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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夏風と約束の念珠』 ~section10:和音と、余白~

 二十二年前の約束の念珠。その真実が完全に解き明かされた今、残されたのは、この冷厳な事実を突きつけられた店主が、どうやってその重圧に耐えるのかという結末だけだった。


「……ああ、ああぁっ……!」


 白檀の香りが深く沈殿する旧市街の老舗仏具店に、四十代の男のひどく生々しい嗚咽が響き渡った。

 それは、もはや「幽霊の呪い」という未知の怪異に対する怯えではない。如月瑠璃の完璧な物理的証明によって逃げ道をすべて塞がれ、己が二十二年間背負い続けてきた「親友の人生を犠牲にして生き延びた」という圧倒的な罪の現実と、ついに真正面から向き合わされたことによる、魂の決壊だった。


 床に突っ伏したまま、店主は自らの作務衣の胸元を強く握りしめ、子供のように泣きじゃくっている。

 これで、彼の二十二年間に及ぶ欺瞞は終わったのだ。しかし、彼がこれからどうやってあの親友の言葉と向き合い、罪を償って生きていくのかは、僕にはわからない。永遠に解き明かされないと思っていた秘密が暴かれた今、彼は『すべてを知られてしまった』という新たな現実に直面し、その重圧に押し潰されそうになっていた。


「サクタロウ。帰るぞ」


 その重く、ひどく感傷的な空気を一切の容赦なく切り裂いたのは、如月瑠璃の透き通った声だった。


「え……?」


 僕が顔を上げると、深いミッドナイトブルーのリネンワンピースを纏った如月さんは、すでに床で泣き崩れる店主に背を向け、出入り口のガラス戸の方へと歩き出していた。彼女の右手には、あのアンティーク調のパゴダ日傘がしっかりと握られている。


「氷が完全に溶けきって水になってしまう前に、拠点へ戻るのじゃ。わしは極限まで冷やしたアールグレイが飲みたい。……ルーツが完全に解明された今、こんな湿っぽい情動の残骸が漂う空間に、これ以上長居する理由はない」


 彼女の紫のアメジストのような瞳には、事件を解決したという誇らしげな感情も、店主への同情も微塵も存在していなかった。ありえない場所にありえないモノがある。その物理的なルーツが特定できた時点で、彼女の知的好奇心は完全に満たされ、この場所への興味はすでに失われているのだ。


(いくらなんでも、このまま放って帰るなんて……さすがに……)


 僕がそのドライすぎる態度に内心で毒づき、両手に持った重い荷物を持ち直そうとした、その時だった。


 ガラス戸に手を掛けた如月さんが、ふと、その動きを止めた。

 彼女は振り返ることなく、背中越しの虚空に向かって、ひどく平坦な、しかしよく通る声でぽつりと告げた。


「……もし、お主の親友がお主を本気で憎み、永遠の呪いをかけたかったのなら、あ奴自身があの数珠を刃物で切断し、証拠を完全に隠滅した上で消え去ればよかったのじゃ。そうすれば、お主は『自分が仕掛けた滑車を親友が回収して去った』という事実だけを背負い、一生、その証拠を見ることも触れることもできず、永遠に真実が解き明かされない虚無の中で苦しみ続けることになったじゃろう」


 ピタリ、と。

 床に突っ伏していた店主の嗚咽が止まった。


「しかし、あ奴はそうしなかった。お主が編み上げたあの『手作りの滑車』を、そのままあの非常階段に残すことを選んだのじゃ」


 如月さんは、パゴダ日傘の持ち手を軽く握り直し、静かに言い放つ。


「それは、お主の職人としての技術を誰よりも信じていた証じゃ。……あの強固な結び目がそう簡単には朽ち果てず、いつかお主が過去の罪と向き合い、真実を解き明かすその日まで、あの場所で待ち続けてくれると信じて託したのじゃよ。あれは呪いではない。いつか解き明かされることを前提とした、二人だけの『タイムカプセル』じゃ。……あとは、お主自身がどう生きるかじゃな」


 それだけを言い残すと、如月さんは躊躇いなくガラス戸を引き開けた。


 店主の両目から、再び大粒の涙が溢れ出したのが見えた。しかしそれは、先ほどまでの絶望の涙ではない。己の卑怯さを許し、二十二年間もの間ずっと自分を信じて待っていてくれた親友の『本当の想い』に気づくことができた、魂の救済の涙だった。


 僕は、その背中に向かって深く一度だけ頭を下げると、急いで如月さんの後を追い、店の外へと出た。


 カラン、コロン……。


 くぐもったドアベルの音が背後で鳴り、ガラス戸が閉まる。

 途端に、外の暴力的なまでの猛暑と、ミンミンゼミの狂ったような鳴き声が、物理的な質量を持って僕の全身に叩きつけられた。


「ああっ、暑い……っ!」


 一瞬にして吹き出した汗が、如月学園の制服のシャツにじっとりと張り付く。アスファルトからの強烈な照り返しで、視界がぐにゃりと歪んで見えた。

 新市街のスマートシティのような自動冷却システムなど存在しない、昔ながらの旧市街。お盆特有の生温かい南風が、通りに等間隔で飾られた迎え火代わりの提灯を大きく揺らしている。


