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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 9:情動の視座と、不可解で泥臭い理由~

 深夜のメインシアターを包み込んでいたのは、告白を終えた青年の荒い息遣いと、僕がタブレットの画面をタップする無機質な電子音だけだった。


 重さ数キロの鋳鉄の皿を、暗闇の中で脚立に登り、可動式スクリーンマスクの裏側に強力な両面テープで貼り付ける。その一切合切の労力とリスクは、ただ一人の初老の男に、亡き親友からの『お疲れ様』というメッセージを届けるためだけに費やされたのだ。

 映画の中で描かれるような、何億という遺産を巡る陰謀でもなければ、巧妙に計算し尽くされた完全犯罪でもない。あまりにも不器用で、ひたすらに労力ばかりがかかる、ミステリーの犯人らしからぬ泥臭い行動。それが、ありえない場所にあった不純物の正体だった。


 如月さんはインバネスコートの左ポケットから、精巧な細工が施された銀の懐中時計をゆっくりと取り出した。カチャリと蓋を弾いて開け、文字盤を見つめるふりをしながら、彼女は静かに目を閉じた。


 それは、彼女の持つもう一つの能力、『情動の視座』のスイッチが入った合図だった。

 如月瑠璃は、他人の悲しみや怒り、喜びに同調して、共に涙を流したり心を痛めたりすることはない。彼女にとって、人間の感情とはあくまで「現象」であり、解析すべき『データ』に過ぎないのだ。しかし、そのデータに対する解像度は、凡人の僕たちとは比較にならないほど高く、そして正確だった。


 彼女は今、閉ざされた瞼の裏で、誠也という青年がこの劇場の暗闇で一人、重いステーキ皿を抱えて脚立を登った時の心情を読み取っているのだろう。

 祖父を失った悲しみ。親友を失って抜け殻のようになってしまった支配人への痛切な思いやり。そして、自分にはどうすることもできない『時代の終わり』に対する無力感。それらをどうにかして埋め合わせようと必死にもがいた、不器用だが重い、あまりにも重すぎる感謝の念。

 それらの目に見えない複雑なゆらぎを、如月さんは極めて論理的なデータとして、自分の中にダウンロードし、咀嚼していく。


 数十秒の静寂の後、カチャリと懐中時計の蓋が閉じられる音が響いた。

 如月さんがゆっくりと目を開けると、その深く透明なアメジストの瞳には、一切の淀みも、感傷の涙も浮かんでいなかった。あるのは、一つの難解な暗号を解き明かした後のような、純粋で知的な満足感だけだ。


「……下僕よ」


 如月さんはインバネスコートの裾を微かに揺らし、僕の方を振り返った。


「今日、わしたちがこの銀幕で観賞した『群青の館』のラストシーンを覚えておるか」


「はい。犯人のメイドが、かつて人生を狂わされた恋人のために、氷の密室トリックを使って館の主人を毒殺した……悲しい復讐劇でしたね」


「うむ。動機としては非常に分かりやすく、そして映画的で感傷的なまでに美しい理由じゃった」


 如月さんはそこで言葉を区切り、足元にへたり込んでいる誠也を見下ろした。


「しかし、現実の人間の行動原理というものは、スクリーンの中の美しい悲劇のように、すっきりと洗練されているとは限らん。むしろ、その対極にあることの方が多い」


 彼女は再び僕に視線を戻し、わずかに唇の端を吊り上げて、孤高の天才鑑定士としての笑みを浮かべた。


「映画のメイドの復讐よりも、よほど非合理的で、不可解で泥臭い動機じゃ。……だからこそ、人間は面白い」


 その言葉は、映画の感想を語り合った時の彼女自身の言葉――『人間というものは、もっと不可解で泥臭い理由で行動を起こす生き物じゃ』――という批評を見事に回収していた。スマートな密室殺人よりも、不器用な青年の恩返しの方が、如月瑠璃という少女の知的好奇心を遥かに強く刺激したのだ。


 その時だった。

 客席の後方、僕たちが通ってきたロビーへと続く重厚な扉が、ギィッと低い音を立てて開いた。


「誠也くん……本当に、君だったのか……」


 震える声とともに通路の暗がりから現れたのは、初老の劇場支配人だった。

 彼は先ほどロビーで別れた時のままのスリーピースのスーツ姿だったが、その両腕には、如月さんが鑑定を終えてテーブルに残してきたはずの、あの黒く重い『ステーキ皿』がしっかりと抱きしめられていた。


「支配人……!」


 誠也が弾かれたように顔を上げる。

 支配人は、僕たちが外で待ち伏せをしている間、ずっとロビーで一人、あのステーキ皿と向き合っていたのだろう。そして、深夜に忍び込んできた誠也と僕たちの声を聞きつけ、このメインシアターまでやってきたのだ。


