第1話『球体と腐敗』 ~section3:水回りの痕跡と、三つ目の欠片~
食堂の無機質な自動ドアが、背後で音もなく閉ざされた。
警視庁の廊下は、相変わらず冷ややかな静寂と、規則正しい警察官たちの靴音だけが支配している。完璧に温度と湿度が管理された空気は、チリ一つ、匂い一つ残さずに天井の循環器へと吸い込まれていく。
その徹底的に漂白された灰色の空間を、如月瑠璃は深い赤色のゴシックドレスの裾を優雅に翻しながら歩いていた。すれ違う大人たちが彼女の特異な出で立ちに目を丸くするが、瑠璃は一切の関心を払わない。
(受付カウンターの巨大な鉢植えの陰という『死角』。そして、食堂のパイプ椅子の座面という『誰もが必ず目にする場所』。まったく、両極端な配置じゃのう。だが……)
瑠璃は、真っ白な鑑定用の手袋を嵌めた両手をドレスのポケットに滑り込ませ、ハンカチに包まれた『二つの欠片』の感触を指先で転がした。
二つの地点から導き出される、配置者の意図。瑠璃は、この見えない相手の行動原理について思考を巡らせた。
(受付の鉢植えの陰は、隠す意図よりも『気付く人間だけが気付けばいい』という挑戦的な配置じゃった。そして食堂の椅子は、嫌でも目に付く強制的な提示。もしこれが同一人物の仕業だとしたら、次の一手はどこに来る?)
瑠璃は足を止め、廊下の天井の四隅に設置された小型の監視カメラを見上げた。
月見坂市の中枢たるこの警視庁は、あらゆる場所にカメラとセンサーが張り巡らされている。不審な動きをすれば、すぐにAIが異常を検知する仕組みだ。そんな場所で、誰にも気付かれずに不純物を配置して回るのは至難の業である。
(この厳重な監視網の隙を突いて、これほど手の込んだ悪戯を仕掛ける者がおる。並大抵の度胸と計算力ではない。監視カメラの死角を完全に把握し、自らの動線を最適化している、異様なまでに几帳面な人間……)
瑠璃の冷徹な思考が、警視庁という建物の構造そのものを俯瞰する。
カメラの死角は、観葉植物の陰だけではない。人間の尊厳やプライバシーという観点から、どれほどセキュリティが厳重な施設であっても『絶対に監視の目を配置できない空白地帯』が存在する。
それは、更衣室や、水回りだ。
(じいじの退屈な会談が終わるまで、まだ時間はたっぷりとある。もし、配置者が監視の目を完全に逃れる場所を選んだとしたら……次なる舞台はあそことみて間違いあるまい)
瑠璃は確信を持って歩き出し、廊下の突き当たりにある女子トイレの入り口へと足を踏み入れた。
中は、外の廊下以上に無機質で清潔な空間だった。真っ白なタイルが壁と床を覆い、鏡には水滴の跡ひとつない。手を洗うための洗面台が三つ並び、その奥に個室がいくつか並んでいる。
休日のこの時間帯、幸いなことにトイレを利用している者は誰もいなかった。静まり返った空間に、瑠璃の硬質な靴音だけが響く。
(さて、死角、目立つ場所、と来て……次はどんな悪趣味な見せ方をしてくれるのじゃ?)
瑠璃は深紅のドレスのポケットからアンティークの懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。
細く鋭い光の筋が、白いタイルの上を走る。まずは手前の個室から順番に扉を開け、内部を観察していく。便座の裏、トイレットペーパーのホルダーの隙間、サニタリーボックスの裏側。普通なら顔を顰めるような場所でも、モノのルーツを探求する瑠璃にとっては何の躊躇いもない。彼女には、汚いものを不快に思う情動よりも、極上の謎を解明したいという知的欲求の方が遥かに勝っているからだ。
しかし、すべての個室を丹念に調べ終えても、あの鮮やかな青色は見つからなかった。
(……個室ではない、か。ならば残るは、あそこだけじゃな)
瑠璃は懐中電灯の光を消し、振り返って三つ並んだ洗面台へと歩み寄った。
最新式の洗面台に瑠璃が接近すると、鏡の縁にあるLEDライトが自動的にフワリと点灯する。冷ややかな光が、ステンレス製の蛇口と真っ白な陶器のボウルを照らし出した。
瑠璃は一つ目の洗面台を覗き込む。水滴一つなく磨き上げられているが、何もない。
次に、真ん中の二つ目の洗面台へ視線を移す。
——あった。
深いアメジストの瞳が、僅かに見開かれた。
それは、洗面台のボウルの底、銀色の排水溝の『淵』に、絶妙なバランスで乗せられていた。
元の球体の四分の一。あの鮮やかな青色のゴムの欠片だ。
(……ほう。これはまた、随分と底意地の悪い配置をしてくれたものじゃな)
瑠璃は感嘆の息を漏らし、洗面台の前に身を乗り出した。
真っ白な手袋を嵌めた指先で、排水溝の淵に乗せられた青い欠片の数センチ手前まで手を近づける。
陶器のボウルは、水が自然と排水溝に流れ込むように、緩やかなすり鉢状の傾斜がついている。普通にモノを落とせば、重力に従って底の排水溝の金属網の上に転がるはずだ。
