第4話『夏風と約束の念珠』 ~section6:旧市街と、店主~
如月学園の正門を抜け、新市街の整備されたなだらかな坂道を下り始めると、容赦のない真夏の太陽が僕たちの頭上に再び重くのしかかってきた。
月見坂市は、ネットワーク制御された最先端のスマートシティエリアである『新市街』と、昔ながらの伝統的な街並みがそのまま保存されている『旧市街』という、二つの全く異なる顔を持っている。
僕たちが通う如月学園は新市街の中心に位置しており、周辺の通りには自動で気温や湿度を感知して稼働するミストクーラーや、日陰を作り出すための可動式のアーケードが完備されている。しかし、坂を下って旧市街のエリアへと足を踏み入れた途端、そうした最新技術の恩恵は完全に途絶え、アスファルトの照り返しとまとわりつくような熱気が、暴力的なまでの質量を持って襲いかかってきた。
「ああっ……暑い……。さっきから汗が全然止まらない……」
僕は首筋にまとわりつく汗をハンカチで乱暴に拭いながら、重い足取りで歩き続けた。
僕が着ているのは、如月学園の指定の夏服である。通気性が良いとはいえ、左胸に学園のエンブレムが刺繍されたカチッとした半袖のシャツに、スラックスという窮屈な出で立ちだ。
世間は夏休みの真っ最中だというのに、なぜ僕がこんなクソ暑い中、わざわざ制服を着て学校へ出向いたのか。それは、政財界の子女が多く通うこのエリート校には、『夏休み期間中であっても、校内に立ち入る際は必ず制服を着用し、学園の生徒としての品位を保つこと』という、あまりにも厳格で融通の利かないルールが存在するからだ。
しかし、僕の数歩前を歩く主――如月瑠璃の装いは、そんな学園の厳格なルールとは全く無縁のものだった。
彼女は、如月コンツェルンの令嬢でありながら(いや、だからこそかもしれないが)、学園の規則などどこ吹く風とばかりに、深いミッドナイトブルーのサマーワンピースに白いレースのボレロという、完璧に洗練された私服の避暑スタイルで堂々と街を歩いている。
純白の生地に黒のダマスク柄の刺繍が施されたアンティーク調の日傘をさし、涼しげな足取りで進む彼女の周囲だけは、まるで別の重力と温度が働いているかのようだった。
「お主、だらしなく口を開けて歩くでない。ただでさえ愚鈍な顔が、さらに間抜けに見えるぞ」
日傘の影の中から、振り返りもせずに冷徹な声が飛んでくる。
「如月さんは涼しい顔してますけど、こっちは荷物持ちでクタクタなんですよ。それに、この制服のせいで余計に暑いんですから……」
「わしに呼び出されたからといって、馬鹿正直に窮屈な制服など着てくるお主の要領の悪さが原因じゃろう。……それにしても、旧市街のこの独特の空気の重さは、相変わらずじゃな」
如月さんは日傘の角度をわずかに変え、旧市街の商店街を見渡した。
お盆の時期を迎えた旧市街は、新市街の無機質なガラス張りのビル群とは対照的に、街全体が濃密な『生と死の気配』に包まれていた。
通り沿いの古い木造建築の軒先には、迎え火の代わりとなる白張りの提灯が等間隔で吊るされ、風鈴がチリン、チリンと乾いた音を立てている。どの家からも、仏壇に供えられた線香や抹香の独特な匂いが微かに漂ってきており、街を歩いているだけで、死者の魂がこの場所に帰ってきているのだという、理屈ではない肌感覚を覚えさせられた。
「線香の匂いがしますね……。なんか、お盆って感じがして、ちょっと落ち着かないです」
「お主は本当に情動に流されやすいのう。ただの香木の燃焼による化学変化の匂いにすぎん。……着いたぞ。ここじゃ」
如月さんのサンダルの音がピタリと止まった。
僕が顔を上げると、そこは旧市街の商店街の少し外れにある、ひときわ年季の入った古い木造建築の店舗の前だった。
黒光りする太い梁と、漆喰の壁。店先には、木彫りの仏像や、様々な種類の数珠、金色の装飾が施された仏具などが、静かな威厳を持って陳列されている。看板には、達筆な筆文字で『老舗仏具販売店』の屋号が刻まれていた。
