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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夏風と約束の念珠』 ~section5:製法と、看破~

 図書室の空気を冷やし続ける巨大な純氷から、溶け出した水滴がたらいの底へと落ちる。


 ポタッ……、ポタッ……。


 その規則的で静かな水音が、時計の秒針のように、埃っぽい旧校舎の図書室に響いていた。

 窓の外からは、相変わらずミンミンゼミの狂ったような鳴き声と、アスファルトを焦がす猛暑の気配が伝わってくる。しかし、分厚い壁に守られたこの空間だけは、真鍮製のレトロな扇風機が送り出す氷の冷気と、如月瑠璃という一人の少女が放つ冷徹な論理の気配によって、まるで深海のように冷たく、そして重苦しく沈み込んでいた。


 幽霊や呪いといったオカルト現象であれば、塩を撒くかお祓いでもすれば精神的には解決するかもしれない。しかし、相手が『生きた人間』であり、その人間が『神聖な仏具をわざわざ持ち出し、非常階段に侵入用の滑車として仕掛けた』という物理的な事実を突きつけられると、途端に得体の知れない生々しい恐怖が湧き上がってくる。

 如月学園という、異常なまでのプレッシャーが支配するエリート校の闇。過去の誰かがそこまでして旧資料室に侵入しなければならなかったという執念が、あの赤錆だらけの鉄柵にこびりついているのだ。


 僕はアンティークの木製テーブルを挟んで向かい側に座る如月さんを見つめた。

 深いミッドナイトブルーのリネンワンピースを身に纏い、白いレースのボレロを羽織った彼女は、ロッキングチェアに深く腰掛けたまま、紫のアメジストのような瞳を静かに細めている。その瞳の奥では、僕には到底追いつけない速度で、無数の物理的な情報と人間の情動のピースが組み合わされ、そして解体されているのだろう。


「如月さん」


 僕はたまらず、彼女が先ほど残した『違和感』の核心について尋ねた。


「さっき如月さんが言った通り、摩擦を減らしてロープを引くためなら、ホームセンターで金属製の滑車を買ってきたり、理科室の備品を使ったりすればいいはずですよね。でも、過去の侵入者はそれをしなかった。……でも、なんで滑車に『数珠』なんかを使ったんですか?」


 僕の問いに、如月さんの視線がゆっくりとこちらへ向けられる。


「仏具を無機質な機械部品として扱うなんて、普通の人間の発想じゃないです。そこまでして仏具を選んだ、犯人の『強烈な意図』って、一体何だったんでしょうか」


「……単純な物理的要件を満たすためじゃよ、サクタロウ」


 如月さんはグラスに残っていた冷たいアールグレイを飲み干すと、コトリと音を立ててアンティークのコースターの上に置き、静かに口を開いた。


「音を立てず、その場で強固な滑車を作るには、強靭な絹糸と滑りの良い硬い木珠がどうしても必要だったからじゃ」


「音を、立てないため……?」


「左様。サクタロウ、お主がもし、夜の闇に紛れて、あるいは誰の目も盗んであの旧資料室に侵入しようと企てたとする。その際、最も避けなければならない物理的現象は何じゃ? それは『金属音』じゃよ」


 如月さんは、テーブルの上に広げられた古い設計図を指差した。


「ホームセンターで買ってきた無骨な金属製の滑車を、あの鉄の縦柵に括り付けたとしよう。そして、重い天窓を開けるために強い力でロープを引く。どうなる? 金属の滑車と鉄の柵が激しく擦れ合い、あるいはぶつかり合い、静まり返った夜の学園に『甲高い金属の摩擦音』を響き渡らせることになるじゃろう。そんなことをすれば、巡回する警備員や見回りの教師に一瞬で見つかってしまう」