しかし、この三つ目の欠片は、金属網のすぐ横、陶器と金属の境目であるわずか数ミリの『淵』の部分に、まるでそこが定位置であるかのようにピタリと静止していた。
(あと一ミリでも内側にズレていれば、排水溝の網の上に落ちていた。逆に一ミリ外側なら、陶器の傾斜を滑り落ちて網の上に到達していたはず。この場所で、この弾力のあるゴムの塊を完全に静止させるには、偶然落ちたなどという言い訳は到底通用せん。息を止め、極めて慎重に指先でバランスをとって『置いた』証拠じゃ)
瑠璃はポケットから銀のルーペを取り出し、その不自然な静止状態をレンズ越しに観察した。
間違いない。配置者は、陶器の摩擦係数と重力のバランスを指先で探り当て、意図的にこの淵に乗せたのだ。それは、まるで砂上の楼閣を組み上げるような、異様なまでの集中力と几帳面さを感じさせる配置だった。
(それに……もしわしがただ手を洗おうとして、不用意にこのセンサー式の蛇口に手を出せばどうなるか)
瑠璃の視線が、欠片の真上にあるステンレス製の蛇口へと向けられた。
このスマートシティの洗面台は、人間の手の動きを赤外線センサーで感知して、自動的に水を吐き出すシステムになっている。もし何も考えずに手を差し出せば、勢いよく流れ出た水が、淵に辛うじて乗っているだけのこの欠片を直撃する。
そうなれば、この青い不純物はあっという間に水流に飲まれ、排水溝の網に強く張り付くか、最悪の場合は隙間から下水へと流されて永遠に失われてしまうだろう。
(見つけられなければ水に流されて消える。見つけたとしても、不用意に近づけば水流の罠が作動する。これは、発見者の観察眼だけでなく、行動の慎重さをも試す、極めて悪趣味な物理的トラップじゃ。まったく、見えない相手から試されているようで、腹立たしくも……胸が躍るわ)
瑠璃の美しい唇に、不敵な笑みが浮かんだ。
彼女は蛇口のセンサーが反応する空間エリアを、目測で正確に計算した。
そして、センサーの検知範囲のギリギリ外側を這わせるように、極めてゆっくりとした動作で、洗面台のボウルの中に真っ白な手袋を差し入れた。
呼吸すらも静かに制御された、一切のブレもない軌道。
手袋の指先で、排水溝の淵で微かに震えていた青い欠片を、そっと横から摘み上げる。
欠片をボウルの外へ引き上げた直後、瑠璃のドレスの袖の僅かな揺れにセンサーが遅れて反応し、蛇口から勢いよく水が吐き出された。ザーッという冷たい水音が、タイルの壁に反響する。
しかし、瑠璃の手の中にはすでに、三つ目の不純物がしっかりと確保されていた。
(間一髪、というところかの。まったく、ただのゴムのゴミを拾うだけで、これほど神経を使わされるとは思わなかったわ)
瑠璃は水が流れ続ける洗面台から一歩下がり、ポケットからハンカチに包んだ二つの欠片を取り出した。
そして、今拾い上げたばかりの三つ目の欠片の断面を、これまでに組み合わせてできた半球体の歪な断面へと慎重に合わせる。
——ピタリ。
三つの欠片は、まるで元々一つの球体であった過去を取り戻すかのように、寸分の狂いもなく融合した。
これで、四分の三。
元のスーパーボールの大部分が構成されたことになる。しかし、一箇所だけ、大きく抉り取られたような空白が残っている。まるで、林檎を大きく一口齧った後のような、いびつで不格好な形だ。
(……残る欠片は、あと一つ)
瑠璃は、三つの欠片が合わさった青い塊を、アメジストの瞳で真っ直ぐに見つめた。
そして、改めてその断面の『ささくれ』を指の腹で撫でる。
刃物で切ったのであれば、これほど複雑な断面にはならない。強烈な引っ張る力と、押し潰すような物理的圧力が同時に加わらなければ、ゴムがこのように千切れることはないのだ。
(誰が、どのような意図でこの欠片を配置して回ったのかは分からん。じゃが、一つだけ確かなことがある)
瑠璃の冷徹な知性が、ひとつの物理的な事実を弾き出す。
(この子供の玩具であるゴムの塊は、この警視庁のどこかで、途方もない力で押し潰され、耐えきれずに千切れたのじゃ。これほど強い圧力を生み出せる物理的な場所が、この庁内のどこかにあるはず。この不純物には、間違いなく強烈な『ルーツ』が存在する)
ただのゴミではない。何らかの巨大な物理的事象の、残骸だ。
瑠璃は三つの欠片を再びハンカチで厳重に包み込み、深紅のドレスのポケットへと仕舞い込んだ。
最後の四分の一を見つけ出せば、この歪な球体は完全な姿を取り戻す。そしてそれは同時に、このゴムの塊を引き千切った巨大な圧力の正体を、論理的に導き出せることを意味していた。
(さあ、最後のピースはどこじゃ。この不純物のルーツ、最後まで見届けてやろうではないか)
瑠璃は真っ白な手袋の皺をスッと伸ばし、深紅のドレスの裾を翻して、再び無機質な廊下へと歩み出した。
彼女の冷徹な知的欲求は、もはや完全に満たされるまで止まることはない。




