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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夏風と約束の念珠』 ~section7:追及と、見立て~

 薄暗く、ひんやりとした冷気が足元から這い上がってくる旧市街の老舗仏具店。

 その静寂を支配する上質な白檀の香りは、今はただ、床にへたり込んでガチガチと歯の根を鳴らす一人の大人の男の、異常なまでの怯えを際立たせるための不気味な舞台装置にすぎなかった。


「あいつが……あいつの呪いが、俺のところに帰ってきたのか……!」


 紺色の作務衣を着た四十代の店主は、自らの腕を掻き毟るように強く抱きしめながら、焦点の合わない目で虚空を睨みつけていた。

 大の大人が、それも長年この街で店を構え、職人として誇りを持って生きてきたはずの屈強な男が、まるで得体の知れない怪物から逃げ惑う子供のように完全にパニックに陥り、心霊現象という非科学的な恐怖に呑み込まれて震え上がっている。


 そのあまりにも痛々しく、そして異様な光景を前に、僕は思わず強い同情と戸惑いを覚えていた。


「あ、あの……大丈夫ですか?」


 僕は重いボストンバッグを肩に掛け直し、おろおろとしながら店主に声をかけようと一歩踏み出した。

 幽霊や怪談の類が極端に苦手な僕としては、彼が震えながら口にした『呪い』という言葉に、背筋が凍るような思いがしたのも事実だ。旧校舎の裏手で僕を震え上がらせたあの迎え鐘のような金属音は、やっぱりただの物理現象ではなく、この店主が恐れている【あいつ】とやらの怨念が引き起こした超常現象だったのではないか――。そんな非論理的な考えが、再び脳裏をよぎりそうになる。


 だが、それ以上に、目の前の男の姿が純粋に哀れに思えた。

 彼の恐怖は決して演技ではない。額からは滝のように嫌な汗が流れ落ち、呼吸は浅く乱れ、顔面は死人のように蒼白だ。もし本当に彼が何か過去の怪異に苦しめられているのなら、あのタブレットの映像を見せたことは、彼のトラウマを強引に抉り出す凶器になってしまったのではないか。


「如月さん……あの、ちょっとこの人、様子がおかしいですよ。先ほど『滑車だ』って突きつけましたけど、やっぱり、何か本当に恐ろしい霊的な事情が……」


 僕が振り返って助け舟を出そうとすると、隣に立つ少女は、手にしたアンティーク調のパゴダ日傘の石突きを、板張りの床にコツンと静かに立てた。


 深いミッドナイトブルーのサマーワンピースに、白い繊細なレースのボレロを纏った如月瑠璃。

 彼女の美しい横顔には、床に這いつくばる男への同情も、オカルト現象に対する恐怖も、そして僕の戸惑いへの共感も、一切存在していなかった。

 あるのはただ、極めて冷徹で、透明な氷の刃のような純粋な『観察者』としての眼差しだけだ。


 如月瑠璃の特技は、誰もが見逃すような物理的痕跡からモノのルーツを探り当てる『物理的観察眼』だけではない。彼女にはもう一つ、亡き親友から受け継いだという、人間の感情のメカニズムを解き明かす『情動の視座』という恐るべき能力が備わっている。


 彼女は、他者の悲しみや苦しみ、喜びといった感情に共感して『同じ思いに至る』ことは決してない。彼女の心は常に凪いでおり、感情移入という機能がすっぽりと抜け落ちているのだ。しかし、だからこそ彼女は、他者の感情をノイズなしで客観的に『分析・解明』することができる。

 顔の微細な筋肉の強張り、視線の泳ぎ方、瞬きの回数、発汗の度合い、呼吸のリズム、そして声の震えの周波数。それらすべての生理的反応を物理的データとして冷徹に読み取り、対象が今、どのような『情動』に支配されているのかを、まるで精密機械のように正確にプロファイリングしてしまうのである。