 なるほど、と僕は息を呑んだ。

 確かに、あの非常階段はただでさえ風で鳴るような鉄の塊だ。そこに金属製の滑車を強く押し当ててロープを引けば、とんでもない騒音が発生する。


「しかし、木製の珠ならばどうじゃ。硬く滑らかな星月菩提樹の木珠は、ロープの摩擦を極限まで減らすと同時に、鉄柵とぶつかっても鈍い、吸収されたような音しか立てぬ。……つまり、音を立てず、かつスムーズにロープを引くためのベアリング素材としては、この上なく優秀な素材なのじゃよ」


「……音を殺すための、木珠」


「それだけではないぞ。『その場で滑車を作らなければならなかった』という物理的制約も存在した。……サクタロウ、あの鉄柵の太さを思い出してみるのじゃ」


 如月さんは、両手で円を作って見せた。


「あの非常階段の手すりを支える縦柵は、直径がおよそ五センチほどある、かなり太い鉄のパイプじゃ。市販の金属製滑車をあの太いパイプに『強固に、かつロープを引く角度に合わせて正確に』固定するには、大掛かりな金具や工具が必要になる。だが、そんなものを持ち込んでガチャガチャと作業をすれば、やはり音が出るし、時間もかかる。何より、作業の痕跡が明確に残ってしまう」


 彼女の言う通りだ。ボルトやナットで滑車を固定しようとすれば、必ずカチャカチャと金属音が鳴る。


「だが、丈夫な絹の紐と木珠さえあれば、工具など一切使わず、己の指先一つで、あの太い鉄柵にジャストフィットする『リング状の滑車』を、音もなく生み出すことができる。しかも、使用後は紐を刃物で切断すれば、数秒で証拠隠滅を図ることも可能じゃったはずじゃ(何らかの理由で、この人間はそれを怠ったようじゃがな)。……どうじゃ? 音を立てず、その場で強固な滑車を隠密裏に作り上げる手段として、これほど合理的で完璧な選択肢が他にあるかの?」


 如月さんの冷徹な論理を前に、僕は完全に圧倒されていた。

 宗教的な意味合いなど一切ない。ただ純粋に、『隠密性』と『機能性』という極めて現実的な物理的要件を満たすための最適解が、あの強靭な絹糸と滑りの良い硬い木珠――すなわち『数珠』のパーツだったのだ。


「なるほど……。滑車に数珠を使ったのは、決して思いつきや狂気なんかじゃなくて、極めて合理的な物理的理由があったんですね」


「左様。あの数珠を仕掛けた者は、物理的な力学と、音波の伝達という現象を完全に理解しておった。……しかしな、サクタロウ。わしが本当に驚愕し、そしてルーツを確信したのは、素材の選択ではない」


 如月さんは、テーブルの上に置かれたままになっていたタブレット端末へと視線を落とした。

 画面には、先ほどドローンで空撮した、星月菩提樹の一番大きな珠――『親玉』の拡大映像が、一時停止されたまま映し出されている。


「わしが看破したのは、あの『紐の結び目』に隠された、異常なまでの技術の高さじゃ」


「結び目……? そういえば外の非常階段で映像を見てた時、親玉の内側に結び目が隠されてるって言ってましたよね」


「うむ。お主は、紐を結ぶという行為の『物理的な弱点』を知っておるか?」


 唐突な質問に、僕は首を傾げた。


「弱点? ほどけやすいとか、そういうことですか?」


「それもあるが、根本的な強度の問題じゃ。一本の紐やロープにおいて、最も物理的な負荷が集中し、断裂する危険性が高いのはどこか。それは『結び目』の部分なのじゃよ」


 如月さんは、自分の細い指先を絡ませて、結び目の模型を作って見せた。


「結び目を作ると、紐の繊維が鋭角に極端に曲がり、そこに張力が集中する。いくら強靭な絹糸を使おうと、素人が適当に固結びをしただけでは、ロープで重い天窓を引き下げるほどの凄まじい負荷に耐えきれず、結び目の部分からプツリと切れてしまうか、あるいは結び目が滑って解けてしまうじゃろう」


