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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夏風と約束の念珠』 ~section3:空撮と、観察眼~

 暴力的な真夏の太陽が、僕たちの頭上から容赦なく熱線を浴びせ続けている。

 崩落寸前の赤錆だらけの非常階段と、その中腹の縦柵に物理法則を無視してはめ込まれた不可解な数珠。そして、立ち入りを厳重に禁じる黄色と黒のバリケードテープ。


 触れることも、至近距離に近づくことも許されない絶対的な物理的障壁を前に、天才鑑定士である如月瑠璃の苛立ちは、すでに頂点に達しようとしていた。


「……サクタロウ」


 不意に、地を這うような低く静かな声が、狂ったような蝉の鳴き声を切り裂いて僕の鼓膜に届いた。

 ビクリと肩を揺らし、恐る恐る日傘の下の主へと視線を向ける。


 如月さんは、先ほどまでのマグマのように沸き立っていた怒りをスッとどこかへ隠し、代わりに、極寒の氷のように冷徹で計算高い、鑑定士としての顔つきを取り戻していた。彼女の紫のアメジストのような瞳には、一切の感情が抜け落ちた純粋な『解決策』への渇望だけがギラギラと鈍い光を放っている。


「は、はい。何でしょうか、如月さん」


 両手に荷物――右手に特製オムライスの入った保温バッグ、左手に重い純氷の氷柱が入ったビニール袋――を持ったまま直立不動の姿勢を取る僕に対し、如月さんは日傘の角度をわずかに変え、淡々と告げた。


「物理的な接近が不可能であるならば、視座を変えるまでじゃ。わしの肉眼が直接届かぬのなら、届く『目』を代わりに飛ばせばよい」


「届く、目……?」


「サクタロウ。お主の持っている飛ぶ機械(ドローン)で、アレを近くで映し出すのじゃ」


 その言葉の意味を理解した瞬間、僕は思わず目を丸くした。


「えっ!? ド、ドローンを使うんですか!? 如月さんが!?」


 驚くのも無理はない。如月瑠璃という少女は、最先端のスマートシティである月見坂市の恩恵を真っ向から否定し、徹底してデジタル機器や現代の利便性を嫌悪しているアナログ至上主義者なのだ。

 彼女の拠点である旧校舎の図書室には、空調設備はおろか、パソコンやタブレットの類すら一切置かれていない。彼女が普段モノのルーツを探るために使うのは、古文書や古い文献、そして自身の『物理的観察眼』のみである。僕がスマホで何かを調べようとしたり、趣味のガジェットをいじったりするたびに、『無機質で情動が感じられぬ』『画面越しの情報など薄っぺらいものじゃ』と、いつも眉をひそめて嫌がっていたではないか。


 そんな彼女が、自らデジタル機器の――しかも、ドローンによる空撮映像の使用を求めてきたのだ。


「何を呆けた顔をしておる。聞こえなかったのか? お主のその無駄に大きなカバンの中に、常日頃から持ち歩いているおもちゃが入っておるじゃろ」


 如月さんは、僕が斜め掛けにしているボストンバッグへと鋭い視線を向けた。


 確かに、今日の僕のバッグの中には、趣味で愛用している手のひらサイズの高性能小型ドローンと、それを操作・モニタリングするためのタブレット端末が入っている。地下アイドルの『魚魚ラブ』の野外ライブなどで、遠くからでも推しの姿を高画質で記録したりするために(もちろん撮影許可が下りている範囲でだが)、日頃から持ち歩く癖がついていたのだ。


「い、いや、持ってますけど……。如月さん、画面越しの映像なんて信じないって、いつも言ってるじゃないですか。デジタルは嫌いなんじゃ……」


「愚鈍な。背に腹は代えられんじゃろう」


 如月さんは忌々しそうに、崩落寸前の非常階段を一瞥した。


「あの忌々しい黄色いテープと崩壊の危険性が、わしの物理的な歩みを阻んでおる以上、直接触れることは不可能じゃ。しかし、ここで情報不足を理由に謎を放置して立ち去るという選択肢は、わしの辞書には存在せぬ。手段を選んでおる場合ではない。……それに」


 彼女は再び僕へと視線を戻し、自信に満ちた笑みを微かに浮かべた。


「画面越しであろうと何であろうと、そこにある『物理的な痕跡』という事実は変わらん。お主の機械が不鮮明な映像しか映し出せぬポンコツであったとしても、わしの『眼』ならば、その奥にあるルーツを必ずや見抜いてみせる。さあ、早く準備をするのじゃ。氷が溶けてしまう前に、この忌々しいジレンマを終わらせるぞ」


