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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『球体と腐敗』 ~section2:冷たい紅茶と、二つ目の欠片~

 如月弦十郎が、警視庁トップである津嘉山との会談へ向かうため専用エレベーターに乗り込んだ後、如月瑠璃は広大で無機質なエントランスホールに一人残った。

 チリ一つなく磨き上げられた大理石の床には、慌ただしく行き交う制服姿の警察官や、ダークスーツに身を包んだ刑事たちの足音が絶え間なく響いている。完璧に空調が管理された空間は、人間の体温や汗の匂いすらも瞬時に濾過し、どこまでも無臭で冷ややかだった。


 その徹底的にノイズを排除した灰色の空間において、瑠璃が身に纏う深い赤色のゴシックドレスは、まるで一滴の鮮血が落ちたかのように強烈な異物感を放っていた。

 幾重にも重なる深紅のフリルと、繊細な黒いレースの装飾。漆黒の艶やかなロングストレートヘアを揺らしながら歩く小柄な美少女の姿に、すれ違う者たちは一様に目を奪われる。そして彼女が放つただならぬ威圧感と、胸元に光る如月コンツェルンの特別入館証を見て、そそくさと視線を逸らしていくのだった。

 だが、瑠璃にとって他人の視線や評価など、路傍の石ころ以下の価値しか持たない。彼女の明晰な脳内はすでに、ドレスの隠しポケットに収められた『四分の一の青い球体』のことで完全に占められていた。


(……さて。じいじの退屈な会談が終わるまで、まだたっぷりと時間はあるのう)


 瑠璃は足を止め、ホール全体をぐるりと見渡した。

 先ほど、受付カウンターの足元、巨大な観葉植物の鉢植えの陰という絶妙な死角で拾い上げたスーパーボールの欠片。それは刃物による滑らかな切断ではなく、凄まじい物理的圧力によって『引き千切られた』痕跡を残していた。

 縁日の屋台などで見かけるようなありふれた子供の玩具が、なぜ警視庁という厳格な場所に、しかもあのような歪な形で落ちていたのか。


 月見坂市は、新市街を中心にAIネットワークで完璧に管理されたスマートシティである。当然、この警視庁の中枢部も例外ではない。清掃ドローンが二十四時間体制で巡回し、微細なゴミひとつ見逃さないこの庁舎内で、あのような不純物が偶然何日も放置されることなどあり得ないのだ。

 つまり、あの青い欠片は、つい先ほど、誰かが意図的にあの死角へ『配置した』か、あるいは何らかのっぴきならない事情で『落としてしまった』かのどちらかだ。そして欠片が四分の一のサイズである以上、残りの四分の三も、この庁舎内のどこかに散らばっている可能性が極めて高い。


(少し、喉が渇いたの。頭を整理するためにも、どこか座れる場所を探すとしよう)


 瑠璃は思考を一旦区切り、天井に設置された電子案内板を見上げた。

 スマートシティの中枢らしく、案内板は空中にホログラムで立体的に表示されている。瑠璃はその中から、庁内に併設されている職員用の食堂の文字を見つけ、ゆっくりと歩き出した。

 深紅のドレスの裾がふわりと翻り、大理石の床に硬質な靴音が規則正しく響く。


 警視庁の食堂は、休日の朝ということもあってか、思いのほか閑散としていた。

 いくつかのアクリル板で仕切られた無機質な白いテーブルと、実用性のみを追求したパイプ椅子が等間隔で並んでいる。奥にはAI制御の自動配膳システムと、タッチパネル式の券売機が設置されていた。

 瑠璃の嗜好は、かためのプリンやクリームメロンソーダ、ケチャップがたっぷりと絡んだナポリタン、あるいは黄金色の美しいオムライスといった、古き良き喫茶店のメニューにある。しかし、この堅苦しく実用性第一の警察の食堂に、そのようなハイカラで心躍るような代物があるはずもなかった。

 ホログラムのメニューに並ぶのは、カロリー計算が徹底された栄養補助定食や、効率よくエネルギーを摂取するための大盛りカレーライス、そして味気ない飲料ばかりだ。


(まったく、これだから頭の固い大人たちの集まる場所は嫌いなのじゃ。食のルーツや、見た目の美しさに対する敬意というものが微塵も感じられん)


 瑠璃は内心で小さく毒づきながら、妥協して食券機で『アイスティー』のボタンをタップした。

 数秒後、配膳口からプラスチックのグラスに入ったアイスティーが、自動トレイに乗って滑り出てくる。氷がカランと無機質な音を立てた。


 瑠璃はトレイを受け取ると、食堂内を見渡し、適当な空席を探した。

 選んだのは、窓際の、少し奥まった場所にあるテーブルだ。庁内の様子を観察しやすく、かつ背後を取られない位置。そこを選んだのは無意識の行動だったが、あるいは彼女の持つ特異な嗅覚——不純物のルーツを嗅ぎつける本能が、その場所を明確に指し示していたのかもしれない。


 瑠璃はテーブルの前に立ち、真っ白な鑑定用の手袋を嵌めた両手で、安っぽいパイプ椅子の背もたれを掴んだ。

 そして、腰を下ろそうと、スッと手前に椅子を引いた。


 その瞬間——瑠璃の動きが、彫像のようにピタリと静止した。


(……ほう?)


