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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夏風と約束の念珠』 ~section1:盆の風と、鳴り物~

 その少女は、時間が止まったかのような旧校舎の図書室で、深い静寂とまどろみの中にいた。


 室温は、この時期の月見坂市としては驚くほど低く保たれている。現代的な空調設備など一切存在しないこの密閉された空間で、それを可能にしているのは、彼女が旧市街の埃っぽい古道具屋の片隅から目利きして見つけ出した真鍮製のレトロな扇風機と、床に置かれた巨大なたらい、そしてその上に鎮座する純氷の氷柱であった。

 規則正しい首振りのモーター音を立てる扇風機の風が、透き通った氷柱の表面を滑るように撫でるたび、熱を奪われて冷却された空気が微かな冷気となって、古い紙の匂いが漂う室内をゆっくりと循環していく。


 彼女――如月瑠璃(きさらぎ るり)は、窓際に持ち込んだアンティークのロッキングチェアに深く身を委ね、膝の上に広げた分厚い海外の建築学の古書に視線を落としながら、グラスに注がれた冷たい無糖の紅茶を静かに口に含んだ。

 開け放たれた窓の外では、残酷な真夏の太陽がアスファルトを容赦なく焼き焦がし、ミンミンゼミが狂ったように命を削る鳴き声を上げている。しかし、この図書室の空気を支配しているのは、外の暴力的な熱気や喧騒とは無縁の、彼女自身が放つ冷徹な静謐さであった。


 ――ゴォォン……。


 不意に、窓の外から、微かな、しかしひどく異質な音が滑り込んできた。

 風の音ではない。鳥の声でも、遠くの工事の音でもない。それは、重く、低く、空気を震わせるようなくぐもった金属の反響音だった。例えるなら、遠くの山寺で撞かれた、巨大な青銅の鐘のような音。


 瑠璃の、古書のページをめくろうとしていた細い指先がピタリと止まる。

 紫のアメジストのような瞳がゆっくりと活字から離れ、窓の外の深い木立へと向けられた。


 ここは、月見坂市の新市街に位置する『如月学園』の広大な敷地の最奥、忘れ去られた旧校舎である。周囲は最先端のスマートシティの区画であり、お寺や神社などといった古典的な建造物は存在しない。

 しかし、音波は間違いなく、この旧校舎のすぐ裏手、物理的に極めて近い距離から発生していた。


(……不可解な。この低周波の物理的な振動源はどこじゃ?)


 彼女の論理的思考回路が、瞬時に最高速度で起動する。

 時期はお盆。世間の人間であれば、死者の魂が帰ってくる迎え鐘だの、幽霊の仕業だのと非科学的な妄想に囚われる季節であろう。だが、怪談や心霊現象といった概念は、彼女の強固な脳内には一ミリたりとも存在しない。

 あるのは『質量を持った物体が物理的な衝撃を受け、空気を震わせて音波を発生させた』という絶対的な事実と、その原因を究明しようとする飽くなき知的好奇心だけだ。


 瑠璃はロッキングチェアから音もなく立ち上がると、外の不快な熱気に身を晒すための支度を始める。


 彼女は、炎天下であっても素肌を晒して汗を流すような無防備な真似は決してしない。それは如月コンツェルンの令嬢としての矜持以前に、紫外線によるダメージと不快な体温上昇を避けるための、極めて冷徹な計算に基づく行動であった。


 彼女が手に取ったのは、純白の厚手のコットン生地に、黒の絹糸で精緻なダマスク柄の刺繍が縁取られた、アンティーク調のパゴダ日傘であった。持ち手は滑らかな竹の根(バンブー)で作られており、彼女の細い指先によく馴染む。

 日傘の下、彼女が身にまとった装いは、まるで古いモノクロ映画から抜け出してきたかのように優雅で、一切の隙がなかった。


 深いミッドナイトブルーのフレンチスリーブのサマーワンピース。上質なフレンチリネンが使用されており、マットな質感でありながらも、彼女が歩を進めるたびに微かな光沢を放っている。首元は控えめなスクエアネックで、鎖骨のラインを美しく見せつつも決して下品にはならない。ウエストは共布の細いベルトでキュッと締められ、そこから裾に向かってたっぷりと生地を使ったAラインのスカートが、足首の少し上まで優雅に広がっていた。