 彼女の揺るぎない決意と、謎に対する恐ろしいほどの執念を前にしては、僕の幽霊への恐怖や疑問など、瞬時に消し飛ぶしかなかった。


「……わかりました。すぐに出します」


 僕は急いで安全な地面を探し、右手のオムライスが入った保温バッグと、左手の重い氷柱が入った袋を、直射日光が当たらない木陰に慎重に下ろした。氷柱からはすでに水滴がぽたぽたと滴り落ちており、時間との勝負であることは僕にも理解できた。


 ボストンバッグのファスナーを開け、黒いプラスチック製の小型ドローンを取り出す。プロペラのアームを展開し、内蔵バッテリーの残量を確認する。よし、フル充電だ。続いて、同じくバッグから十インチのタブレット端末を取り出し、専用のコントローラーとケーブルで接続した。


「電源オン。リンク、正常。カメラのキャリブレーション、オッケーです」


 使い慣れた愛機の設定を、手際よく数秒で終わらせる。タブレットの画面に、ドローンのカメラが捉えた僕の足元の草むらが鮮明に映し出された。

 最新型のこのドローンは、4K画質の高解像度カメラと、強力な手ブレ補正機構(ジンバル)を搭載している。多少の風に煽られても、まるで三脚で固定したかのようにブレのないクリアな映像をリアルタイムで送信できる優れものだ。


「準備完了しました。飛ばしますよ」


 僕が告げると、如月さんは日傘をさしたまま、タブレットの画面を覗き込める位置へとスッと移動してきた。彼女から漂う、上品な紅茶のような、あるいは古い本のような不思議な香りが僕の鼻腔をかすめ、一瞬だけ緊張で指先が強張る。


「……慎重にやるのじゃぞ。あの錆びた鉄屑にぶつけて、機械ごと落下させるような無様な真似は許さんからな」


「わ、わかってますよ。僕の操縦テクニックを舐めないでください」


 僕はコントローラーのスティックをゆっくりと上に倒した。


 キィィィィン……!


 四つの小さなプロペラが高速回転を始め、高いモーター音を響かせながら、黒い機体がふわりと真夏の空へと浮かび上がった。

 蝉の喧騒と、不気味な階段の鐘の音に、無機質な機械音が混ざり合う。いつから放置されているのかもわからない赤錆だらけの廃墟のような階段と、最先端のスマートシティの恩恵である小型ドローン。そのコントラストは、この空間の異常さをいっそう際立たせていた。


「そのまま、二階の踊り場の少し下……あの数珠の正面まで近づけるのじゃ」


 如月さんの冷静な指示に従い、僕はドローンをゆっくりと上昇させ、同時に前進させる。

 機体は黄色と黒の『立入禁止』のテープを軽々と飛び越え、僕たちの立ち入りを拒む物理的障壁を無効化していく。


 ザワァァァッ……!


 再び、海の方角から強めの南風が吹き付けた。

 風に煽られ、ドローンの機体がふらりと横に流されそうになる。


「っと……!」


 僕は咄嗟にスティックを微調整し、風の抵抗に逆らって機体の姿勢を安定させた。ジンバルが優秀に機能し、タブレットの画面上の映像はピタリと静止したままだ。


「ほう。なかなか器用な手つきじゃな。……機械任せとはいえ、少しは見直したぞ」


「機械任せじゃないですよ、風を読んで手動で当て舵を切ってるんです。……はい、着きました。数珠の正面、距離およそ五十センチです」


 タブレットの十インチの液晶画面に、驚くほど鮮明な映像が映し出された。

 地上から見上げていた時には影になってよく見えなかった、非常階段の中腹。その縦柵にはめ込まれた『古い数珠』のディテールが、4K画質の高精細な映像として、僕たちの手元に完璧に再現されていたのだ。


「素晴らしい。これならば、ルーツに届く」


 如月さんの声が、微かに、しかし確かに弾んだ。

 彼女は自分の日傘の柄を僕に押し付けると、「これを持っておれ。画面に太陽の光が反射して見えにくい」と命じた。僕は慌てて日傘を受け取り、彼女が日陰に入るように、タブレットの真上に傘を掲げる。


