第4話『夏風と約束の念珠』 ~section2:幽霊と、ジレンマ~
――ゴォォン……。
生温かいお盆の南風が、旧校舎の裏手に鬱蒼と生い茂る木々の隙間を通り抜けるたび、赤錆に覆われた巨大な非常階段全体が微かに共鳴し、ひどく重々しい、くぐもった金属音を周囲の空気に撒き散らす。
それはまるで、地底の奥深くから這い上がってきた亡者の呻き声か、あるいはこの世に強烈な未練を残した魂をあの世から呼び寄せるための、不吉な迎え鐘のように僕の鼓膜を震わせた。
照りつける真夏の太陽は、相変わらずジリジリと僕の肌を容赦なく焼いているというのに、ワイシャツの背中から首筋にかけて、まるで巨大な氷の塊を直接押し当てられたかのような強烈な悪寒が駆け抜けていく。
全身の産毛が一斉に逆立ち、猛暑の汗とは全く異質な、べっとりとした冷や汗が全身から噴き出すのがわかった。
「……っ」
僕は両手に提げた買い出しの荷物――右手には特製オムライスの入った保温バッグ、左手には分厚い純氷の氷柱が入ったビニール袋――を落とさないように必死に指に力を込めながら、無意識のうちに一歩、また一歩と後ずさっていた。
今は夏休みの真っ最中。しかも、カレンダーの並びは完璧な『お盆』である。
旧市街の商店街や、新市街のスーパーの入り口にすら、お供え物の落雁やほおずき、迎え火のための道具が並ぶ時期だ。死者の魂があの世からこの世へと帰還することを、国中が、いや、世界中の多くの文化が何らかの形で認めているような特異な期間。
そんな時期に、誰も寄り付かない薄暗い旧校舎の裏手で、鳴るはずのない寺の鐘のような音が響き、あるはずのない仏具である『古い数珠』が、物理法則を完全に無視したかのように鉄柵にはめ込まれているのだ。
これを心霊現象と呼ばずして、一体何と呼べばいいのだろうか。
僕たちが通う如月学園は、政財界の重鎮や大企業のトップの子女が数多く通う、月見坂市でもトップクラスの名門エリート校である。生徒たちにのしかかるプレッシャーや親からの異常なまでの期待は、僕のような一般家庭で育った凡人には想像もつかないほど重く、そして残酷なものだ。
事実として、この学園の長い歴史の中では、過酷な競争や重圧に耐えきれず、心を病んで静かに学園を去っていった生徒が少なからず存在するという噂がある。そうした生徒たちの無念や絶望、あるいは逃げ出したことへの深い罪悪感が、このスマートシティの恩恵から取り残された旧校舎に澱のように溜まり、形を持たない怨念となって渦巻いている――そんなまことしやかな学園の七不思議を、僕は入学当初にクラスメイトから聞かされたことがあった。
普段、明るく空調の効いた新校舎の教室で聞く分には、「ただの都市伝説だろ」と笑って流せる話だ。
しかし、今、目の前にある光景と音は、僕の貧弱なホラー耐性を粉々に打ち砕くのに十分すぎるほどの、圧倒的で暴力的な説得力を持っていた。
「き、如月さん……っ! や、やっぱりここから離れましょう……!」
僕は震える声で、アンティーク調の美しい日傘の下に佇む主へと、必死に訴えかけた。
「絶対におかしいですよ! こんなの、どう考えてもお盆で帰ってきた幽霊の仕業ですって! きっと、この学校の異常なプレッシャーに潰されてしまった大昔の生徒の霊が、あそこに数珠を掛けて、自分を慰めてくれって風に乗って泣いてるんですよ! このままここにいたら、僕たちまで呪いに巻き込まれて、得体の知れない現象に取り憑かれますってば!」
恐怖のあまり、自分でも何を言っているのかよくわからないほど早口でまくしたててしまった。
とにかく、この不気味な場所から一秒でも早く立ち去りたかった。扇風機ガン回しの部屋に帰り、頭からすっぽりと布団を被って、魚魚ラブのライブ映像を見て現実逃避をしたかった。心霊現象などという、僕の手に負えない非日常のバグからは一刻も早く逃げ出したかった。
