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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 8:祖父の特製ランチと、無口な映写技師~

 深夜の月乃劇場は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、広大な空間がまるで一つの巨大な生き物の胎内のように感じられた。客席の間の通路にへたり込んだ清掃員の青年、誠也は、自身の仕掛けたトリックを完璧に暴き立てたインバネスコート姿の少女を見上げ、ゆっくりと重い口を開いた。


「君の言う通りだ。あのステーキ皿は、数年前に亡くなった僕の祖父のものだよ」


 誠也の口からポツリポツリと語られ始めたのは、スマートシティとして無機質かつ合理的に進化していく月見坂市の中で、ひっそりと息づいていた、古き良き旧市街のささやかな歴史だった。


 僕は背負っていた鞄からタブレット端末を取り出し、暗闇の中で青白く光る画面にスタイラスペンを走らせる。如月さんは腕を組み、純白の手袋に包まれた指先で自身の二の腕を軽く叩きながら、アメジストの瞳で青年を静かに見下ろしていた。彼女は急かすことも、同情めいた言葉をかけることもしない。ただ、対象のルーツを正確なデータとして収集するために、冷徹な観察者としての態度を崩さなかった。


「僕の祖父は、この旧市街の商店街で『キッチン・マカロニ』という小さな洋食屋を営んでいた。頑固で、口下手で、でも料理には絶対に妥協しない昔気質の料理人だったんだ。そして……この月乃劇場の現在の支配人は、若い頃からこの劇場で映写技師として働いていて、祖父とは数十年来の無二の親友だった」


 誠也は薄暗いステージの方へ視線を向けながら、過去の光景を思い描くように語り続けた。


「昔の映画館は、今みたいにデジタル化されていなかったから、フィルムの掛け替えやピントの調整、機材の熱暴走の監視なんかで、映写技師は一日中あの狭い映写室にこもりきりにならなきゃいけなかったんだ。食事に行く暇もないくらいにね。だから、じいちゃんは毎日昼時になると、店が一番忙しい時間帯にも関わらず、特製の鉄板焼きナポリタンを作って、わざわざこの劇場まで出前を届けていたんだよ」


 その出前のために特別に用意され、支配人のためだけに使われ続けていたのが、ロビーの大理石のテーブルに残してきた、あの「特等席の皿」だったというわけだ。如月さんがステーキ皿の表面から読み取った、油の層の均一さや特定のコンロで熱せられた摩耗痕は、この祖父の毎日の日課によって刻み込まれた物理的な記憶だった。


「支配人は、映画の上映中、ずっとあの高い映写室の小窓からスクリーンと客席を見下ろしていた。じいちゃんがナポリタンを届けに来る時間になると、支配人はいつもあの小窓から外の通りを覗いて、じいちゃんが岡持ちを下げてやって来るのを待っていたんだって。二人とも無口だったから、気の利いた会話なんてしてなかったみたいだけど……あの鉄板の上でジュージューと音を立てるナポリタンが、二人の親友としての絆そのものだったんだと思う」


 誠也の言葉を記録しながら、僕の脳裏には、若き日の支配人と、白いコックコートを着た祖父の姿が鮮明に浮かび上がっていた。

 しかし、その温かい日常は数年前、祖父の急死によって唐突に終わりを告げることとなる。


「じいちゃんが心不全で倒れて、そのまま帰らぬ人になった。後を継ぐ人間もいなかったから、キッチン・マカロニは閉店し、厨房の道具たちは行き場を失った。僕は遺品整理の時に、あのナポリタンの皿だけはどうしても捨てられなくて、こっそり持ち帰って保管していたんだ」


 親友を失い、毎日の温かい昼食と無言の交流を失った支配人の喪失感は、計り知れないものだっただろう。


「じいちゃんが死んでから、支配人はすっかり元気をなくしてしまった。急に老け込んだというか……いつも寂しそうに、劇場のロビーや客席をうろうろするようになったんだ。それに追い打ちをかけるように、この劇場の閉館が決まった。時代の流れとはいえ、支配人にとっては自分の人生のすべてだった場所がなくなるんだ。最近の彼は、まるで魂が抜けたみたいになってしまって、昼飯もろくに喉を通らないようだった」


