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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夏風と約束の念珠』 ~section4:滑車と、違和感~

 暴力的な真夏の日差しと、息をするだけで肺が重くなるような不快な湿気から逃れ、僕たちはようやく拠点である旧校舎の図書室へと帰還した。

 分厚い木製の観音扉を背中で押し閉めた瞬間、外の狂ったような蝉の喧騒が嘘のように遠のき、古い紙と埃の匂いが混ざった静寂が鼓膜を包み込む。


「はあぁ……っ、助かった……。生きて帰ってこられた……」


 僕は両手に提げていた重い荷物を、部屋の中央にある大きなアンティークの木製テーブルへと慎重に下ろし、大きく安堵の息を吐き出した。

 右手には、旧市街の老舗洋食店でテイクアウトした特製オムライスの入った保温バッグ。そして左手には、僕の指の感覚を完全に麻痺させていた、分厚く重い純氷の氷柱が入ったビニール袋だ。

 外の異常な猛暑のせいで、氷柱の表面はすでにうっすらと溶け出し、袋の底には冷たい水がたっぷりと溜まっていた。


「サクタロウ。休んでおる暇はないぞ。急いでその氷を割るのじゃ。極上の冷たい紅茶が飲みたい」


 如月さんは、炎天下の旧校舎の裏手まで往復し、あんな不気味な現象を目の当たりにしたというのに、その美しい顔に汗ひとつかいていない。深いミッドナイトブルーのワンピースの裾を優雅に揺らしながら、彼女は窓際に置かれた自身の特等席――アンティークのロッキングチェアへとゆっくり腰を下ろした。

 パゴダ日傘を美しく畳み、それを傍らに立てかける一連の所作すら、まるで計算され尽くした舞台のワンシーンのように一切の隙がない。


「わかってますよ。すぐ用意しますから」


 僕は文句を飲み込み、図書室の隅に用意されていた巨大なたらいの中に、買ってきた純氷の氷柱をドスンと置いた。

 そして、そのすぐ真後ろに設置されている、旧市街の古道具屋で彼女が目利きした真鍮製のレトロな扇風機のスイッチを入れる。


 ブゥゥゥン……という、少し頼りないが重厚なモーター音が、静かな図書室に響き始めた。

 左右にゆっくりと首を振る扇風機の風が、巨大な氷柱の表面を撫でるように風を送り出す。すると、氷の冷気をたっぷりと含んだ風が、天然のクーラーとなって埃っぽい室内の空気をゆっくりと、しかし確実に冷却し始めた。

 最新のスマートシティに完備されているエアコンのような、人工的で鋭い冷たさではない。しかし、今の僕の火照った体には、このアナログな冷風が何よりもありがたく、そして心地よかった。


 扇風機の風が部屋全体に行き渡るのを待ちながら、僕はアイスピックを使って純氷の端を丁寧に砕き、二つのグラスにたっぷりと氷を入れる。そこに、あらかじめ淹れて冷ましておいたアールグレイの紅茶を注ぎ込んだ。

 カラン、と氷が涼しげな音を立てる。


「お待たせしました、如月さん」


「うむ。ご苦労じゃ」


 冷たい紅茶の入ったグラスをアンティークのコースターの上に置くと、如月さんは細く白い指でグラスを優雅につまみ上げ、目を閉じて静かに一口含んだ。

 彼女の細い喉元が微かに動き、冷たい液体が熱を帯びた思考回路を冷却していくのがわかる。


「……見事な手際じゃ。やはり、透明度の高い純氷で急冷した紅茶は、香りの立ち方がまるで違うな」


「そりゃ、あれだけ重い思いをして運んできましたからね。オムライスもまだ温かいですよ。食べますか?」


「いや、食事は後じゃ。今は、あの忌々しくも美しい『矛盾』の解明が先決じゃ」


 如月さんはグラスをテーブルにコトリと置くと、ロッキングチェアから立ち上がり、部屋の奥にある巨大な書架へと迷いなく歩いていった。

 彼女がこの旧校舎の図書室を拠点にしているのは、単に人目につかず静かだからという理由だけではない。ここには、如月学園が創立されてからの古い文献や、改築前の旧校舎の設計図、生徒の記録などが、デジタル化される前の『紙の媒体』としてそのままの形で保管されているからだ。彼女の『物理的観察眼』を補完するための、情報の宝庫なのである。