 如月さんは、一歩外に出るなり優雅な所作でパゴダ日傘を開き、その濃い影の中にすっぽりと身を隠した。白いレースのボレロが微かに風に揺れ、彼女の周囲だけが、まるで別の季節を生きているかのように涼しげだ。


「……如月さん」


 なだらかな坂道を登り、新市街の学園へ向けて歩き出しながら、僕はたまらず口を開いた。


「なんだ、サクタロウ。暑さでついに脳まで茹で上がったのか?」


 日傘の下から、相変わらずの冷淡な声が返ってくる。


「茹で上がってませんよ。……ただ、如月さんはやっぱり、すごいなって思って。最後のあの言葉……あの店主、完全に救われましたよね。二十二年間も一人で抱え込んでいた呪縛を、如月さんが最後に解き放ってあげたんですから。ちょっと見直しました」


 僕が少しだけ尊敬の念を込めてそう言うと、如月さんのサンダルの足音がピタリと止まった。

 彼女は日傘を肩に預けたまま、ゆっくりとこちらを振り向き、信じられないほど愚かな生き物を見るような目で僕を冷たく射抜いた。


「真性の愚か者じゃな、お主は」


「ぐ、愚か者って……事実じゃないですか。如月さんが最後にあの『親友の本当の想い』を教えてあげなければ、あの人は一生、真実が暴かれたことへの恐怖と後悔だけで生きていくところだったんですよ?」


 僕の抗議に対し、如月さんは氷柱を叩き割るような冷徹な声で、僕の感傷を完全に一刀両断した。


「わしは、誰も救うてはおらん」


「え……?」


「わしがやったのは、ありえぬ場所にあった『手作りの滑車』という物理的矛盾を観察し、その素材や結び目から論理的にルーツを特定しただけじゃ。……その結果として、あの男が過去の罪悪感から解放されようが、逆に絶望に打ちひしがれようが、わしにとっては一切関係のないこと。それはルーツ解明にあたって生じた、単なる『情動の副産物』にすぎん」


 彼女のスタンスは、出会った時から一貫して揺るがない。

 彼女は他者の悲しみや苦しみを完璧に理解・解明することはできる。だが、そこに感情移入して共感することは決してない。最後のあの救いの言葉すらも、彼女にとっては『残された物理的な証拠から導き出された、最も論理的な情動の解析結果』を、ただ事実として口に出して提示したにすぎないのだ。


「副産物、ですか……。如月さんらしい徹底した冷たさですね」


「事実を述べているまでじゃ。……さあ、急ぐのじゃ。氷が溶ける」


 再び歩き出した彼女の背中を追いかけながら、僕は額の汗をハンカチで拭った。

 確かに、事件は完璧に解決した。幽霊も呪いも存在せず、すべては物理的な要因と、生きた人間の情動の結果だった。


「でも、如月さん。だとしたら……一つだけ、どうしても腑に落ちないことがあるんです」


「腑に落ちない? お主のその貧弱な脳みそで、まだ理解できぬ物理現象があったとでも言うのか?」


「物理現象の話じゃないですよ。……『タイミング』の話です」


 僕は、両手に持った重い荷物を握り直し、ずっと胸の奥に引っかかっていた最後の疑問を口にした。


「あの非常階段の数珠は、二十二年も前からあそこに固定されていたんですよね。それなのに、今日の今日まであの『迎え鐘』のような音は誰の耳にも届かなかった。鳴ることもなかった。……なのになぜ、『今日』というこのタイミングに限って、突然あの数珠はあんな鐘のように鳴り響いたんでしょうか?」


 それは、ただの偶然で片付けるには、あまりにも出来すぎた話だった。

 今日、僕と如月さんがあの旧校舎の裏手にいて、あの音を聞かなければ、真実が解き明かされることは永遠になかったかもしれない。二十二年間沈黙していたものが、今日になって突然鳴り出したのだ。


 僕の問いに、如月さんは日傘の下で小さく息を吐いた。


「愚か者。そんなものは、少し考えればわかることじゃ。……すべては、複数の物理的要因が奇跡的な確率で重なり合った、単なる『共鳴現象』にすぎん」


「共鳴、ですか?」


「左様。サクタロウ、お主は弦楽器の音が鳴る仕組みを知っておるか? 弦の固有振動数fは、張力Tと線密度p 、そして長さLによって公式で導き出される」


如月さんは、空いている方の手で、目に見えない弦を弾くような仕草をした。


「あの数珠を構成していた絹の紐は、二十二年という途方もない時間、雨風と紫外線に晒され続けて劣化した。その結果、紐の繊維が少しずつ硬化し、全体の『張力』と『密度』が、二十二年前とは全く異なる数値へと変質したのじゃ。さらに、芯となっていた鉄の縦柵も同様じゃ。長年の腐食によって赤錆が層を成し、鉄パイプ自体の質量や表面の摩擦係数が大きく変化しておった」


