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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 10:純喫茶のメニューと、下僕の奢り~

 月乃劇場の重厚な鉄扉が、背後で鈍い音を立てて閉ざされた。

 一ヶ月後には永遠に開くことのなくなるその扉の向こう側に、祖父の愛した洋食屋の記憶と、無口な映写技師の親友としての思いを静かに残し、僕たちは深夜の旧市街へと足を踏み出した。


 すっかり静まり返った街の空気は、先ほどまでの劇場での濃密な時間をクールダウンさせるように澄み切っている。見上げれば、新市街の強烈なネオンの干渉を受けない旧市街の夜空に、薄ぼんやりと星が瞬いていた。隣を歩く如月さんは、有栖川公仁スタイルのインバネスコートを優雅に着こなし、足元の編み上げブーツで古いアスファルトをコツコツと小気味よく叩きながら進んでいく。


 シャッターの閉まった商店街のアーケードを抜けると、僕たちを待つ迎えの車が、暗がりの中で静かにアイドリング音を響かせていた。


 レトロな旧市街の町並みには到底似つかわしくない、漆黒に塗り込められた巨大なリムジン。如月コンツェルンの専用車である。

 僕たちが近づくのに気づき、運転席のドアが弾かれたように開いた。隙のない威圧感を放つプロフェッショナルであるはずの彼だが、その厳つい顔は現在、信じられないほどにくしゃくしゃに歪んでいた。


「お嬢様……っ! 深夜になっても一向にお戻りになられないので、この黒田、心配で心配で、あわや月乃劇場に強行突入しようかと……ご無事なお姿を拝見できて、感無量でございます……うぅっ」


 筋骨隆々の大男が、車のドアを開けて深々と頭を下げながら、大粒の涙をぼろぼろとこぼして分厚いハンカチを噛み締めている。彼はとにかく、尋常ではないほどに涙もろいのだ。


「騒ぐでない、黒田。鬱陶しいぞ。わしはただ、少々手のかかる不純物のルーツを辿っておっただけじゃ。それに、今日は下僕も連れておるんじゃから、危険などあるはずがなかろう」


「そ、そうは仰られましても……うぅ……お嬢様が休日に同級生の男の子と夜遅くまで……いえ、なんでもございません。ささ、夜露に濡れますゆえ、早く車内へ……!」


 黒田さんは鼻をすすりながら、恭しく後部座席のドアを開け放った。

 如月さんは「大げさな奴じゃ」と小さくため息をつきながら、滑らかな動作でリムジンへと乗り込む。僕も「すみません、遅くなって」と黒田さんに軽く会釈をし、彼女に続いて広々とした車内へと身を沈めた。


 静かにドアが閉まると、外の冷気も、旧市街の微かなノイズも完全に遮断された。

 最高級の防音材とサスペンションを備えたリムジンは、路面の凹凸をまったく感じさせることなく、滑るように夜の街を走り出した。車内は適度な暖房が効いており、本革のシートが優しく身体を包み込んでくれる。緊張で強張っていた僕の筋肉が、じんわりと解れていくのがわかった。


 僕はシートの背もたれに深く寄りかかり、窓の外を流れる旧市街の景色をぼんやりと眺めた。

 オレンジ色の街灯が等間隔に過ぎ去り、時折、24時間営業のコンビニエンスストアの白い光が車内を掠めていく。僕の隣では、如月さんが純白の手袋をゆっくりと外し、膝の上で丁寧に折りたたんでいた。そして、頭に被っていた深いネイビーブルーのクラシカルな中折れ帽を取り、艶やかな漆黒のロングストレートヘアをサラリと揺らした。


「……見事なルーツの解明でしたね、如月さん」


 静寂に包まれた車内で、僕はぽつりと口を開いた。

 どうしても、彼女に伝えておきたいことがあったのだ。


「なんだ、下僕。藪から棒に」


「いや、その……今日、映画館で『群青の館』を観たじゃないですか。有栖川公仁の推理、確かに論理的でかっこよかったですけど……僕は、如月さんの鑑定の方が、ずっとすごいなって思ったんです」