「……あったぞ。これじゃ」


 如月さんが埃を払いながら書架の奥から引っ張り出してきたのは、革紐で厳重に縛られた、かなり年季の入った巨大な紙の筒だった。

 彼女はそれを大きな木製テーブルの上にドンと置き、革紐を解いてバサッと広げる。


「それは?」


「この如月学園旧校舎が建設された当時の、オリジナルの建築設計図じゃよ」


 古く黄ばんだ大きな模造紙には、青いインクで旧校舎の精緻な見取り図や断面図、そして配管や階段の位置関係が、幾何学的な線と細かい文字でびっしりと描き込まれていた。古い紙特有の、埃とインクが混ざったような乾いた匂いが鼻を突く。


「さて、サクタロウ。先ほどのドローンの空撮映像で得られた物理的痕跡を、もう一度お主の口から整理してみるのじゃ」


 如月さんは、テーブルの上に広げた設計図の四隅を古い真鍮の文鎮で押さえながら、冷徹な鑑定士の顔で僕を見た。


「えっと……あの崩れかけの非常階段の中腹に、星月菩提樹の珠と絹の紐で作られた古い数珠がはめ込まれていた。そして、鉄柵と接触している珠の『内側』だけが、水平方向に深くえぐれるように摩耗していた……ですよね」


「左様。ただ風で揺れた程度の摩耗ではない。あの深い溝と、鉄柵側の赤い塗装が帯状に完全に剥がれ落ちていた痕跡は、過去のいつかにおいて、長期間にわたり、あるいは凄まじい力で、あの数珠が『水平方向に激しく回転させられていた』という絶対的な物理的証拠じゃ」


 如月さんは、テーブルの上に置かれた冷たい紅茶のグラスの縁を、人差し指でツゥーッと軽くなぞった。


「過去の何者かが、あの非常階段の縦柵を『軸』にして、数珠を激しく回転させた。……サクタロウ、お主はなぜ、あのような場所で数珠を回転させる必要があったと思う?」


 試すような視線。

 僕は腕を組み、ドローンのモニター越しに見たあの光景を頭の中で反芻した。


「うーん……。回転、回転ですよね。たとえば……昔の生徒が、あの数珠を『ルーレット』みたいにして遊んでいたとか?」


「ルーレット、じゃと?」


「はい。如月学園は昔からエリート校で、僕みたいな一般人は息が詰まるほど厳しいじゃないですか。不良なんて一人もいないからこそ、プレッシャーに耐えかねた生徒たちが、教師の目から逃れられるあの非常階段を秘密基地にしてたんです。それで、一番大きな親玉を針に見立てて勢いよく回して、止まった方向の奴が購買までジュースを買いに行く『罰ゲーム』の道具として使ってたとか……」


 僕なりの、この学園の閉塞感も加味した精一杯の現実的な推理だったが、如月さんは即座に呆れたように息を吐いた。


「プレッシャーからの現実逃避という人間の情動の動きとしては悪くないが、物理的な辻褄が全く合っておらん。息抜きの罰ゲームだとしたら、あの摩耗の仕方は不自然すぎる」


「え、そうですか? 毎日回してたら、あんな風に削れるんじゃ……」


「いいか、サクタロウ。手で数珠を弾いて回す程度の力と速度では、星月菩提樹という極めて硬い材質があそこまで深く、しかも『均等に』えぐれることはない。ましてや、鉄骨の塗装を完全に剥がし、鉄の地肌をツルツルに磨き上げるほどの凄まじい摩擦力など生まれん。もし手で回していたのなら、傷の方向は水平に綺麗に揃わず、もっとランダムに乱れるはずじゃ」


 如月さんの論理的かつ容赦のない指摘に、僕はぐうの音も出なかった。


「じゃ、じゃあ、なんなんですか? 手で回したんじゃないなら、機械のモーターでも取り付けて回してたって言うんですか?」


「動力は機械ではなく、人間の『腕の力』じゃ。しかし、ただ手で直接数珠を弾いたのではない」


 如月さんは、設計図の上に置いた自分の両手で、何か太いものを力強く引っ張るようなジェスチャーをして見せた。


「あの水平方向に綺麗に揃った深い摩耗の痕跡。あれは、祈りのために掛けられたものではない。もちろん、エリート学生のくだらん遊び道具でもない。……太い『ロープ』を引く際、鉄柵との摩擦を限界まで減らすために、回転する滑らかな木珠を利用したのじゃ」


「ロープを引くための……摩擦を減らす……?」


「つまり、あの数珠は祈りの具などではなく、『滑車(プーリー)』として使われたのじゃよ」


 如月さんの口から出たその言葉に、僕は思わず目を丸くした。


「か、滑車!? 滑車って、あの、重いものを持ち上げたりするときに、紐を引っ掛けてカラカラ回す、あの滑車ですか!?」


「その通りじゃ。物理学の基本じゃな。ロープの方向を変えたり、重いものを引き上げたりする際、ロープを直接固定物にこすりつけて引けば、凄まじい摩擦抵抗が生まれてロープが切れるか、あるいは引く側に多大な筋力が要求される。しかし、そこに『回転する車輪』を噛ませれば、摩擦抵抗は劇的に減少し、はるかに少ない力でロープを引くことができる」