しかし、僕の必死の懇願を受けた如月瑠璃という少女は、微動だにしなかった。
彼女は日傘の持ち手を持たない方の手――白く細い指先で、自分のこめかみをトントンと軽く叩いた。そして、僕の方へとゆっくり視線を向けると、氷のように冷たく、そして心底呆れ果てたようなため息を一つ、長く吐き出した。
「愚鈍なことを申すな。……まったく、お主のその貧困な想像力には、毎度のように頭痛を覚えるわ」
「ぐ、愚鈍って……でも、実際に変な音が鳴ってるじゃないですか! しかもあんなありえない場所に数珠がはまってるんですよ!?」
「非科学的じゃ。そもそも幽霊などという非論理的な概念を持ち出す時点で、お主の思考は完全に停止しておる。いいか、サクタロウ。よく聞くのじゃ」
如月さんは日傘の角度をわずかに傾け、日陰の中から、アメジストのような紫の瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。その冷静沈着な眼差しには、僕が感じているような恐怖や動揺など微塵も存在していない。
「音というものはな、物体が振動し、それが空気を伝わって鼓膜を揺らす『物理現象』にすぎん。もし仮に、お主の言う『霊』とやらが存在したとして、質量を持たぬ実体のないものが、どうやってこの巨大な鉄の階段を物理的に叩き、これほどの低周波の振動を生み出せるというのじゃ? 声帯を持たぬものが、どうやって空気を震わせるというのじゃ?」
「そ、それは……霊能力的な、ポルターガイスト的な何かで……念動力とか、そういうオカルトパワーで……」
「くだらん。ただの物理現象にすぎん。魔法や呪い、念動力、異空間などというご都合主義なファンタジーは、この現実世界には存在せぬ。すべては物理的な要因と、そこに介在した人間の『生きた行動』が織りなす結果じゃ。……あの忌々しい音も、そしてあの鉄柵に同化するように鎮座しておる数珠も、霊などではなく、生きた人間が何らかの意図を持って引き起こした物理現象の産物にすぎん」
ピシャリと、如月さんは僕のオカルトな推論を論理で完全に一蹴した。
彼女の辞書に『不思議』や『怪奇現象』という言葉はない。あるのは『未だ解明されていない物理的矛盾』だけだ。彼女は常に、モノのルーツを探り、そこに込められた人間の情動を読み解く『天才鑑定士』として、揺るぎない論理の側に立っている。
「それにしても……」
如月さんは再び、崩落寸前の非常階段へと鋭い視線を戻した。
その横顔を見て、僕は思わず息を呑んだ。
彼女の機嫌が、すこぶる悪かったのだ。
暴言を吐くわけでも、大声を荒げるわけでもない。しかし、僕には痛いほどわかる。日傘の持ち手を握る彼女の指先が、血の気が引くほど白くなるまでギリギリと力が込められていること。そして、彼女の周囲の空気が、真夏だというのにピリピリと凍てつくような、刺々しい緊張感を放っていること。
彼女は今、静かに、しかし火山が爆発する直前のマグマのように、激しく苛立っていた。
その怒りの矛先は、もちろん僕の幽霊発言に対してではない。僕の愚鈍さに呆れるのはいつものことだ。彼女をここまで不機嫌にさせている元凶は、目の前にそびえ立つ『赤錆だらけの非常階段』そのものだった。
「如月、さん……?」
恐る恐る声をかけると、彼女は忌々しそうに、形の良い美しい唇を強く噛んだ。
「……実に、腹立たしいジレンマじゃ」
如月さんの視線の先を追う。
彼女が見つめているのは、もちろん中腹の縦柵にはめ込まれた不可解な古い数珠だ。しかし、彼女と数珠の間には、物理的かつ決定的な『障壁』が存在していた。
それは、階段の登り口を幾重にも塞ぐように張られた、無機質な黄色と黒の『立入禁止』のバリケードテープである。