 言われてみれば、確かにそうだ。

 何十キロという重い鉄枠の天窓を引っ張るのだ。その負荷は、滑車となっている数珠の紐全体に、凄まじい張力としてのしかかる。ただの固結びで耐えられるはずがない。


「では、あの数珠を仕掛けた者はどうしたか。……サクタロウ、タブレットの画面をもう一度よく見るのじゃ。あの親玉の穴の形状をな」


 僕はタブレットを手に取り、画面に映る親玉を凝視した。

 房が束ねられているその一番大きな木珠には、糸を通すための穴が空いているが、その穴はただの真っ直ぐなトンネルではなく、途中でT字型に分岐し、下部に向かって大きく広がっているように見えた。


「なんか、穴の形が複雑ですね。下の方がぽっかり空洞になってるというか……」


「それが、仏具における『親玉』の特殊な構造じゃ。通常の珠が単なるトンネルであるのに対し、親玉の内部には、結び目を収納するための空間が彫り込まれておる。……あの数珠を編み上げた者は、まず鉄柵に絹の紐を回し、すべての珠を通した。そして最後に、二つの紐の先端をこの親玉の中で交差させ、ただの固結びではない、特殊な『編み込み』を施したのじゃ」


 如月さんは、まるで22年前のその現場を直接見てきたかのように、淀みなく、そして確信に満ちた声で語り続ける。


「重みで紐が解けないよう、複数の糸を複雑に絡み合わせる。張力がかかればかかるほど、互いの糸が締め付け合って強い摩擦力を生み出し、絶対に解けない構造を作り出す。そして、その編み込まれた巨大な結び目を、力任せに親玉の内部の空洞へと引きずり込み、完全に収納する。……そうすることで何が起きるかわかるか?」


「えっと……見た目が綺麗になる?」


「それもあるが、物理的な強度が飛躍的に向上するのじゃ。結び目という最大の弱点が、硬い星月菩提樹の『親玉』という強固なカプセルの中に保護される。ロープによる外部からの強烈な摩擦や鉄柵からの衝撃を木珠の表面がすべて受け止め、内部の結び目には直接的なダメージが及ばない。重みで紐が解けることも、摩擦で切断されることも防ぐ、極めて合理的かつ完璧な設計じゃ」


 そこまで語ると、如月さんは深く息を吐き出し、ロッキングチェアの背もたれに体を預けた。


「……素人が見よう見まねでできる芸当ではない。特殊な絹糸の撚り方、星月菩提樹の加工特性の理解、そして何より、親玉の内部で張力を分散させる『隠し結び』の技法。これは、長年の修行を経た本職の仏具職人だけが持つ、特有の高度な技術じゃ。しかも、明るい工房の作業台の上ではなく、足場が不安定で暗い屋外の非常階段で、太い鉄柵を軸にしてその場で完璧に編み上げるなど……並の職人でも不可能に近い、凄まじい手際よ」


 冷たい扇風機の風が部屋を循環しているはずなのに、僕の手のひらにはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。


 学生の単なる悪戯や、素人の無計画な侵入工作だという僕の甘い推理は、完全に打ち砕かれた。

 あの非常階段で滑車を作った人間は、ただの生徒ではない。

 仏具の構造を知り尽くし、強靭な絹糸と硬い木珠を用意し、暗闇の非常階段という極限の状況下で、プロの職人技を駆使して『絶対に壊れない完璧な滑車』を編み上げたのだ。

 そこまでして、旧資料室に侵入しなければならなかったのだ。


「プロの、仏具職人の技術……」


 僕は乾いた唇を舐めた。


「でも、如月さん。如月学園の過去の生徒の中に、そんなプロの仏具職人みたいな技術を持った人間がいたんでしょうか? エリート校とはいえ、さすがに高校生にそんな技術が……」


「お主は本当に視座が狭いのう。学園の生徒全員が、IT企業や金融のトップの息子だとは限らんじゃろう。家業を継ぐために、幼い頃から職人の手ほどきを受けておる者もいるはずじゃ」