 如月さんはテーブルの上の空間に、目に見えない滑車の構造を描くように指を動かした。


「想像してみるのじゃ。何十年も前、あの非常階段がまだ崩落の危険もなく、普通に使われていた当時のことをな。当時は今のような赤錆だらけの惨状ではなく、白く綺麗に塗装されていたじゃろうが、それが『鉄の柵』であることに変わりはない。そこに直接、太いロープを巻き付けて強い力で引けばどうなる? ロープは鉄柵との強烈な摩擦で擦り切れ、スムーズに引くことなど到底不可能じゃ」


 頭の中で、20年以上前のまだ新しかった非常階段の光景を思い浮かべる。確かに、ペンキが塗られた鉄の棒にロープを擦り付ければ、摩擦でギシギシと嫌な音が鳴り、まともに動かないだろう。


「しかし、鉄柵の周りに『滑りの良い硬い木珠』を巻き付け、その木珠の上にロープを這わせて引けば……」


「木珠が鉄骨の周りをベアリングみたいに回転して……摩擦が劇的に減って、スムーズにロープが引ける……!」


「ご名答。あの星月菩提樹の珠の内側だけが深くえぐれていたのは、上に乗ったロープの張力によって珠が鉄柵に強く押し付けられながら、ロープが引かれるのに合わせて高速で回転させられたからじゃ。そして、外れないように強靭な絹の紐で編み上げられていたのは、ロープの強い負荷に耐えうるだけの引張強度が絶対に必要だったからに他ならん」


 ぞくり、と。

 冷たい扇風機の風とは全く違う、思考の根本を揺さぶられるような感覚が僕の背筋を這い上がった。


 幽霊だの、呪いの念珠だのというオカルトな妄想が、彼女の冷徹な物理的観察眼によって完全に打ち砕かれ、あまりにも生々しい『現実的な用途』へと反転していく。


 過去のいつか、何者かが、あの非常階段で太いロープを引く必要があった。

 しかも、階段の鉄柵をそのまま使えないほどの強い力で。

 そして、その摩擦を減らすための道具として、実在する仏具である『数珠』をバラし、あの鉄柵の周りで、滑車としてその場で編み上げたのだ。


「でも、如月さん。滑車として使われたのはわかりましたけど……一体、何のために? なんであんな屋外の非常階段で、滑車を作ってまで重いロープを引かなきゃいけなかったんですか?」


 僕の問いに、如月さんは満足げに口角を上げた。


「それが、この設計図を広げた理由じゃ」


 彼女は、古く黄ばんだ大きな設計図の一角を、スッと指差した。

 そこには、僕たちが先ほどまで見上げていた旧校舎の裏手、屋外非常階段の側面図が描かれている。


「滑車には、力の向きを変えるという絶対的な役割がある。横に引いたロープの力を、縦方向へと変換する、といった具合にな。……サクタロウ、数珠がはめ込まれていたのは、二階の踊り場から数段下の縦柵じゃったな」


「はい。そのあたりです」


「ならば、その位置から真上、垂直方向へと視線を伸ばしてみるのじゃ」


 如月さんの細く白い指先が、設計図に描かれた非常階段の『数珠の位置』から、定規で引いたように真っ直ぐ上へと移動していく。

 二階の踊り場を越え、旧校舎の三階部分の外壁を通過し、やがてその指先は、旧校舎の屋根のすぐ下、ある特定の部屋の窓の部分でピタリと止まった。


「ここじゃ」


「そこって……『旧資料室』……?」


 設計図の細かい文字を読み上げた僕の声に、如月さんは静かに頷いた。


「左様。今はもう誰も立ち入ることのない、旧校舎の三階にある旧資料室じゃ。そして、設計図のこの記号をよく見るのじゃ。この部屋の窓は、普通の横開きの窓ではない」


 如月さんが指差した部分には、壁面から斜め上に向かって突き出すような形状の窓の図面が描かれていた。


「これは……『天窓』ですか?」


「うむ。採光と換気のために作られた、分厚いガラスと重い鉄枠がはめ込まれた、外側に向かって上開きになる天窓じゃ。設計図の構造を見る限り、この天窓は内側からストッパーを外して押し上げるか、あるいは外側から『取っ手にロープを掛けて、下に向かって強い力で引き下げる』ことでしか開閉できぬ構造になっておる」