強烈な紫外線と長年の雨風に晒されて色褪せ、ボロボロになったそのビニールテープは、生徒への単なる飾りの警告ではない。その奥にある非常階段の実態は、建築の素人である僕が見ても、背筋が凍るほどの悲惨な惨状だった。
かつては新校舎と同じように白く美しく塗装されていたはずの鉄骨は、長年の放置により、血液が凝固したような赤黒い錆に完全に侵食されている。ところどころ塗装が瘡蓋のようにめくれ上がり、その下からはボロボロに粉を吹いた鉄の地肌が覗いていた。
致命的なのは、階段全体を支える一階部分の支柱の根元だ。コンクリートの基礎部分は無数のひび割れが走り、鉄骨を地面に固定しているはずの太いアンカーボルトは赤錆の塊と化して、もはや何の役割も果たしていないように見える。さらに、足を乗せる踏み板の鉄板は腐食して極限まで薄っぺらになり、いくつかの段にはぽっかりと暗い穴が空いていた。
一言で言えば、巨大な死のトラップだ。
体重が軽く小柄な如月さんであっても、あそこに一歩足を踏み入れれば、バランスを崩した鉄骨が限界の悲鳴を上げ、階段全体が彼女を巻き込んで地上へと崩落する危険性が極めて高い。学校側が黄色いテープを厳重に張り巡らし、完全な立ち入り禁止区域に指定しているのは、決して責任逃れのための大げさな措置でも何でもなかった。文字通り、命に関わる危険地帯なのだ。
「ありえぬ場所に、ありえぬモノがある。……それは良い。わしの知的好奇心を大いに満たしてくれる、極上の謎じゃ。しかし……」
如月さんは、日傘を持っていない方の手を、虚空を掴むようにゆっくりと前へ伸ばした。
彼女の華奢な手が、絶対に届かない階段の中腹の数珠を求めて、空中で微かに震えている。
「この、距離じゃ。物理的な接触を完全に断たれたこの状況は、わしにとって耐え難いほどの苦痛でしかない」
彼女の声には、普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないほどの、切実な苛立ちと渇望が滲んでいた。
如月瑠璃の最大の武器は、誰もが見逃すような些細な痕跡からモノのルーツを特定する『物理的観察眼』である。
彼女は普段、常に持ち歩いているアンティークの銀のルーペを取り出し、対象物に自分の息がかかるほどの至近距離まで顔を近づける。そして、表面の微細な傷、摩耗の具合、素材の質感、時には残された匂いまでもを徹底的に調べ上げる。そうして得た膨大な物理的情報のピースを、彼女の天才的な頭脳の中で論理的に繋ぎ合わせることで、初めて『ありえないモノ』がそこにある現実的な理由を導き出すのだ。
しかし、今はどうだ。
数珠があるのは、階段の中腹。地上に立つ僕たちからは、直線距離にして数メートル以上も離れた、見上げるような高所である。
黄色いテープと、崩落の危険という絶対的な物理法則が、彼女の歩みを完全に阻んでいる。近づくことができない。直接触れることができない。彼女の代名詞とも言える銀のルーペを覗き込むことすら、許されないのだ。
「あの数珠の紐の材質は何か。絹か、綿か、あるいは特殊な化学繊維か。珠の木材は何か。黒檀か、紫檀か、あるいは星月菩提樹か。長期間風雨に晒されたことによる劣化具合はどの程度か。そして何より、あの縦柵と接触している珠の内側に、どのような物理的干渉の痕跡が残されておるのか……。至近距離で観察できれば、数秒で看破できるはずの有益な情報が、山のようにあそこにあるというのに……っ!」
ギリッ、と。
如月さんが奥歯を強く噛み締める音が、数歩離れた僕の耳にまで届いた。
目の前に極上のご馳走がぶら下がっているのに、透明な分厚い防弾ガラスに阻まれて、匂いを嗅ぐことすらできない飢えた獣。今の如月さんは、まさにそんな状態だった。
彼女は自分の身の安全(階段の崩落)などよりも、観察機会を理不尽に奪われているという状況そのものに、激しい怒りを覚えているのだ。