 支配人はゆっくりとした足取りで通路を下り、誠也の目の前で立ち止まった。その丸眼鏡の奥の瞳からは、すでに大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。


「先ほど、ロビーでこのお嬢さんの推理を聞いてから……私はずっと、考えていたんだ。なぜ、マカロニの親父さんの皿が、あんな劇場のスクリーンの裏に隠されていたのか。……そして今、君の話を聞いて、ようやくすべてが繋がったよ」


 支配人は、両腕に抱えた冷え切ったステーキ皿を、まるで赤子をあやすように優しく撫でた。


「あの小窓から……この劇場で一番見晴らしのいい映写室の小窓から、私はいつも親父さんが岡持ちを提げて歩いてくるのを待っていた。映画が終わって、客席の明かりが点き、幕が全開になった瞬間……私の真正面に、親父さんのナポリタンが現れる。君は、私にその景色を見せてくれようとしたんだね」


「すみません、支配人……。僕、余計なことをして。ただでさえ閉館で辛い時に、劇場のスクリーンを汚すような真似を……」


 誠也は顔を歪め、ボロボロと涙をこぼしながら頭を下げた。

 しかし、支配人は首を横に振った。そして、膝をついて誠也の肩にそっと手を置いた。


「謝るのは私の方だ、誠也くん。親父さんが亡くなってからというもの、私は自分の殻に閉じこもり、君たち若いスタッフにまで心配をかけてしまっていた。……ありがとう。君がこの皿をあそこに掛けてくれたおかげで、私は今日、久しぶりに親父さんの『お疲れさん』という声を聞いた気がするよ」


 支配人の目からこぼれ落ちた熱い涙が、冷え切った鋳鉄のステーキ皿の表面にポタリと落ちた。

 ジュッ、という音は当然しない。しかし、分厚く重合した油の層と、微かに残るトマトソースの酸化痕に染み込んだその涙は、確かにかつての熱々の鉄板焼きナポリタンの幻影を、二人の間に立ち上らせていた。


 何十年も旧市街の胃袋を満たし続けてきた小さな洋食屋。

 そして、昭和の時代から人々に夢を与え続けてきた古びた映画館。

 二つの失われゆく場所の記憶が、一枚の不恰好な鉄板を介して、静かに、そして温かく交差した瞬間だった。


「お嬢さん、そして少年も。本当にありがとうございました」


 支配人は立ち上がり、ステーキ皿を胸に抱いたまま、如月さんと僕に向かって深く、深く頭を下げた。誠也もまた、涙を拭いながら立ち上がり、僕たちに向かって深々と一礼する。


「君たちがこの皿の傷や汚れから、ルーツを見つけ出してくれなければ……私は、誠也くんの不器用な優しさにも、親父さんからの最後のメッセージにも、一生気づくことができなかった。こんな奇跡を起こしてくれて、なんとお礼を言えばいいか……」


 感極まった支配人の言葉に、僕はどう返していいか分からず、ただタブレットを抱えたまま曖昧に微笑むことしかできなかった。誰かの心を救う探偵の助手になれたような気がして、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


 しかし、僕の隣に立つ孤高の天才鑑定士は、そんなお涙頂戴の空気に流されるようなヤワな精神構造は持ち合わせていない。


 如月さんは純白の手袋のシワを優雅な所作で伸ばし、ピシャリと冷たい声で告げた。


「勘違いするでない」


 その言葉に、支配人と誠也がハッとして顔を上げる。

 如月さんは、インバネスコートのケープを翻し、踵を返して出口の方へと歩き出した。彼女は振り返ることもなく、ただ事実だけを淡々と述べる。


「わしは、ありえない場所にあったありえない不純物の、物理的なルーツを辿っただけじゃ。お主らがその結果を受け取って、勝手に過去を清算し、勝手に救われたのは、わしの目的とは何の関係もない。……ただの副産物じゃ」


 あまりにも冷徹で、取り付く島もない言葉。

 しかし、彼女が通路を数歩進んだところで、ふと足が止まった。


 如月さんは肩越しに少しだけ振り返り、支配人の胸に抱かれたステーキ皿へとアメジストの瞳を向けた。その瞳の奥には、モノのルーツに対する確かな敬意が宿っていた。


「……だが、この皿は確かに、最後の配達を終えたようじゃな」


 ぽつりと残されたその言葉は、冷たい夜風の中に溶けるように、しかし確かな温もりを持って劇場の空間に響き渡った。


 それは、如月瑠璃なりの、役目を終えたモノたちへの最大限の賛辞だった。

 支配人と誠也は、遠ざかっていく彼女の小さな背中を見つめながら、もう一度だけ、深く、静かに頭を下げるのだった。



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