 自由になった両手で、如月さんは自身のワンピースのポケットから、ある『道具』を取り出した。


 使い込まれた、アンティークの『銀のルーペ』である。

 彼女がモノのルーツを探る際、物理的観察眼を極限まで引き出すための、彼女の魂とも言える相棒だ。精緻な銀細工が施された持ち手と、分厚く透明度の高いレンズ。


 彼女はその愛用の銀のルーペを、なんと、最新型のタブレットの液晶画面に直接、カチリと押し当てたのだ。


「えっ……ちょ、如月さん!? 画面に傷がつきますって!」


「静かにせい。集中が削がれる」


 僕の制止など全く意に介さず、如月さんは画面に押し当てたルーペに、自らの紫の瞳を限界まで近づけた。

 最新のデジタル機器の画面に、アンティークの銀のルーペを押し当てて拡大観察するという、あまりにもシュールでちぐはぐな光景。しかし、彼女の横顔には一片の迷いもなく、ただ獲物の喉笛に食らいつくような、凄まじいまでの集中力と覇気が漲っていた。


 タブレットの画面越しであっても、彼女の『物理的観察眼』の精度は少しも落ちていなかった。


「……ふむ。やはりな。地上からの推測は間違っていなかったようじゃ」


 数十秒の沈黙の後、画面を食い入るように見つめていた如月さんが、ぽつりと呟いた。


「わ、わかったんですか?」


「サクタロウ。お主、この数珠を構成している『紐』と『珠』の材質がわかるか?」


 画面をルーペ越しに睨みつけたまま、彼女は問いかけてくる。

 僕はドローンの姿勢を維持しながら、画面の端をちらりと盗み見た。


「えっと……紐はなんか、普通の手芸用の糸より太くて丈夫そうですね。珠の方は、木でできてるみたいですけど……所々に黒い斑点みたいな模様があります。かなり古いのか、全体的にくすんでますね」


「素人にしては上出来な観察じゃ。……紐は、ただの綿や化学繊維ではない。極めて純度の高い『(シルク)』の糸じゃ。それも、何本もの細い絹糸を特殊な()り方で一本にまとめた、仏具専用の強靭な絹紐。大の男が力任せに引っ張っても、そう簡単には切れぬほどの驚異的な引張強度を持っておる」


「絹の紐……。じゃあ、珠の方は?」


「珠の材質は『星月菩提樹(せいげつぼだいじゅ)』じゃな。表面の無数の黒い斑点が夜空の星を、そして一つだけある大きめの窪みが月を表しているとされる、仏具においては非常にポピュラーかつ高級な素材じゃ。実が硬く、使い込むほどに表面が滑らかになり、深い飴色へと変化していく特徴がある」


 ルーペを少しずつずらしながら、彼女は画面上に映る物理的な情報を、次々と完璧な知識で言語化していく。


「そして、ここからが重要じゃ。サクタロウ、少しカメラを上に向けい。房がついている一番大きな珠……『親玉』じゃな。あの穴の付近を限界まで拡大するのじゃ」


「了解です」


 僕はコントローラーを慎重に操作し、ドローンのカメラの上下の角度(チルト)を少しだけ上向きに変更した。さらにデジタルズームをかけ、画面の中央に、房を束ねている一番大きな親玉をドアップで映し出す。


 如月さんは再びルーペを画面に強く押し当てた。


「ふむ、見えた。やはり、接着剤で留めたり、後から紐を結び直したような不自然な継ぎ目は、外側には一切存在せぬ。紐の結び目はすべて、あの親玉の『内側』に隠されておるのじゃ」


「親玉の内側に……?」


「左様。ただ紐を通すだけでなく、特殊な編み込みを施した上で、結び目という物理的な膨らみを、一番穴の大きな親玉の内部にすっぽりと収めて隠す。これは、数珠の見た目の美しさと耐久性を両立させるための、熟練の仏具職人特有の極めて高度な製造技術じゃ」


 如月さんはルーペを画面から離し、ふうと短く息を吐いた。


「つまり、この数珠は『どこかの工房で作られた完成品を、無理やりこの鉄柵にはめ込んだ』のではない。……これほどの摩耗が生じるほど過去のいつか、何者かが強靭な絹の紐と星月菩提樹の珠を用意し、この非常階段の鉄柵そのものを『芯』に見立てて、その場でプロの職人の技術を用いて数珠を編み上げ、強固に固定したのじゃ」