 肩には、強烈な日差しを避けるための白い繊細なレースのボレロをふわりと羽織っている。足元には、細いストラップが交差する黒のレザーサンダル。ヒールは低く歩きやすさを考慮しつつも、その洗練されたデザインは彼女の気品をいっそう引き立てていた。


 日傘を差し、完璧な避暑スタイルを整えた瑠璃は、図書室を後にし、薄暗い旧校舎の廊下を静かに歩き出した。

 カツ、カツと、サンダルの硬い音が埃っぽい廊下に微かに反響する。


 旧校舎の裏手に出ると、日傘の完璧な遮光性の外側で、うだるような夏の日差しが暴力的に照りつけていた。彼女は表情一つ変えず、音のした方角――今は使われていない、錆びついた屋外非常階段へと向かう。


 その階段は、赤錆に覆い尽くされ、今にも崩れ落ちそうな巨大な鉄の死体のように佇んでいた。登り口には『立入禁止(KEEP OUT)』と印字された黄色と黒のテープが何重にも巻かれている。


(黄色いテープ……忌々しい。これでは、物理的な接触ができぬではないか)


 瑠璃は不機嫌そうに美しい唇を尖らせ、日傘の角度を微調整した。

 日傘の濃い影の下、彼女は紫の瞳を細め、階段の中腹、黄色いテープの向こう側をジッと見つめる。


 そこには、手すりを支える縦の鉄柵に、一本の古い『数珠』がはめ込まれていた。


(ふむ。あの縦柵は上下の太いフレームに完全に溶接されておる。柵を物理的に切断したり外したりした形跡は皆無。そして、あの数珠の紐にも一切の継ぎ目がない。……ありえぬ場所に、ありえぬモノがある。物理的な法則を完全に無視した、実に見事な矛盾じゃ)


 日傘の影の下、彼女の紫の瞳が、極上の獲物を見つけた肉食獣のようにギラリと輝いた。

 彼女の知的好奇心が、完全に点火された瞬間であった。


 ――ゴォォン……。


 再び、生温かい南風が吹き抜け、錆びた階段が振動し、あの鐘のような音が旧校舎の裏手に響き渡った。


(……この音、そしてこの数珠。物理的な要因と、そこに込められた人間の情動の痕跡。……実に、腹立たしいジレンマじゃ。近づけぬとは、情報が圧倒的に不足しておる)


 彼女は悔しげに階段を睨みつけた後、くるりと振り返り、呼び出した助手が到着するのを静かに待った。


**


 視界がぐにゃりと歪むほどの猛暑日。

 月見坂市の空には、まるで地上を威圧するかのように、夏特有の巨大な入道雲がふんぞり返るように浮かんでいた。


 お盆、である。

 世間一般の学生であれば、海だ、山だ、あるいは涼しいクーラーの効いた部屋でゲーム三昧だと浮き足立つ、輝かしい夏休みの真っ最中だ。しかし僕――朔光太郎(さく こうたろう)――は、首筋を絶え間なく伝う汗を無造作に拭いながら、両手に提げた重いビニール袋のせいで千切れそうになる指先の痛みに耐え、なだらかな坂道を一人で登っていた。


「暑い……。なんで僕が、こんな猛暑日にわざわざ学校に呼び出されなきゃいけないんだ……」


 右手には、旧市街の老舗洋食店でわざわざテイクアウトした特製のオムライスが入った保温バッグ。左手には、図書室の冷気を維持するための新しい純氷の分厚い氷柱。熱いものと極端に冷たいものを同時に運ぶという理不尽な重労働のせいで、僕の体力はすでに限界に近かった。


 本来であれば、今日は自室の扇風機を限界まで効かせ、ベッドの上でゴロゴロしながら推しの地下アイドル『魚魚ラブ(GyoGyoっとラブ)』の夏のスペシャルライブ配信のアーカイブを心ゆくまで堪能するはずだったのだ。完璧な休日のスケジュールは、たった一通のメッセージによって無残にも打ち砕かれた。


『旧校舎へ来るのじゃ』


 如月さんからの、有無を言わさぬ絶対の命令である。


 僕たちが通うこの『如月学園』は、政財界の令息や令嬢が多く通う名門エリート校であり、当然ながらこの高度にネットワーク化された最先端の新市街の中心に、広大な敷地を構えている。男子も女子も、入学時から厳しい品行方正さと優秀な成績を求められるため、いわゆる不良のような素行の悪い生徒は皆無だ。僕のような一般家庭の生徒は、日々プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、肩身の狭い思いをして目立たないように息を潜めて生きている。