 日傘の影の下、紫のアメジストのような瞳が、床に蹲る店主の姿を舐め回すように観察していた。


(この男の情動は……『恐怖』には違いないが、未知の霊的現象に対する根源的な怯えとは、わずかに波形が異なっておるな)


 如月さんの思考が、僕の横で静かに、しかし恐ろしい速度で回転しているのが気配でわかった。


(視線は虚空を彷徨いながらも、時折、己の足元へ落ちる。体を丸めて防御の姿勢を取るのは、外からの攻撃を恐れているのではなく、己の『内側』から這い出てくるものから逃れようとする防衛本能の表れ。呼吸は浅く速いが、それは未知の怪異へのパニックというよりは、長年隠し続けてきた絶対的な秘密が露呈したことによる過呼吸状態。そして何より、あの『呪い』という言葉を発した時の、自嘲と深い後悔が入り混じった口元の微細な歪み……)


 数十秒の沈黙。

 それは、天才鑑定士が対象の心を完全に解剖し終えるまでの、冷徹な儀式のような時間だった。


 やがて、如月さんは薄い桜色の唇をゆっくりと開き、静まり返った店内に、氷柱を叩き割るような冷淡で透き通った声を響かせた。


「……幽霊のせいにして己の行いを誤魔化すでない、愚か者が」


「ひっ……!」


 店主の肩が、見えない鞭で打たれたようにビクリと大きく跳ねた。


「お主が今、全身を震わせて直面しておる情動の正体。それは、お盆の時期にあの世から帰ってきた怨霊などという、非科学的で安易なものに対する恐怖ではない。……己自身が二十二年間ひた隠しにしてきた『過去の罪悪感』が、白日の下に晒されることへの怯えじゃ」


「ち、違う! 俺は……俺はただ、あいつの……!」


 店主は顔を上げ、必死に否定しようとしたが、その声は上擦り、視線は如月さんの紫の瞳を直視することができずに激しく泳いでいる。その反応そのものが、如月さんの見立てが完全に的を射ていることの証明だった。


「お主は『呪いが帰ってきた』と(のたま)ったな。だが、あれは呪いでも怪異でもない。先ほども申した通り、物理法則に従い、お盆の南風が劣化した絹糸と鉄柵を共鳴させただけの、ただの自然現象にすぎん。それを呪いだと錯覚するのは、お主の心に後ろめたい情動があるからに他ならん」


 如月さんは、僕が持っているタブレット端末の画面を指差した。

 そこには、先ほど旧校舎の非常階段で撮影した、あの数珠の拡大映像が一時停止されたまま映し出されている。


「サクタロウ、タブレットの画像をスワイプし、あの星月菩提樹の珠の内側の摩耗痕をこの者に見せてやるのじゃ」


「あ、はい」


 僕は言われた通りに画面をスワイプし、珠の内側が水平方向に深くえぐれ、接触していた鉄骨の赤い塗装が帯状に完全に剥がれている接写画像を表示した。そして、それを再び、床にへたり込む店主の目の前へと差し出す。


「よく見るのじゃ。この水平方向に綺麗に揃った、激しい摩耗の痕跡を」


 如月さんは日傘を肩に預け、冷酷なまでに理詰めで店主の逃げ道を塞ぎにかかった。


「もしあれがお主の言う『呪い』や幽霊の仕業による怪異であるならば、このような生々しい物理的摩擦の痕跡が残るはずがない。実体を持たぬ霊が、どうやって硬い星月菩提樹をここまで深くえぐり、鉄の塗装を削り落とすというのじゃ? これは、質量を持った太いロープが、長期間、あるいは凄まじい力で珠に押し付けられながら『水平方向に高速回転させられた』という、動かぬ物理的証拠じゃ」


 店主は、脂汗を流しながら、血走った目でその画像を凝視した。

 彼の喉仏が、ゴクリと大きく上下に動く。職人である彼には、その画像が意味する物理現象が痛いほど理解できているはずだ。


「先ほども突きつけた通りじゃ。お主は二十二年前の学生時代、この神聖な仏具であるはずの数珠を、あろうことか『旧資料室の重い天窓を開けるための滑車』として用いたのじゃ」