先ほどまで僕たちがいた旧校舎の裏手で、あの不気味な『手作りの滑車』を編み上げた職人のルーツだと、如月さんが特定した店である。
「ここが……あの数珠を作った職人の店……」
「左様。あの特殊な絹糸の撚り方と、親玉の内部に結び目を隠す独特の編み込み技法。この月見坂市において、それを継承しているのはこの店だけじゃ」
如月さんは日傘をスッと閉じると、迷うことなくガラス戸に手を掛け、横に引いた。
カラン、コロン……。
どこか懐かしい、くぐもったドアベルの音が店内に響く。
中に入ると、外の暴力的な熱気が嘘のように、ひんやりとした静かで薄暗い空間が広がっていた。エアコンの人工的な風ではなく、土間特有の冷気と、上質な白檀の香りが混ざり合った、古い寺院の奥底に足を踏み入れたような独特の涼しさだ。
店内には、ショーケースの中に並べられた色とりどりの数珠や、金箔が押された立派な仏壇が所狭しと並んでおり、外の光を反射して鈍く光っている。
「いらっしゃいませ。……おや?」
店の奥、帳場の陰から声がして、一人の男性が姿を現した。
年齢は四十代の前半くらいだろうか。紺色の作務衣を身に纏い、首には手拭いを巻いている。短く刈り込んだ髪には少し白いものが混じり、目尻には疲労の色のような深い皺が刻まれているが、その体つきはがっしりとしており、何よりその手は、長年細かい手作業を続けてきた職人特有の、節くれだった分厚い手をしていた。
店主は、客として入ってきた僕たち――特に、僕の姿を見て、一瞬だけ足を止め、驚いたように目を丸くした。
「君たち……その制服は、如月学園の生徒さんかい?」
店主の視線は、僕のシャツの左胸にある、如月学園のエンブレムに釘付けになっていた。
「あっ、はい。そうですけど……」
僕が戸惑いながら答えると、店主はどこか懐かしむような、しかし同時に、心の奥底にある古い古傷に触れられたような、複雑で翳りのある表情を浮かべた。
「そうか……如月の生徒か。実はね、俺も昔、あの学園に通っていたOBなんだよ。もう二十二年も前の話になるけどね。……しかし、夏休み中のお盆だっていうのに、制服でこんな旧市街の仏具店に何の用だい? 学園の備品か何かのお使いかな?」
店主の口から【二十二年前のOB】という言葉が出た瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。
図書室で如月さんが推理した通りだ。この店主は、あの崩落寸前の非常階段がまだ現役で使われていた時代に、如月学園の生徒だったのだ。
僕がどう答えるべきか迷っていると、僕の少し前に立っていた如月さんが、静かに、しかし有無を言わさぬ冷徹な声で口を開いた。
「学園の使いではない。わしたちは、ある『過去の遺物』のルーツを尋ねに、個人的に参ったのじゃ」
「過去の……遺物?」
店主は、僕の隣に立つ、ミッドナイトブルーのワンピースを着たこの小柄で美しい少女を、初めてまじまじと見下ろした。彼女がただの女子高生ではない、何か異質なオーラを放っていることに気づいたのか、店主の顔から愛想の良い笑みがスッと消えた。
「サクタロウ。お主のその板を、この者に見せるのじゃ」
如月さんの静かな指示が飛ぶ。
「えっ……あ、はい!」
僕は慌ててボストンバッグから十インチのタブレット端末を取り出した。
画面には、先ほど旧校舎の裏手で小型ドローンを使って空撮した、あの『手作りの滑車』の4K高画質映像が、一時停止された状態で大写しになっている。
赤錆だらけの太い鉄の縦柵。それを芯にして、遊びが全くないほどにガチガチに編み込まれた絹の紐と、星月菩提樹の珠。そして、親玉の穴からわずかに覗く、この店特有の高度な技術で隠された『結び目』。
僕は無言のまま、そのタブレットの画面を店主の目の前へと突き出した。