 正門をくぐり、ピカピカに磨き上げられたガラス張りの新校舎エリアを歩いている間は、スマートシティならではの自動制御されたミストクーラーや、地中から冷水を循環させるシステムのおかげで、夏の暴力的な暑さもいくぶん和らいでいた。


 しかし、広大な学園の敷地の最奥――新校舎エリアから深い木立を抜けた先にひっそりと佇む『旧校舎』の周辺だけは、スマートシティの恩恵から完全に見放されていた。


「ああっ、もう! 木立を抜けた途端に、一気に気温が上がった気がする……!」


 鬱蒼と茂る古い木々が日差しを遮ってはいるものの、風通しの悪い旧校舎エリアには、まとわりつくような熱気と不快な湿気が淀んでいた。


 僕は同世代の女性に対して全く耐性がない。少し距離が近づくだけで思考が停止してしまうほどだが、如月さんに関しては不思議と普通に接することができる。それは彼女が、恋愛感情など入り込む余地がないほどに「変わった人」であり、同時に、近づきがたいほどの圧倒的な天才であることを僕が身をもって知っているからだ。

 ありえない場所にありえないモノがある。そのルーツを解き明かす彼女の『物理的観察眼』に巻き込まれるのは、正直言ってひどく面倒だが、心のどこかでほんの少しだけワクワクしている自分もいるのは否定できなかった。


 汗でワイシャツが背中に張り付く不快感に耐えながら、重い足取りで旧校舎の裏手に差し掛かった、その時だった。


 ザワザワと、周囲の木々の葉が一斉に大きく揺れた。海の方角から吹き込んでくる、生温かい強めの南風。お盆特有の、どこか湿り気を帯びたような重い風が、旧校舎の裏手を吹き抜けていった。


 ――ゴォォン……。


 不意に、奇妙な音が僕の鼓膜を震わせた。

 思わず足を止める。風の音ではない。蝉の声でもない。

 それは、重く、低く、くぐもったような金属の反響音だった。例えるなら、遠くの寺で撞かれた鐘のような……いや、時期的に言えば、死者の魂を呼び戻す『迎え鐘』とでも言うべきか。


「……え?」


 じわりと、背筋にぞくりと冷たいものが走った。

 ここは学校の敷地内だ。しかも、使われなくなって久しい旧校舎の裏手。お寺の鐘など存在するはずがない。そもそも、今は真昼間とはいえ、世間はまさにお盆である。あの世の蓋が開き、死者がこの世に迷い出てくる期間。エリート校の過酷な重圧に耐えかねた過去の生徒の念が、この旧校舎に渦巻いているという噂は、学園の七不思議としてまことしやかに囁かれている。


「ま、まさか……幽霊とか、そういう類のものじゃないよな……?」


 僕はホラーの類が極端に苦手だ。気のせいだ、ただの風の音だ。そう自分に必死に言い聞かせながら、音のした方角――旧校舎の裏手、蔦に覆われた壁面の奥へと恐る恐る視線を向けた。


 そこには、赤錆にまみれ、今にも崩壊しそうな屋外非常階段の前に、一人の少女が立っていた。


「如月、さん……?」


 思わず声が漏れた。

 日傘をさした彼女の佇まいは、周囲の狂ったような気温を数度下げてしまうような、ひんやりとした異質な静謐さを纏っていた。

 僕は女性のファッションや服の素材なんてさっぱり分からないし、あまりジロジロと見るのも気が引けるが、彼女が身に纏うものはどれも隙がなく、完璧に洗練されていることだけは素人の僕にも理解できた。

 崩落寸前の赤錆だらけの非常階段という退廃的で無機質な背景と、アンティーク調の日傘をさした彼女の姿。そのコントラストは一枚の恐ろしいほど美しい絵画のようで、僕は一瞬、荷物の重さも暑さも忘れて見惚れてしまった。


 しかし、彼女から放たれているのは、ただの可憐さや優雅さなどではなかった。

 日傘の濃い影に隠された、深く吸い込まれるような紫色の瞳。彼女はその瞳を細め、崩落寸前の非常階段の中腹あたりを、瞬きすら忘れたかのようにジッと見つめていたのだ。

 まるで、そこに隠された世界のバグを睨みつけるように。


 僕が彼女の背中越しに視線を上げると、彼女の視線の先には、赤錆だらけの縦柵に、ありえないほどキツくはめ込まれた『古い数珠』があった。



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