 そこまで聞いて、僕の脳内で、バラバラだったすべての物理的なピースがカチリと音を立てて組み合わさった。


「まさか……!」


 僕は思わずテーブルに身を乗り出した。


「過去の誰かが、あの三階の旧資料室に『外から侵入する』ために……!」


「その通りじゃ」


 如月さんは冷たい紅茶をもう一口飲み、紫の瞳を細めた。


「重い鉄枠の天窓を、地上あるいは非常階段からロープを使って開けるには、斜め下に向かってロープを引かなければならん。しかし、建物の構造上、そのまま斜めに引けばロープは外壁の出っ張りや(ひさし)に干渉してしまい、力がうまく伝わらん。そこで、真下にある非常階段の『縦柵』を経由してロープの軌道を変える必要があったのじゃ」


 彼女は設計図の上に、指でロープの軌道を描く。


「三階の天窓の取っ手にロープを掛ける。そのロープを真下に垂らし、二階の非常階段の縦柵に巻き付ける。そして、安全な二階の踊り場、あるいは地上からロープを水平に引く。……しかし、鉄柵に直接ロープを掛ければ摩擦で動かぬ。だからこそ、あの位置に『滑車』が必要だったのじゃよ」


 完璧な物理的証明だった。

 幽霊の鳴らす鐘だと思っていたあの不気味な音の正体も、お盆の強い南風が吹き込んだ際、滑車として異常なまでにキツく固定された数珠と、風雨に晒された非常階段の鉄骨が共鳴して鳴っていただけの、ただの物理現象にすぎなかったのだ。


「旧資料室に、外から侵入するための手作りの滑車……。それが、あの数珠の正体だったんですね」


 僕は深く息を吐き出し、ロッキングチェアに深く座り直した如月さんを見た。

 謎は解けた。見事な推理解決だ。これでこの不気味なお盆の怪談も終わり――そう思った時だった。


「……不可解じゃな」


 如月さんが、ぽつりと、ひどく冷たい声で呟いた。

 彼女の美しい表情からは先ほどまでの謎を解き明かした高揚感は完全に消え去り、代わりに、何か極めて得体の知れないものを前にしたような、深い『違和感』が張り付いていた。


「え? な、何が不可解なんですか? 完璧な推理じゃないですか。昔の生徒か誰かが旧資料室に忍び込むために、滑車を作った。それで終わりでしょ?」


「わしが調べておるのは、ただの物理現象のメカニズムではない。モノがそこに存在する『ルーツ』じゃ」


 如月さんは、テーブルの上に組んだ自分の両手の上に、そっと細い顎を乗せた。


「サクタロウ、考えてもみるのじゃ。旧資料室に侵入するために滑車が必要だった。そこまでは良い。しかし……ならばなぜ、『数珠』なのじゃ?」


「え……?」


「摩擦を減らすための滑車が欲しいのなら、ホームセンターで金属製の滑車(ブロック)を買ってきてロープに繋げば済む話じゃ。百歩譲って、お金がなくて自作したのだとしても、手頃なプラスチックの筒でも、金属のリングでも、いくらでも代用品はあったはずじゃ」


 彼女の言う通りだ。

 滑車を作りたい人間が、わざわざ仏具を選ぶ必然性など、物理的にはどこにもない。


「しかし、過去の何者かは、わざわざ純度が高く高価な絹の紐と、高級な星月菩提樹の珠で構成された『本物の仏具』を持ち出した。そして、あろうことか、足場の悪い非常階段で、熟練の仏具職人の技術を用いて、その場で強固な滑車として編み上げたのじゃ」


 如月さんの言葉が、図書室の空気を一気に冷たく重いものに変えていく。


「これは、ただの思いつきの悪戯や、素人の無計画な侵入工作ではない。仏具の構造と製造技術を完全に熟知した人間が、何らかの『強烈な意図』を持って、あえて数珠を滑車に見立てたのじゃ。……あるいは、手元にそれしかなく、絶対に失敗が許されない、背に腹は代えられない切羽詰まった状況だったのか」


 冷たい扇風機の風が、僕の汗ばんだ首筋を撫でる。

 幽霊の正体が人間だったとわかって安心したのも束の間、今度は生きた人間の『底知れぬ意図』という、物理的でありながら極めて不気味な謎が僕たちの前に立ちはだかっていた。


「祈りの道具である神聖な仏具を、物理的な侵入ルート確保のための無機質な機械部品として扱う……。この矛盾と冒涜。……実に、気持ちの悪い違和感じゃ」


 如月瑠璃の紫のアメジストのような瞳が、静かに、しかし深い情動の影を落として細められた。

 ありえない場所にありえないモノがある。その物理的な役割は解明されたが、そのルーツに横たわる人間の『真意』は、まだ旧校舎の淀んだ空気の中に隠されたままだった。



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