 如月さんの説明は、身も蓋もないほどに論理的で、そして物理的だった。


「変質した絹の紐の張力。赤錆に覆われた鉄の質量。そして、今日このお盆の日に海から吹き込んだ、特定の風速と湿度を持った強い南風。……これらすべての物理的変数が、今日、この瞬間に限り、あの大掛かりな非常階段全体をスピーカーとして低周波で振動させる『完璧な和音』を偶然に生み出したのじゃよ」


「つまり……ただの、天文学的な確率の『偶然』だって言うんですか?」


「それ以外に何がある。幽霊が音を鳴らしたとでも言いたいのか? ……二十二年目の劣化具合と、本日の気象条件が奇跡的に噛み合った。ただそれだけの話じゃ。ルーツはすでに解明した。そんな単なる音響学的・気象学的な偶然など、わざわざこれ以上鑑定する価値もないわ」


 如月さんはそう言って、完全に興味を失ったように前を向いて歩き続けた。


 確かに、彼女の言う通りかもしれない。

 この世界に魔法は存在しない。すべては物理法則に従って動いている。

 しかし……。


(本当に、ただの偶然だったんだろうか……?)


 僕は、汗ばんだ手で、ズボンのポケットに入っていたスマートフォンを取り出した。

 旧市街の商店街を歩いている最中、僕のスマホには、設定している月見坂市のローカルニュースアプリから、一件のプッシュ通知が届いていたのだ。


 画面を点灯させ、その見出しをもう一度確認する。


『――世界的建築デザイナー・鷲見氏、22年ぶりに故郷の月見坂市に帰還。本日午後、新市街の再開発プロジェクト視察のため――』


「鷲見……」


 僕は思わず、その場に立ち止まった。

 画面に表示されたその名前。珍しい名字だ。先ほど、仏具店の店主が泣き崩れながら口にした、彼の人生を身代わりになって去っていった親友の名前と、完全に一致している。


 もし、このニュースの人物が、あの店主の親友だとしたら。


『真実が解き明かされる日が来たら、その時はお前を許してやりに帰ってきてやる』


 二十二年前、彼はそう言い残して学園を去った。

 そして今日。彼が二十二年ぶりにこの月見坂市に帰ってきた、まさに『その日』に。

 二十二年間沈黙を守り続けていたあの非常階段の数珠が、まるであの世からの迎え鐘のように、突然鳴り響いたのだ。


 そして、その音に導かれた如月さんの圧倒的な物理的観察眼によって、絶対に暴かれるはずのなかった過去の罪の真実が、完全に解き明かされた。

 結果として、店主は呪縛から解放され、親友が残した『許し』の条件が、今日、完全に達成されたのである。


 ザワァァァッ……!


 不意に、海の方角から、重く湿り気を帯びたお盆の南風が吹き抜けた。

 旧市街の軒先に飾られた無数の提灯が大きく揺れ、チリンチリンと風鈴が一斉に鳴り響く。


 猛暑の真っ只中だというのに、僕の背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。

 それは幽霊に対する恐怖ではない。

 生きた人間の、二十二年間という途方もない時間を超えた『想い』というものが、物理法則という絶対的な壁すらもすり抜け、奇跡的な偶然(バグ)を引き起こしたのではないかという、理屈を超えた名状しがたい畏怖の念だった。


 これを、如月瑠璃のように『ただの変数の重なりによる和音だ』と切り捨てることは、僕にはどうしてもできなかった。

 この世界には、天才鑑定士の完璧な論理をもってしても、あえて説明をつけず、余白として残しておくべき『何か』が確かに存在している気がしてならなかったのだ。


「サクタロウ! 何を呆けて突っ立っておる。お主が遅いせいで、完全に氷が溶けてしまったではないか!」


 数メートル先から、不機嫌そうな如月さんの声が飛んできた。

 日傘の下で振り返る彼女の紫の瞳は、僕が感じている背筋の凍るような余韻など全く意に介さず、ただ早く冷たい紅茶を飲みたいという己の欲求だけを映し出している。


「あ、すみません! 今行きます!」


 僕はスマートフォンをポケットに突っ込み、両手の荷物を握り直して、彼女の背中を追って駆け出した。


 真夏の太陽は、相変わらず僕たちの頭上で白く燃え盛っている。

 お盆の風が運んできた『約束の念珠』の謎は、こうして完全に解き明かされた。

 しかし、僕の心の中には、冷たい氷でも決して冷ますことのできない、ゾクッとするような不思議な余韻が、いつまでも熱を帯びて残っていたのだった。



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