 誠也は作業着のズボンの膝をぎゅっと握りしめた。


「僕は、深夜の清掃バイトとしてここに出入りするようになって、残された時間をただ悲しそうに過ごす支配人の姿を見るのが、たまらなく辛かったんだ」


 誠也の声が、微かに震える。それは同情や哀れみではなく、祖父の親友に対する、痛切なまでの思いやりだった。


「だから、僕は……じいちゃんの代わりに、支配人に『お疲れ様』って伝えたかった。長年この旧市街の劇場を守り続けてきた彼に、じいちゃんからの労いのメッセージを届けたかったんだ。でも、ただ言葉で伝えるだけじゃ駄目だと思った。あのナポリタンの皿を普通に箱に入れて手渡すだけでも、じいちゃんの想いは伝わりきらない気がしたんだ」


 その瞬間、如月さんが静かに口を開いた。


「だからといって、あの重い鋳鉄の皿を、わざわざスクリーンの死角に貼り付けるという暴挙に出たわけか」


「……ああ、そうだ」


 誠也は顔を上げ、劇場の最後方にある高い壁……暗闇に沈む映写室の小窓を見上げた。


「支配人が一番長く、一番深い思い入れを持って見つめ続けてきた場所。そして、じいちゃんが来るのを毎日待ち望んで覗き込んでいたあの窓。……だから僕は、映画の幕が全開になった瞬間、支配人の目線の真正面に、じいちゃんの皿が現れるようにしたかったんだ。かつて、毎日昼時に熱々のナポリタンが届いた時のように、『今日もご苦労さん』っていうじいちゃんの声が、あの皿を通して支配人に届くような気がして……」


 僕はタブレットに誠也の言葉を打ち込みながら、その行動の異常性と、そこに込められた感情の重量に完全に圧倒されていた。


 重さ数キロもある分厚い鋳鉄のステーキ皿。それを傷つけないように強力な工業用両面テープで加工し、深夜の暗闇の中で、高さ数メートルもある不安定な脚立に登ってスクリーンに貼り付ける。

 もしテープの粘着力が弱ければ、重い鉄板は落下し、高価なスクリーンを破り、最悪の場合は真下にいる人間を傷つけてしまう大惨事になりかねない。もし誰かに見つかれば、器物損壊や業務妨害で即座に警察沙汰だ。さらに、可動式スクリーンマスクの引き出される長さをミリ単位で計算し、上映中は完全に隠れ、かつ収納された瞬間に全貌を現すように配置しなければならない。


 たった一人の人間に、亡き親友からの「お疲れ様」というメッセージを届けるためだけに、彼は清掃員という立場を利用して、そんな途方もないリスクと労力を背負い込んだのだ。

 今日観賞した映画『群青の館』の中で、犯人のメイドが恋人のために仕掛けた『氷の密室トリック』は、極めて洗練されていてスマートな復讐劇だった。しかし、目の前にいるこの青年が仕掛けた現実のトリックは、泥臭く、不器用で、ひたすらに労力ばかりがかかる、およそミステリーの犯人らしからぬ行為である。


「……愚鈍じゃな」


 如月さんの冷たく澄んだ声が、劇場の闇に響いた。

 彼女は誠也を蔑んでいるわけではない。ただ、極めて純粋な物理的、論理的観点から、その事象の不条理さを評価しているだけだ。


「労力とリスクに対するリターンが全く見合っておらん。直接言葉で伝え、皿を手渡せば数秒で済むものを、わざわざ可動式スクリーンマスクの構造を利用し、死角を計算し、重力を無視して高所に鉄板を固定するなど……非合理的にも程がある」


 如月さんの指摘に、誠也は力なく笑った。


「そうだよな……君の言う通りだ。冷静に考えれば、本当に馬鹿げた行動だったと思う。でも、あの時の僕は、どうにかして支配人を励ましたくて、じいちゃんがそこにいるような奇跡を起こしたくて……必死だったんだ」


 青年は肩を落とし、すべての真実を吐き出して虚脱状態に陥っていた。

 しかし、如月さんは彼を責めるようなことは言わなかった。彼女は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


 彼女の持つ『情動の視座』。

 他人の悲しみや喜びに共感して同じように涙を流すことはない。しかし、その非合理的な行動の裏にある『不器用だが重い感謝の念』や『死者への哀悼』といった極めて人間臭い感情のうねりを、彼女は精密なデータとして正確に読み取っていた。


「人間という生き物は、時にその非合理性を『意味』や『想い』と呼んで尊ぶ。……お主のその不器用すぎる行動は、まさにあの冷え切ったステーキ皿に熱を与えた、情動のルーツそのものじゃ」


 如月さんが目を開けた時、そのアメジストの瞳の奥には、不可解で泥臭い人間の行動原理に対する、ある種の知的な満足感が満ちていた。

 映画のスマートな動機とは対極にある、労力に見合わない不器用な恩返し。それこそが、ありえない場所にありえないモノが存在した、すべての理由だったのだ。



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