「如月さん……」
僕は両手に重い荷物を持ったまま、オロオロと彼女の顔を窺うことしかできない。
こんなに苛立っている彼女を見るのは珍しい。いつもなら、どんな難解な謎を前にしても彼女は悠然と構え、旧校舎のこたつやアンティークチェアに座って紅茶でも飲みながら、「ふむ」と余裕の笑みを浮かべているはずなのだ。それほどまでに、彼女の『物理的観察眼』において『対象との距離』という障害は、致命的で耐え難い制限なのだろう。
「忌々しい……実に忌々しい。あの程度の赤錆、わしの足運びならば荷重を極限まで分散させ、鉄骨の節だけを踏んで登り切ることも不可能ではないかもしれんが……」
如月さんが、本気で黄色いテープをくぐり抜けようと、物理学的な計算をブツブツと呟き始めた。
「だ、ダメですよ! 絶対にダメです! 荷重を分散とかそういう次元の劣化じゃないですよ! 踏み出した瞬間に床が抜けますって! 怪我じゃ済みませんよ!」
僕が慌てて大声で止めに入ると、如月さんはピタリと計算を止め、鋭い紫の瞳で僕をギロリと睨みつけた。
「わかっておる! だからこそ、こうして大人しく地上で足止めを食らっておるのではないか! ああ、腹立たしい……この目で、この手で、直接あの矛盾のルーツを撫で回してやりたいというのに……!」
彼女は日傘を持ったまま、旧校舎の壁を強く睨みつけ、静かに、しかし深い憤りを込めて長く息を吐き出した。
その時だった。
ザワァァァッ……!
再び、海の方角からお盆特有の強い南風が吹き付けた。
周囲の古い木々が大きく揺れ、枝葉が擦れ合う音が響く。そして、重い湿り気を帯びた風は容赦なく赤錆だらけの非常階段へと吹き込み、老朽化した鉄骨の隙間をすり抜けていく。
――ゴォォン……。
先ほどよりもさらに大きく、低く、重い金属音が、僕たちの頭上から響き渡った。
やはり間違いない。あの音は、風が吹き抜けるたびに、あの非常階段全体から鳴っている。
幽霊の仕業ではないと彼女は断言した。だが、物理的にありえない状態ではめ込まれた数珠と、風が鳴らす謎の鐘の音。
この錆びついた階段には、ただの偶然では済まされない、生きた人間の『意図』が隠されている。
如月さんは逃げるどころか、不気味な鐘の音を真正面から受け止めるように、ピンと背筋を伸ばして立ち尽くしていた。日傘の影の下、彼女の紫の瞳は、階段の中腹にある数珠を射抜いたまま、決して逸らそうとはしない。
「……鳴るか。わしを嘲笑うかのように、よく鳴る階段じゃ」
如月さんの声は、地を這うように低かった。
「物理的に切断不可能な柵にはめ込まれた、出所不明の古い数珠。そして、風が吹くたびに共鳴する、鐘のような音。……ただ無作為にあそこに捨てられたわけではない。何らかの明確な『物理的役割』を持たせるために、あの位置に、あのように強固に固定されたのじゃ」
彼女の呟きは、恐怖とは無縁の、純粋な探究心と執念に満ちていた。
幽霊の仕業だと怯える僕の横で、彼女はただひたすらに、目の前に提示された『現実的な謎』と格闘している。
しかし、ジレンマは依然として全く解決していない。
黄色いテープと崩落の危険という、超えることのできない物理的障壁が、彼女と謎を隔てている事実に変わりはないのだ。触れられない、見られない。その圧倒的な情報不足の壁を前に、天才・如月瑠璃の苛立ちは限界点に達しようとしていた。
夏の暴力的な太陽は、相変わらず容赦なく僕たちを照らし続けている。
汗が目に入りそうになるのを瞬きで誤魔化しながら、僕は、静かに、しかし激しく燃え上がる彼女の怒りと執念の横顔を、ただ黙って見つめることしかできなかった。目の前にある『ありえないモノ』の真実に近づくための手段は、今の僕たちには、何一つ残されていないように思えた。




