の皺をスッと伸ばして整え終えたその時、ホールの中央にあるVIP専用の直通エレベーターが、軽やかな到着音を鳴らした。

 静かに開いた銀色の扉の向こうから、如月コンツェルン会長である如月弦十郎が姿を現す。数人の警視庁幹部らしき男たちが彼に向かって深々と頭を下げる中、弦十郎は鷹揚に頷き、彼らを背にして歩き出した。

 その歩みは力強いものの、瑠璃の『物理的観察眼』は、弦十郎の眉間に刻まれた微かな疲労の皺と、朝よりもほんの数ミリだけ緩んでいるネクタイの結び目を見逃さなかった。


「お待たせしたな、瑠璃。一人で退屈しなかったか?」


 弦十郎は柱の陰に佇む孫娘を見つけると、険しかった表情を一瞬で緩め、柔和な『じいじ』の顔に戻って歩み寄ってきた。


「随分と時間がかかったのう、じいじ。お主のその微かな疲労の情動から察するに、AIシステムの本格導入は、そうすんなりとは歓迎されなかったようじゃな」


「ハッハッハ、お前には敵わんな。その通りだ。トップの津嘉山殿とは完全に合意しているのだが、やはり組織の古株の中には、自分たちの仕事がすべてデータ化され、AIに監視されることを快く思わない連中がいてな。少しばかり、泥臭い説得と牽制が必要だったのだ」


 弦十郎は軽く肩をすくめ、やれやれといった様子で息を吐いた。


(データ化され、監視されることを嫌う、か。それはつまり、システムによって白日に晒されては困る『過去の不純な埃』を抱えているということじゃな。まったく、人間という生き物はどこまでも非論理的で、己の保身にのみ忠実なことだ)


 瑠璃は内心で冷たく毒づきながらも、表面上は興味なさげに視線を逸らした。


「大人たちの建前と腹の探り合いなど、わしには関わりのないことじゃ。それより、帰るぞ。この空間は、どうにも人間の泥臭いノイズが多すぎて鼻につく」


「ああ、そうだな。長居する場所でもない。車を回させてある」


 弦十郎に促され、瑠璃は警視庁の無機質なエントランスを後にした。

 外に出ると、月見坂市の人工的に制御された穏やかな風が、深紅のドレスのフリルを微かに揺らした。空調で完璧に漂白された庁内の空気とは違う、僅かにアスファルトの匂いが混じる外気。


 地下駐車場から地上へと現れた如月家の黒塗りの高級車に乗り込むと、重厚なドアが外界の音を完全に遮断した。

 車は滑るように発進し、AIによって最適化された新市街の道路を、ブレーキの振動すら感じさせない完璧な軌道で走り出す。窓の外には、計算し尽くされた日照角度で植えられた街路樹と、チリ一つないクリーンな街並みが広がっている。すべてが論理の通りに動く、スマートシティの模範的な風景。

 しかし、瑠璃の意識は窓の外の完璧な景色にはなく、自身の両手の中に収められた『歪な不純物』へと完全に集中していた。


 瑠璃はドレスの隠しポケットからハンカチを取り出し、後部座席の柔らかな本革シートの上でそれを静かに開いた。

 真っ白な手袋の上に乗せられた、鮮やかな青色。

 四つの欠片をパズルのように組み合わせ、本来の姿を取り戻したスーパーボール。しかしそれは、表面に無数の痛々しい断裂痕を走らせ、特定の二方向からV字型に深く押し潰されたような、極めていびつな形状をしていた。


(このゴム球の変形痕。ただ上から無作為に潰されたのではない。楔として金属の隙間にねじ込まれ、凄まじい圧力を受けて千切れた証拠じゃ。警視庁という最高レベルのセキュリティで守られた施設において、これほど原始的で泥臭い物理手段を用いて、分厚い扉か機械を『こじ開けようとした』者がおる)


 瑠璃は胸元のポケットから銀のルーペを取り出し、V字に圧縮されたゴムの繊維をさらに詳細に観察し始めた。

 どれほど最新鋭の電子ロックやAI監視システムを導入しようと、扉という構造物が『物理的な金属の蝶番(ヒンジ)』で動いている以上、そこには必ず物理法則の隙間が存在する。

 例えば、分厚い防爆扉が完全に閉まるほんの数ミリの瞬間に、この極めて高い反発力を持つスーパーボールを蝶番の隙間に挟み込んだとしたらどうなるか。

 ゴムの弾力が扉の完全な閉鎖を物理的に阻む。しかし、システム側のセンサーは、その数ミリの隙間を『正常に施錠された』あるいは『規定値内の微細なズレ』と誤認する可能性がある。

 これは、電子の死角を突いた、極めてアナログで凶悪な『物理的ハッキング』の痕跡だ。


「……瑠璃? どうした、そんな丸いゴミの塊を熱心に見つめて。警視庁で拾ったのか?」


 隣に座る弦十郎が、不思議そうに孫娘の手元を覗き込んできた。

 瑠璃は手袋の上の歪な球体をハンカチで包み直すと、薄く笑みを浮かべた。


「ゴミではない。これは、この月見坂市の論理的なシステムに対する、極めて泥臭いエラーの残骸じゃ。……じいじよ。あの警視庁の中で、最も分厚く、凄まじい圧力で閉まる扉といえば、どこじゃろうな?」


「分厚い扉? そうだな……構造的に最も堅牢なのは、地下にある『特別証拠保管庫』だろうな。過去数十年の重大事件の証拠品が眠る場所だ。有事の際には防爆扉が作動し、戦車の砲撃にも耐えうる仕様になっているはずだが……それがどうかしたのか?」


