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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『球体と腐敗』 ~section4:若手刑事の靴底と、最後の欠片~

 女子トイレの無機質なタイルの空間を後にした瑠璃は、再び警視庁の灰色の廊下を歩き出した。

 膝が隠れる程度の清楚かつ計算された丈のスカートは、フリルとレースが規則正しい足取りに合わせてふわりと揺れ、静まり返った廊下に微かな衣擦れの音だけを落としていく。


 瑠璃は歩きながら、先ほどの水回りの捜索で使用した真っ白な手袋を淀みない動作で外し、鞄の専用ポケットへと仕舞い込んだ。そしてすぐさま、替えの真新しい手袋を取り出し、指の先までぴったりと嵌め直す。


(受付カウンターの死角、食堂のパイプ椅子の座面、そして女子トイレの洗面台の淵。これまでの三つの配置には、配置者の歪んだ几帳面さと、発見者を試すような底意地の悪さが明確に表れておった。ならば、最後の四分の一はどこに配置されるべきじゃろうか)


 新しく張りを持った手袋の感触を確かめながら、瑠璃はドレスの隠しポケットに収められた『三つの欠片』の重みを意識した。

 スマートシティの中枢であるこの警視庁は、広大でありながら、その構造は極めて論理的かつ機能的に作られている。来庁者が行き交うエントランスホール、職員が休憩する食堂、そして監視の目を逃れる水回り。

 配置者がもし、この警視庁という建物の『役割』そのものを配置のテーマに組み込んでいるのだとしたら、次に向かうべき場所は自ずと絞られてくる。


(警察という組織の本質。それは、罪を犯した人間の情動を暴き、冷徹な論理と証拠で追い詰めること。その泥臭い営みが最も色濃く行われる場所といえば、あそこしかあるまい)


 瑠璃はアメジストの瞳を見開き、迷いのない足取りでさらに奥深くへと進んだ。

 やがて彼女の前に、天井から床までを遮る透明な強化ガラスの壁と、ホログラムで『関係者以外立ち入り禁止/特別区画(取調室エリア)』と表示された厳重なAIセキュリティゲートが立ちはだかった。

 当然、一般の来庁者はここから先へは一歩も進むことはできない。ゲートの上部に設置されたセンサーが瑠璃の姿を捉え、無機質な警告音を鳴らそうと赤色に点滅し始めた。


(さて、じいじから押し付けられたこの札が、どこまで通用するか見物じゃな)


 瑠璃は顔色一つ変えず、深紅のドレスの胸元に光る『如月コンツェルン特別入館証』を、ゲートの読み取りパネルへと無造作に翳した。

 月見坂市のシステムそのものを構築し、今まさにこの警視庁の中枢システムを管理しようとしている巨大企業、如月コンツェルン。そのトップである如月弦十郎の直系親族が持つこのカードは、単なるフリーパスではない。AIに対して『最上位のVIP権限』を強制的に認識させる、いわばマスターキーのような代物だ。

 システムは一瞬の高度な演算の沈黙ののち、警告の赤ランプを静かに緑色へと変え、分厚い強化ガラスの扉を恭しく左右に開いた。


(……まったく、権力というものは論理を容易く飛び越える。呆れたものじゃ)


 内心で小さく毒づきながら、瑠璃は堂々と特別区画へと足を踏み入れた。

 この区画に入った途端、廊下の空気が微かに、しかし決定的に変わったのを瑠璃は肌で感じ取った。空調の設定温度は外の廊下と同じはずだが、分厚い壁の向こう側に染み付いた無数の人間たちの焦燥、嘘、恐怖、そして諦観といった強烈な情動の残滓が、物理的なノイズとなって空間に重く淀んでいるのだ。


(実に泥臭く、不純な空間じゃ。ここでならば、あの悪趣味な配置者も、極上の見せ場を用意しているに違いない)


 瑠璃は足音を殺し、取調室が等間隔で並ぶ薄暗い廊下をゆっくりと進んだ。

 分厚い防音扉が並ぶ景色は、まるで巨大な金庫の内部を歩いているような錯覚を引き起こす。それぞれの扉の横には、使用中であることを示す赤いランプが付いているものと、消灯しているものがある。

 配置者が、この密室空間のどこに最後の欠片を隠したのか。しかし、使用中の取調室に勝手に入るわけにはいかないし、空き部屋を一つ一つ探すのも非効率だ。瑠璃は研ぎ澄まされた『物理的観察眼』と聴覚を全開にし、廊下に佇んだまま周囲の微細な情報を拾い集め始めた。


 数分の静寂の後。

 瑠璃の十メートルほど前方、赤いランプが点灯していた『取調室7』の分厚い扉が、重々しい金属音を立てて内側から開かれた。

 中から姿を現したのは、ダークスーツを着崩した、二十代後半と思しき若手刑事だった。その表情には、被疑者との長時間の堂々巡りのやり取りに疲弊しきったような、濃い疲労の色が滲んでいる。手には分厚いファイルが握られており、彼は大きく、そして乱暴なため息を吐きながら廊下へと足を踏み出した。


 瑠璃はその若手刑事の姿を視界の端に捉えつつも、壁際に寄り、彼が通り過ぎるのを静かにやり過ごそうとした。

 しかし、若手刑事が廊下を歩き出したその最初の三歩の足音。

 それを耳にした瞬間、瑠璃の背筋に電撃のような直感が走った。


(……ほう?)