 僕の言葉に、如月さんは不思議そうにアメジストの瞳を向けた。

 僕は膝の上で両手を組み、自分の頭の中で整理された想いを、一つ一つ言葉にしていく。


「映画の探偵は、事件の全貌を暴いて、犯人を警察に突き出します。それが正義だし、物語としては正しいんだと思います。でも、如月さんは違いました。可動式スクリーンマスクの裏側に仕掛けられたステーキ皿のトリックを見破っても、誠也さんを責めたり、警察を呼んだりしなかった」


 映画の中で描かれた、氷の密室トリックと、かつての恋人のための感傷的な復讐劇。

 現実の映画館で起きた、スクリーンマスクの埃の偏りを利用したトリックと、祖父の親友に向けた不器用な恩返し。


「如月さんは、あくまでも『ありえない場所にあったモノのルーツ』を辿っただけだと言いました。対象であるステーキ皿の傷や、油の層、トマトソースの痕跡を読み取って、それが洋食屋の厨房でどれだけ大切に扱われてきたかを解き明かした。そして、それを仕掛けた人間の非合理的で泥臭い行動を、ただ一つの『事実』として受け止めただけだ、と」


 彼女の持つ『物理的観察眼』は、徹底的に冷徹で論理的だ。

 しかし、彼女のもう一つの能力である『情動の視座』は、他人の感情に同調して涙を流すことはないにしても、そこに込められた人間の想いや記憶を、決して否定することなく、正確なデータとしてすくい上げる。


「もし、映画の探偵や警察が誠也さんを見つけていたら、彼は器物損壊や建造物侵入の罪に問われて、支配人との間にあんな温かい時間は生まれなかったはずです。如月さんが、冷たく事実だけを突きつけながらも、そのルーツにある『想い』に寄り添ってくれたから……支配人も誠也さんも、過去を清算して、救われることができたんだと思います」


 僕は、あのステーキ皿を抱きしめて涙を流した支配人と、何度も頭を下げていた誠也さんの姿を思い出しながら、真っ直ぐに如月さんを見つめた。


「『お主らが勝手に救われたのは副産物じゃ』って言ってましたけど……僕は、モノと人のルーツに寄り添う如月さんのその独自の美学、すごくかっこいいと思います。……ただの凡人のオタクが言うのもなんですけど」


 少し熱く語りすぎてしまったかもしれない。僕は気恥ずかしくなり、視線を窓の外へと逸らした。

 車内には、リムジンのエンジン音すら聞こえない深い静寂が数秒間だけ流れた。


 やがて、微かな衣擦れの音がして、如月さんが小さく鼻で笑う気配がした。


「……愚か者め。何を感傷に浸っておるんじゃ」


 彼女の声は相変わらず冷たく、しかし、どこか機嫌の良さを孕んだ柔らかさを持っていた。


「わしは、正義の味方でもなければ、人情派の探偵でもない。ただ、モノに刻まれた物理的な痕跡から、そこに込められた人間の不可解な情動を読み解くことに至上の喜びを感じる、一人の鑑定士に過ぎん。人間という生き物は、時に効率や合理性を完全に無視して、あのような労力に見合わない不器用な行動に出る。その泥臭い不条理さこそが、この世界の面白いところじゃ」


 如月さんはインバネスコートのポケットから、精巧な細工が施された銀の懐中時計を取り出した。カチャリと蓋を弾いて開け、深い紫の瞳を文字盤に落とす。


「善悪で裁くのは警察の仕事じゃ。わしの仕事は、失われたルーツに正しい座標を与えてやること。……それだけのことじゃよ。お主が勝手に感心するのは自由じゃが、わしを美化するのはやめておくことじゃな」


「はいはい、わかってますよ。如月さんはいつだって、自分の興味のあることにしか関心がない、マイペースな天才鑑定士ですからね」


「ふん。分かっておるならよろしい」


 如月さんは懐中時計の蓋を閉じ、再びポケットへとしまった。

 そして、リムジンのゆったりとしたシートに深く背中を預け、長い睫毛を伏せて目を閉じた。


「さて、サクタロウよ」


 不意に、彼女の口から紡がれた言葉に、僕は姿勢を正した。

 普段は僕を『下僕』や『助手』と呼ぶ彼女が、名前を呼ぶ時は、何か明確な要求や指示がある時だ。


「はい、なんでしょうか」


「先ほど、あの劇場のロビーでステーキ皿の鑑定をした時のことじゃ。ルーペ越しに表面を観察しておった時、縁に蓄積された分厚いシーズニングの層と、微かに残るトマトソースの酸化痕の記憶が、わしの五感をひどく刺激してな」