「これ……なんですけど」
店主は怪訝そうな顔で、タブレットの液晶画面を覗き込んだ。
「何だい、これは。どこかの手すりに数珠が巻き付けられて……」
言葉は、そこで途切れた。
「…………っ!?」
ヒュッ、と。
店主の喉の奥から、空気を強引に引き裂くような、引きつった短い悲鳴が漏れた。
僕は自分の目を疑った。
四十代のがっしりとした大人の男性の顔から、文字通り、一瞬にしてすべての血の気が引き、土気色の死人のような蒼白へと変わっていくのを、この距離ではっきりと目撃したのだ。
「う、嘘だろ……」
店主は震える手でタブレットの画面に触れようとしたが、指先が画面に触れる直前で、まるで炎に焼かれたようにバッと手を引っ込めた。
「こ、これは……この結び目……この珠は……っ!」
彼の視線は、タブレットに映る数珠の映像と、僕の胸元にある如月学園のエンブレムを、パニックに陥ったように何度も何度も往復した。
そして、彼は耐えきれないというように、ガタッ! と大きな音を立てて後ずさった。
「うわぁっ……!」
後ずさった拍子に、背後にあったショーケースに背中が激しくぶつかり、上に飾られていた真鍮製の香炉がグラリと揺れて、床にガシャーンと落ちた。
しかし、店主は落ちた商品に目もくれず、背中をショーケースに押し付けたまま、ガチガチと歯の根を鳴らして震え始めた。
その両目は、恐怖で異常なほどに見開かれ、焦点が合っていない。
彼は、タブレットに映った『ただの滑車の映像』を見ているのではない。その映像の向こう側にある、二十二年間、心の奥底に封印し続けてきた凄惨な記憶か、あるいは目を背け続けてきた重い罪の意識の具現化を見ているようだった。
「なんで……なんで、これが……あんたたち、これをどこで……っ!」
「如月学園旧校舎の裏手じゃ。二階の屋外非常階段の縦柵にな」
如月さんが、一切の感情を交えない、氷のように冷たい声で事実だけを突きつける。
「あの、今は赤錆だらけの立ち入り禁止区域じゃよ。お主が二十二年前、強靭な絹糸と星月菩提樹の珠を持ち出し、自らのその職人の手で、旧資料室へ侵入するための『滑車』として編み上げた、あの場所じゃ」
「ひっ……!」
非常階段、という言葉を聞いた瞬間、店主はついにその場にへたり込み、頭を抱えるようにして蹲ってしまった。
紺色の作務衣の背中が、呼吸が上手くできないのか、激しく上下に波打っている。
「ち、違う……あれは、俺が残したんじゃない……あいつが……あいつの……」
店主の口から、うわ言のような言葉が途切れ途切れに漏れ出した。
その声は、恐怖に完全に支配され、震えきっていた。
「……嘘だろ。まさか、お盆だから……あいつが……あいつの呪いが、俺のところに帰ってきたのか……!?」
「呪い……?」
僕は思わず息を呑んだ。
旧校舎の裏手で僕を震え上がらせた、あの不気味な迎え鐘のような金属音。
如月さんの物理的観察眼と論理的な推理によって、あれはただの風と滑車が鳴らした『物理現象』であり、幽霊など存在しないという完璧な証明がなされたはずだった。
しかし今、目の前で、実際にあの数珠を仕掛けたであろう張本人が、【呪いが帰ってきた】と本気で怯え、幽霊の存在を信じて震え上がっているのだ。
生きた人間が作った物理的な仕掛けであるはずなのに、それを作った人間自身が、オカルト的な呪いの恐怖に完全に囚われている。
この圧倒的な矛盾と、店主の異常なまでの怯えっぷりを目の当たりにして、僕の背筋に、一度は消え去ったはずの嫌な悪寒が再び這い上がってきた。
「き、如月さん……」
僕は助けを求めるように、隣に立つ少女を見た。
だが、如月瑠璃の横顔には、同情も、恐怖も、一切の揺らぎも存在しなかった。
彼女は日傘を持ったまま、床に蹲って震える大人の男を、まるで顕微鏡のプレパラートの上で悶える虫を観察するかのように、ただ冷徹に、そして静かに見下ろしていたのだった。