 瑠璃のアメジストの瞳が、鋭く若手刑事の足元へと向けられる。

 特別区画の床も硬質な大理石であり、革靴で歩けば「カツッ、カツッ」という規則正しく澄んだ音が鳴るはずである。しかし、今瑠璃の鼓膜を叩いた若手刑事の足音は、右足と左足で明確な違いが生じていた。


(左足の着地音が、右足に比べてコンマ数秒遅く、かつ音の波形が鈍い。さらに、靴底が床から離れる瞬間に、大理石と何かが微かに粘着し、引き剥がされるような『ペチャッ』という極小の摩擦音が混じっておる。これは、靴底のヒール部分ではなく、つま先寄りのソールに、極めて弾力性と粘着性のある異物が付着している証拠じゃ)


 瑠璃の脳内では、わずか数秒の足音のサンプリングから、若手刑事の靴底の状況が完璧な3Dモデルとなって構築されていた。

 歩幅のコンマ数ミリのズレ。体重移動の不自然さ。そして、ゴム特有の微細な摩擦音。

 それらはすべて、彼が左足の靴底に『あるもの』を踏みつけたまま歩いていることを如実に物語っていた。


「……あー、クソッ。なんだこれ。どうりで歩きにくいと思った」


 瑠璃の視線に気づくよりも早く、若手刑事自身が足元の違和感に気がついたらしい。

 彼は忌々しそうに舌打ちをすると、廊下の壁に手をついて左足を後ろに持ち上げた。そして、靴の裏にべったりと張り付いている異物を確認し、眉間に深い皺を刻んだ。


「取調室の床に、ガムか? いや……なんだこれ、ただの青いゴムのゴミじゃねえか。誰だ、こんなところに落としたやつは。まったく、今日はいちいちイラつくことばかりだぜ」


 若手刑事は独り言のように悪態をつきながら、手元のファイルを小脇に抱え、空いた手で靴底に張り付いたその『青いゴムのゴミ』を力任せにむしり取った。

 その瞬間、瑠璃の瞳に確かな歓喜の光が灯った。

 若手刑事の指先に摘ままれているのは、間違いなく、彼女が探し求めていた最後の四分の一、鮮やかな青色をしたスーパーボールの欠片だった。


(なるほど。配置者はあの取調室の床に、あえて最後の欠片を置いたのじゃな。しかし、それは部屋を使用していたこの男の靴底によって偶然踏みつけられ、意図せず部屋の外へと持ち出されてしまった。配置者にとっても、これは想定外のイレギュラーな移動だったというわけか。まったく、人間の無意識の行動ほど、完璧な計算を狂わせるものはないわ)


 若手刑事は引き剥がした青い欠片を汚物でも見るような目で睨みつけると、そのまま数歩先の廊下の隅に設置された小さなゴミ箱へと放り投げようと腕を振り上げた。


「待て。その不純物、わしが引き取ってやろう」


 凛とした、しかし絶対的な命令を含んだ涼やかな声が、薄暗い廊下に響き渡った。

 若手刑事はビクッと肩を震わせ、腕を振り上げた不格好な体勢のまま、声の主へと振り返った。

 彼の視線の先に立っていたのは、警視庁の、しかも特別区画という血生臭い場所には到底似つかわしくない、深紅のゴシックドレスに身を包んだ小柄な美少女だった。艶やかな黒髪と、底知れぬ深さを持つアメジストの瞳。そして何より、彼女が全身から放つ、他者を一切寄せ付けないような孤高の威圧感に、若手刑事は完全に圧倒され、言葉を失った。


「え……あ、君は……? なんでこんな特別区画に子供が……」


「子供ではないわ。わしは如月瑠璃じゃ。それより、お主が今、靴の裏から剥がして捨てようとしているその青いゴムの欠片。それは、わしがルーツを辿っている重要な不純物じゃ。お主のような者がただのゴミとして処分していい代物ではない。大人しく、こちらへ渡すがいい」


 瑠璃は真新しい真っ白な手袋を嵌めた右手を、スッと若手刑事の目の前に差し出した。

 その所作はあまりにも優雅で、かつ有無を言わせぬ迫力に満ちていた。若手刑事は完全に彼女のペースに飲み込まれ、彼女が名乗った如月という苗字と、胸元に光る絶対的な権力の象徴である入館証を見て、さらに戸惑いの表情を深めた。