「五感を刺激……?」


「うむ。あの油の層と焦げ跡を見ていたら、空腹になったのじゃ」


 如月さんはゆっくりと目を開け、僕の方を向いて堂々と言い放った。


「24時間営業の純喫茶で、ナポリタンとかためのプリンをいただこうかの」


 僕は思わず、ぽかんと口を開けてしまった。

 先ほどまでの、ルーツと情動についての高尚な議論はどこへ行ったのか。いや、むしろこれが如月瑠璃という人間の真骨頂なのだ。彼女の興味の対象は、常に現実の物理的な現象と、自分の直感に忠実である。


 鉄板焼きナポリタン専用のステーキ皿のルーツを解き明かした結果、自らの胃袋がナポリタンを激しく要求し始めた。極めてシンプルで、かつ抗いようのない論理的帰結である。しかも、彼女の好物である『かためのプリン』までちゃっかりセットに組み込まれている。


「ナポリタンと、プリン……ですか」


「そうじゃ。新市街にあるような、気取ったカフェのパスタではないぞ。旧市街の路地裏にある、ベルベットのソファと琥珀色の照明がある純喫茶で、ケチャップをたっぷり使った昔ながらのナポリタンじゃ。鉄板に乗ってジュージューと音を立てていれば、なおよろしい。黒田、わかっておるな」


「はっ! お嬢様のご期待に沿える、深夜営業の最高の純喫茶へ直行いたします!」


 運転席と後部座席を隔てる防音ガラスの向こう側から、黒田さんの力強い返事がインターホン越しに聞こえてきた。


 僕は小さくため息をつきながら、おもむろに自分のズボンのポケットから二つ折りの財布を取り出した。如月瑠璃という少女は、普段から自分の財布を持ち歩くという概念をそもそも持ち合わせていない。黒田さんがいれば経費として処理されるのだろうが、僕はふと、あることを思いついた。


 財布を開き、中身を確認する。

 数枚の千円札と、小銭が少し。本来であれば、日曜日に新市街の特設会場で開かれる推しの地下アイドル『魚魚ラブ』の限定ポップアップストアで、箱崎彩華ちゃんのランダムアクリルスタンドを買うために残しておいた、なけなしの小遣いだった。しかし、僕は入場枠の抽選に見事に外れ、その資金は手付かずのまま残っていたのだ。


「あの、如月さん。今日の純喫茶、僕に奢らせてください」


「ほう?」


 如月さんは少し驚いたように、アメジストの瞳を丸くした。天下の如月コンツェルンの令嬢が、一介の高校生から奢りの申し出を受けるなど、滅多にあることではない。


「今日の映画のチケットは無料でしたし……そのあとに見せてもらった本物のミステリーと、ちょっとだけ心が温かくなる人間ドラマは、映画のチケット代よりもずっと価値がありましたから。そのお礼です」


「……ふん。下僕の分際で、いっぱしの口を利くようになったではないか」


 如月さんは呆れたように息を吐いたが、その口元には微かに柔らかな笑みが浮かんでいた。


「よかろう。そこまで言うのなら、今日は特別に下僕の奢りを受けてやろう。……ならば、メロンクリームソーダも追加じゃ」


「あはは。メロンクリームソーダですね。承知しました、如月さん」


 茶目っ気たっぷりに付け加えられた注文に、僕は思わず吹き出してしまった。


 窓の外では、月見坂市の旧市街の景色が静かに後方へと流れていく。銀幕に仕掛けられた冷たい鉄板の謎解きは終わり、リムジンの車内には、いつも通りの少し理不尽で、でもどこか心地よい主従関係の空気が戻ってきていた。


 深夜の街を滑るように走るリムジンの中で、僕はこれから出てくるであろう、ケチャップの焦げた匂いがたまらない熱々の鉄板焼きナポリタンと、銀色の器に乗ったかためのプリン、そして鮮やかな緑色のメロンクリームソーダの味を想像した。

 きっと今日の深夜の食事は、いつもよりずっと、美味しく感じるに違いない。



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