「そ、その場で編み上げた!? わざわざこんな崩れかけの非常階段でですか!?」


 僕は驚愕のあまり、危うくコントローラーを取り落としそうになった。

 魔法でも心霊現象でもない。生きている生身の人間が、この鉄の棒の周りで、手作業でわざわざ数珠を作ったというのだ。


「しかし、なんでそんな面倒なことを……。やっぱり、この場所で亡くなった生徒の霊を慰めるために、絶対に外れない祈りの証として固定したとか……」


 僕が再びオカルトと感傷の入り混じった推理を披露しようとすると、如月さんは冷たく鼻で笑った。


「祈りや供養の具であるならば、わざわざこのような手の込んだ真似をする必要はない。どこかに引っ掛けておくか、周囲の手すりに緩く結びつけておけば済む話じゃ。……サクタロウ、あの数珠が、この太い縦柵に対して『遊び』が全くないほど、ガチガチに隙間なくはめ込まれていることの異常性がわからんのか?」


「それは……確かに、不思議ですけど」


「不思議ではない。物理的な『必然』じゃ」


 如月さんの紫の瞳が、再びギラリと鋭い光を放った。

 彼女はタブレットの画面を指差し、決定的な指示を出した。


「機体を少し横に回り込ませ、鉄柵と数珠の珠が『接触している内側の部分』を接写するのじゃ。そこを見れば、すべてが繋がる」


 言われるがまま、僕はドローンをゆっくりと横移動させ、鉄柵と数珠の隙間を覗き込むようなアングルへとカメラを向けた。

 液晶画面に、星月菩提樹の珠の『内側』が鮮明に映し出される。


 それを見た瞬間、僕は思わず息を呑んだ。

 そして、如月瑠璃の口角が、美しく、そして残酷に釣り上がった。


「……見事なものじゃ。これこそが、偽りようのない物理的痕跡よ」


「如月さん、これ……珠の木が、えぐれてますよ……!」


 画面に映し出された映像は、僕の目から見ても明らかに異常だった。

 星月菩提樹という非常に硬いはずの木の珠。その、鉄柵と直接触れ合っている内側の部分だけが、何かに激しく削り取られたように、深くえぐれていたのだ。

 しかも、ただランダムに削れているのではない。


「ただの摩耗ではないぞ、サクタロウ。よく見るのじゃ。傷の向きがすべて『水平方向』に揃っておる。……つまり、珠の内側だけが、一方向に激しく摩耗しているのじゃ」


 如月さんが指摘した通りだった。

 珠の内側には、水平方向に何周も何周も、紙やすりで強制的に削り取られたかのような、規則正しく深い溝が刻まれていた。さらにカメラの映像をよく見れば、数珠が触れている鉄柵側の赤い塗装も、帯状に綺麗に剥がれ落ち、そこだけ鉄の地肌がツルツルに磨かれているではないか。


 もし、この数珠が供養や祈りのために『ただ固定されていた』だけならば、風で揺れたとしても、このような激しい一方向への摩耗が起きるはずがない。

 これほどの深い傷と、鉄骨の塗装の剥がれを引き起こす物理的要因は、たった一つしか考えられなかった。


「この数珠は、祈りのための飾りではない。長期間にわたり、あの鉄の縦柵を『軸』にして、凄まじい摩擦熱が生じるほどの速度と力で、水平方向に激しく『回転』させられていたのじゃ」


 如月さんの冷徹な宣言が、うだるような夏の空気に重く響いた。


「回転……させられていた? 数珠を、ですか?」


「左様。ただの供養の具を、誰が狂ったように回転させるというのじゃ? 祈りなどという人間の情動は、この摩耗の痕跡とは一切結びつかぬ」


 如月さんは銀のルーペをポケットにしまい、僕から日傘を取り返して、優雅に自分の肩に乗せた。


「強靭な絹の紐。滑りが良く、耐久性のある硬い木珠。そして、鉄柵を芯にしてその場で編み上げる職人の技術。これらすべては、祈りのためではない。あの縦柵を軸にして、この数珠を別の『物理的な用途』の道具として見立てて使用するための、極めて合理的な設計だったということじゃ」


 幽霊でも、呪いでも、悲しい祈りでもない。

 過去のいつか、何者かが、仏具であるはずの数珠を、全く別の用途を持った『機械的なパーツの一部』として見立て、この階段に意図的に組み込んだのだ。


「ありえない場所にある数珠の物理的な役割は判明した。あとは、いつ、誰が、何のためにこれを作ったのか。この特殊な結び目を施した職人のルーツを辿るだけじゃ。……サクタロウ、撤収じゃ。図書室へ戻るぞ。氷が完全に溶ける前に、学園の古い記録を洗うのじゃ」


 日傘の下、如月瑠璃の紫の瞳は、すでに旧校舎の非常階段ではなく、自らの拠点である図書室の方向へと向けられていた。

 ジレンマを完全に打ち破り、真実への確かな糸口を掴んだ彼女の表情には、もはや一片の苛立ちも残されていなかった。



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