「き、如月……って、あのコンツェルンの会長のお孫さん? いや、でもこれ、ただのゴムのゴミだぞ? 俺の靴の裏にくっついてただけで、汚いし……」


「汚いかどうかは、わしが決めることじゃ。その不純物が辿ってきた経路に比べれば、お主の靴の裏の汚れなど、取るに足らん些細なノイズに過ぎん。さあ、早く渡せ。わしは気が短いのでな」


 瑠璃の冷徹な眼差しで射抜かれ、若手刑事はもはや抵抗する気力すら失ったようだった。彼は半ば無意識のうちに、摘まんでいた青い欠片を、瑠璃の真っ白な手袋の上にそっと乗せた。


「あ、ああ……どうぞ」


「うむ。賢明な判断じゃ。お主のその疲労困憊の情動から察するに、取り調べは難航しているようじゃが、まあ、せいぜい頑張ることじゃな」


 瑠璃はそう言い残すと、あっけにとられる若手刑事をその場に放置し、深紅のドレスの裾をふわりと翻して颯爽と歩き出した。

 手袋の上に乗せられた最後の欠片は、靴底で強く踏みつけられたためか、僅かに薄汚れ、ゴムの表面が歪んでいた。しかし、その断面の複雑なささくれは、間違いなく他の三つの欠片と完全に符合する形状を保っていた。


(まったく。配置者の罠をことごとく論理で突破して見つけたわけではなく、ただの偶然の産物として最後に手に入るとは。ルーツというものは、時に計算すらも凌駕する気まぐれを起こすものじゃのう)


 瑠璃は歩きながら、ドレスの隠しポケットからハンカチを取り出し、これまでに集めた三つの欠片からなる歪な塊を取り出した。

 そして、手袋の上にある最後の欠片を、まるで失われた心臓を元の場所へと戻すかのような慎重な手つきで、大きく抉り取られた空白の箇所へと近づけていく。

 凄まじい物理的圧力によって千切れた、四つの断面。


 ——ピタリ。


 最後のピースがはめ込まれた瞬間、一切の隙間なく、四つの欠片は完全に融合した。

 瑠璃の真っ白な手袋の上には今、鮮やかな青色をした、一つの完全な『スーパーボール』が鎮座していた。

 いや、完全ではない。無理やり千切られたものを強引に繋ぎ合わせたその球体は、表面に無数のひび割れのような歪な断裂痕を走らせ、元々の美しい真球とは似ても似つかない、傷だらけでいびつな姿を晒していた。


(……見事じゃ。ついに、四つのピースが揃ったか)


 瑠璃は歩みを止め、特別区画の薄暗い蛍光灯の光に、その歪な球体を透かしてみた。

 四つの欠片が完全に揃ったことで、これまでの単なる『千切れた断面』からは読み取れなかった、ある決定的な物理的情報が瑠璃の目に飛び込んできた。


(なるほど。個別の断面を見ているだけでは気付かなかったが……全体を俯瞰すると、『圧力の指向性』が明確に浮かび上がってくるな)


 瑠璃の冷徹な知性が、急速に計算を始める。

 元の球体に戻ったとはいえ、スーパーボールの形は完全な真ん丸ではない。まるで林檎を両側から強く挟み込んだように、特定の二方向からのみ、強烈な圧縮の痕跡が残っているのだ。しかも、その圧縮は平行ではなく、一方は深く、もう一方は浅い『V字型』の変形を伴っていた。


(ただ上から無作為に押し潰されたのではない。このゴム球は、まるでV字型の金属の隙間に『くさび』としてねじ込まれ、支点となる片側から凄まじい圧力を受けたのじゃ。そして逃げ場を失ったゴムの強靭な反発力がついに限界を突破し、四方向に弾け飛んだ)


 瑠璃の美しい唇が、知的な興奮に微かに震えた。

 これほど強靭な反発力を持つゴムを、わざわざ楔として挟み込み、強引に数ミリの物理的な隙間を作らねばならなかった巨大な金属の扉、あるいは機械。


(ただの子供の玩具の悪戯ではない。これは、警視庁という巨大な組織の深部で起きた、何らかの『物理的ハッキング』の決定的な残骸なのだ)


 誰が、何の目的で、最新鋭のシステムで守られたこの警視庁において、あえてゴムの玩具という泥臭い物理手段を用いて扉をこじ開けたのか。そして、その痕跡であるこの欠片を、悪趣味に配置して回った者の真意とは。


 すべてのピースが揃った今、不純物の真のルーツを探るための極上の鑑定願が、如月瑠璃の脳内で本格的に幕を開けようとしていた。



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