 如月さんは呆れたように肩をすくめると、窓の外――スマートシティとして発展した新市街のガラス張りのビル群の向こう側、古い街並みが残るエリアの方角へと紫の瞳を向けた。


「この月見坂市は、ネットワークで管理された新市街と、昔ながらの伝統が息づく旧市街にはっきりと分かれておる。新市街には最新のガジェットやAIが溢れておるが、旧市街には、何代も続く伝統工芸の工房や、古い職人たちが今もひっそりと暖簾を守り続けておる場所がある」


「旧市街の、職人……」


 僕の頭の中に、先ほどオムライスを買いに行った、あのどこか懐かしく、そして時間が止まったような旧市街の商店街の風景が思い浮かんだ。

 最新のスマートシティのすぐ隣にありながら、そこだけが別の時代から切り取られたように、古い木造建築や、手作業でモノを作る職人たちの店が並んでいるエリアだ。


 如月さんは、古い書物を解読するように、ゆっくりと、しかし決定的な言葉を紡ぎ出した。


「あの絹糸の特殊な撚り方、そして親玉の内部に結び目を引き込む際の、わずかな『紐の遊び』の残し方。……わしには見覚えがある。あれは、月見坂市の旧市街にある老舗、あそこの職人の手口じゃな」


「旧市街の老舗……! 如月さん、ルーツとなる店が特定できたんですか!?」


 僕が身を乗り出して尋ねると、如月さんは静かに、しかし力強く頷いた。


「左様。あのように美しく、かつ物理的強度に特化した特殊な結び目を施せる仏具店は、この月見坂市においてあの一軒しか存在せぬ。……あの滑車を作った人間は、間違いなくその店の関係者、もしくはその技術を直に継承した人間じゃ」


 幽霊や呪いといった(もや)のようなオカルトが完全に晴れ上がり、一本の明確な『物理的な線』が、この旧校舎の図書室から、旧市街の一角にある仏具店へと真っ直ぐに繋がった瞬間だった。


「謎の半分は解けた。あのありえない数珠は、旧資料室へ侵入するための『手作りの滑車』じゃ。そして、それを作ったのは旧市街の仏具職人の技術を持つ者。……残る謎は、それが『誰』であり、『何のために』そこまでして旧資料室に侵入しなければならなかったのか、という人間の情動のルーツじゃな」


 如月瑠璃はロッキングチェアから立ち上がり、ミッドナイトブルーのワンピースのシワを優雅に伸ばした。

 彼女の紫の瞳には、もはやジレンマに苛立っていた時の焦りは微塵もない。獲物の喉元に深く牙を突き立て、あとはその正体を白日の下に引きずり出すだけの、天才鑑定士としての絶対的な自信と覇気が漲っていた。


「サクタロウ。氷が完全に溶ける前に出掛けるぞ」


 彼女は傍らに立てかけてあったアンティークのパゴダ日傘を手に取り、僕に背を向けて図書室の扉へと歩き出した。


「出掛けるって……どこへですか? さっき帰ってきたばっかりなのに!」


 猛暑の外へ再び出ることに拒絶反応を示した僕の抗議に対し、彼女は扉に手を掛けたまま、振り返ることなく冷徹に言い放った。


「決まっておろう。ルーツの元へじゃ。月見坂市の旧市街にある、あの老舗の仏具販売店へ向かう。……あの滑車を編み上げた人間に、直接物理的な証拠を突きつけてやるのじゃ」


 カチャリ、と重い木製の扉が開かれ、外の狂おしいほどの熱気が再び図書室へと流れ込んでくる。

 僕はため息をつきながら、たらいの中で半分溶けかかった氷柱と、手付かずの冷たい紅茶を恨めしそうに見つめた。そして、天才のわがままに付き合う忠犬としての運命を受け入れ、重い足取りで彼女の後を追うのだった。



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