 如月さんは、一歩だけ店主へと歩み寄った。

 その小さな身体から放たれる圧倒的な存在感と威圧感に、店主は這いずるようにしてさらに後ろへと退がろうとするが、背中がショーケースにぶつかり、もはや逃げ場はなかった。


「思い出してみるのじゃ。当時はまだ赤錆など浮いておらず、白く塗装され頑丈だったあの非常階段の太い鉄柵を。……お主は、その頑丈な鉄柵を『軸』に見立てて、己の職人としての技術を使い、暗闇の中で音も立てずに強固な滑車を編み上げた。金属音を立てて警備員に見つかるリスクを回避するためにな」


「……っ!!」


 店主の両目が見開かれ、口から音にならない悲鳴が漏れた。

 図星を突かれた人間の、これ以上ないほど完璧な反応だった。


「強靭な絹の紐でロープの張力に耐え、滑らかな星月菩提樹の珠で摩擦抵抗を極限まで減らした完璧な手作りの滑車。……二階の非常階段の縦柵を経由させ、摩擦を殺して斜め下へと強い力で引き下げることで、三階の旧資料室の天窓を外から強引に開けた。違うか?」


 沈黙が、店内に重くのしかかった。

 涼しかったはずの白檀の香りが、突然、ひどく息苦しく、重たいものに感じられる。


「幽霊の仕業などという幻想に逃げ込み、己の行いを正当化するのはやめるのじゃ。わしは、ありえない場所にありえないモノがある、その物理的なルーツと事実を解明しに来ただけじゃ。お主の恐怖に同情する義理など一切ない」


 完璧な論理。逃れようのない摩耗痕という物理的証拠。そして、己の心の奥底に隠し持っていた『罪悪感』という情動までをも完全に素裸にされ、見透かされてしまった店主。


 彼は、自分がもはや心霊現象や呪いといった都合の良い隠れ蓑に縋り付くことが許されないのだと、完全に悟ったようだった。

 過呼吸気味だった乱れた呼吸が、ゆっくりと、深い絶望の溜め息へと変わっていく。

 全身に入っていた異常な力が抜け、糸を切られたマリオネットのように、彼の体は床に力なく崩れ落ちた。


「……どうして……どうして、そんなことまで、わかるんだ……」


 絞り出すような、ひどく掠れた声だった。

 店主は両手で顔を覆い、ガックリと項垂れた。その背中は、先ほどまでの恐怖に震える男のものではなく、二十二年間という途方もない時間、長年一人で背負い続けてきた重すぎる十字架の重圧に、ついに押し潰されてしまった、一人の哀れな人間の姿そのものだった。


「あんたの……言う通りだよ」


 顔を覆った両手の隙間から、乾いた懺悔の言葉がポツリと零れ落ちた。


「あれは、呪いなんかじゃない。幽霊でもない。……二十二年前の夏、俺が……俺自身がこの手で、実家の店から親父に内緒で持ち出した数珠を解いて、当時のあの頑丈だった非常階段の柵に結びつけたんだ。……あの重い天窓を、外から開けるために」


 観念した店主の口から、ついに真実が語られようとしていた。


 僕はずっと握りしめていたタブレットを持つ手に力を込め、息を殺して彼の次の言葉を待った。

 如月さんは表情一つ変えず、日傘を肩に置いたまま、冷徹な鑑定士としての威厳を保ち、静かに彼を見下ろしている。


「だが、お主にはその先があるはずじゃ。なぜ、神聖な仏具を冒涜してまで旧資料室に侵入しなければならなかったのか。……さあ、その重い口を開き、過去の情動の真実を語るが良い」


 外の猛暑とは無縁の、冷たい空気が沈殿する旧市街の仏具店。

 そこで、二十二年間という長い時間、決して解かれることのなかった『約束の念珠』のルーツと、そこに込められた一人の少年の生々しい罪悪感の物語の幕が、今、静かに開こうとしていた。



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