「……いや、何でもない。ただの少しばかり質の悪い冗談を思いついただけじゃ。じいじは気にしなくてよい」


 瑠璃ははぐらかすように窓の外へ視線を戻した。弦十郎は不思議そうな顔をしたものの、孫娘のいつもの気まぐれだろうと納得し、それ以上追及することはなかった。


 だが、瑠璃の内心は違った。

 特別証拠保管庫。過去の重大事件の証拠品。

 先ほどの弦十郎の言葉が、瑠璃の脳内でひとつの明確な線として繋がったのだ。

 ——『自分たちの仕事がすべてデータ化され、AIに監視されることを快く思わない連中がいる』。


(なるほど。過去の不正な押収品の横流しや、裏金作りの帳簿。そういった『不純な埃』が地下の保管庫に眠っているとしたら。AIシステムが本格導入され、過去の全データが照合される前に、物理的に保管庫に侵入して証拠を隠滅する必要があった。そのために、システムの目を欺くスーパーボールの楔を利用した。論理は、完全に通ったな)


 瑠璃は確信に満ちた息を吐き、車の本革シートに深く背中を預けた。

 警視庁を揺るがす、内部の腐敗と証拠隠滅の工作。この青い不純物は、その犯罪の決定的な痕跡だ。

 しかし、瑠璃の明晰な頭脳は、そこで生じるもう一つの『ノイズ』を処理しきれずにいた。


(証拠隠滅を図った何者かは、このゴムの塊を扉の隙間に挟んだ。しかし、防爆扉の圧力は想定を遥かに超えており、スーパーボールは耐えきれずに四つに弾け飛んだ。問題は、その後じゃ。なぜ、この四つの欠片は、あのように不自然な場所へと散らばっていた?)


 瑠璃はハンカチの上から、四分割された球体の感触を指の腹でなぞった。


 受付カウンターの鉢植えの陰。

 食堂のパイプ椅子の座面。

 女子トイレの洗面台の排水溝の淵。

 そして、若手刑事の靴底に踏まれていた最後の欠片(おそらく元は取調室の床に置かれていたもの)。


(実行犯が回収し損ねた欠片が、ゴム特有の異常な反発力で予測不能な跳ね方をして、偶然あの場所に収まった? ……いや、あり得んな。食堂の椅子の座面や、洗面台の淵に、あのような絶妙なバランスで自然に静止する確率など、天文学的な数字じゃ。ならば、清掃ドローンの誤作動か? あるいは、偶然欠片を見つけた別の警察官が、悪戯心で奇妙な場所に置き直したのか?)


 瑠璃は目を細めた。

 犯人が意図的にあのような配置をするメリットは皆無だ。見つかるリスクを高めるだけである。

 ならば、この配置は『意図せぬエラーの連鎖』か、あるいは『悪意を持った誰かの悪戯』のどちらかということになる。

 防爆扉で砕け散ったゴムの欠片が、誰かの靴の裏に張り付いて運ばれたり、清掃ドローンに弾かれたり、あるいは誰かがつまみ上げて適当な場所に放置したり……そういった人間の無意識の行動や、物理的な偶然が幾重にも重なった結果、あのような奇妙な配置が完成したのだとしたら。


(まったく。人間の行動が絡むと、事象は途端に複雑で泥臭いものになる。完璧に計算された物理的ハッキングと、その後に生じた予測不能なノイズの散乱。この二つの矛盾したルーツが混在しているからこそ、この不純物は極上の謎になり得るのじゃ)


 巨大組織の腐敗など、瑠璃にとってはただの凡庸な人間の業に過ぎない。そんなものは、この不純物のルーツを解明する上での『副産物』でしかない。

 瑠璃の心を真に捉えて離さないのは、強大な物理的圧力に耐えきれずに砕け散ったこの青い球体が、どのような物理法則と人間の気まぐれを経て、庁内のあちこちに散らばっていったのかという『過程ルーツ』そのものであった。


「……ふむ」


 瑠璃は小さく息を吐き、視線を再び窓の外へと移した。

 黒塗りの高級車は、夕暮れに染まり始めた月見坂市の新市街を、一切のノイズを立てることなく滑らかに進んでいく。


(警視庁の特別証拠保管庫に採用されている防爆扉のメーカーと、そのヒンジ部分の正確な寸法。それらの公開データや仕様書さえ揃えば、このスーパーボールがどのような物理的圧力で破壊されたのか、数学的に完全に証明できるはずじゃ。……わし自身が検索できないわけではないが、あの無機質に発光するデジタル機器の画面を長時間睨みつけるのは、どうにも肌に合わん。やはりルーツというものは、物理的に触れるか、あるいは紙の資料で読み解くのが一番じゃからの)


 瑠璃の脳裏に、旧市街の団地に住む、少しばかり頼りないがPC操作やAIの活用に関しては一人前の、あの同級生の顔が浮かんだ。

 彼は決してシステムを裏から暴くようなハッカーではないが、広大なネットの海から必要な公開情報を的確に拾い上げる『検索能力』にかけては、凡人ながらに小回りが利く。チカチカする画面を見るのが億劫な瑠璃にとって、これほど使い勝手の良い手駒はいない。


(明日の放課後、いつものように旧校舎の図書室で、あの忠犬……いや、助手に調べさせるとしよう。あやつの得意な情報収集能力なら、メーカーの仕様書くらいすぐに見つけ出せるじゃろう)


 深紅のドレスの隠しポケットの中で、歪な完全体となった青いゴムの球体が、まるで明日の展開を待ちわびるかのように微かな弾力を保っていた。

 ただの子供の玩具が辿った、権力の腐敗と物理的圧力のルーツ。

 如月瑠璃の、冷徹な論理と物理的観察眼による本格的な鑑定に向けて、彼女の特異な歯車は、静かに、しかし最高速で回転し始めていた。



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