 瑠璃の美しい顔に、微かな驚きが走った。

 引いたパイプ椅子の、座面のど真ん中。

 そこに、見覚えのある鮮やかな青色が、まるで最初からそこにあるのが当然であるかのように、堂々と鎮座していたのである。


 瑠璃はアイスティーの乗ったトレイを静かにテーブルへ置くと、その青い物体を覗き込んだ。

 間違いない。先ほど受付カウンターの下の死角で見つけたものと全く同じ材質、同じ色のゴムの塊だ。表面の滑らかな湾曲具合も、元の球体の四分の一程度の大きさであるという質量も完全に一致している。


 瑠璃は深い赤色のドレスのポケットから、ハンカチに包んでおいた『最初の欠片』を取り出した。

 そして、真っ白な手袋の指先で、椅子の座面にあった『二つ目の欠片』を慎重に摘まみ上げる。ゴム特有の僅かな摩擦感と反発力が、薄手の手袋越しにもはっきりと伝わってきた。


(さて……見立て通りにいくかの)


 瑠璃は二つの欠片を目の高さに並べ、もう一方の手でポケットから愛用の銀のルーペを取り出した。

 冷たい蛍光灯の光の下、レンズ越しに二つの欠片の断面を詳細に観察する。

 刃物で切断されたものではない、凄まじい物理的圧力によってむしり取られた、複雑で歪なささくれの痕跡。ゴムの分子レベルでの断裂の形状。

 瑠璃は呼吸を潜め、二つの欠片の複雑な凹凸を、パズルのピースを合わせるようにゆっくりと近づけていく。


 ——ピタリ。


 一切の抵抗もなく、二つの欠片は見事に噛み合った。

 強烈な圧力によって引き千切られた断面同士が、寸分の狂いもなく融合し、一つの半球体を作り出したのである。

 これで、四分の二。元のスーパーボールの半分が構成されたことになる。


(……偶然の産物ではあり得んな。これは間違いなく、同一の個体から千切れたものじゃ。しかも……)


 瑠璃は深く息を吐き、アメジストの瞳を細めて、二つの欠片が合わさった半球体を凝視した。

 彼女の冷徹な論理思考が、急速に回転を始める。

 受付カウンターの下という「清掃ドローンのセンサーすら掻い潜る死角」に隠されていた最初の欠片。

 それに対し、この二つ目の欠片はどうだ。食堂のパイプ椅子の座面という『誰もが必ず目にする場所』、引けば絶対に気がつく位置に、あえて堂々と置かれていた。


 明らかにおかしい。

 もし、このスーパーボールを引き千切るような真似をした人間が、証拠隠滅のために欠片を落としたのだとすれば、一箇所は死角、もう一箇所は目立つ場所という矛盾した行動をとるはずがない。パニックになって無作為に落としたにしては、椅子の座面のど真ん中という配置はあまりにも不自然だ。床に転がっているならまだしも、座面に自ら跳ね上がって静止することなど、物理法則上あり得ないのだから。


 つまり、これは『配置』だ。

 誰かが、明確な意図を持って、この二つの場所に欠片を置いたのだ。

 あえて異なる見つけやすさの場所に欠片を散らばせることで、それを見つける人間の観察眼や思考力を試している。あるいは、特定の誰かに対する強烈なメッセージ、見せしめとして配置されたとしか考えられない。


(……面白い)


 瑠璃の唇に、確かな歓喜の笑みが浮かんだ。

 これまでの彼女の鑑定願は、過去の持ち主が残した想いや、長い時の流れが作り出したルーツを辿るものがほとんどだった。すでに起きてしまった過去の事象を、冷徹に逆算していく作業。

 しかし、目の前にあるこの青い不純物は違う。

 現在進行形で、誰かが明確な意図と悪意、あるいは冷徹な計算を持って配置した『現在進行形の謎』だ。

 警視庁という、この街で最も厳重に管理されたスマートな空間で、無数にある監視カメラの目すら欺いて、このような稚拙な玩具をわざわざ分割し、配置して回る者がいる。


(残りの欠片は二つ。さて、その挑戦、受けて立とうではないか)


 瑠璃は二つの欠片を丁寧に引き離し、再びハンカチに包み直すと、ドレスの深いポケットの底へと仕舞い込んだ。

 そして、先ほど欠片が置かれていたパイプ椅子に、音もなく優雅に腰を下ろす。

 テーブルの上には、プラスチックのグラスに入ったアイスティーが置かれている。氷が溶け出し、グラスの表面には無数の水滴が浮かんでいた。


 瑠璃は真っ白な手袋を嵌めた両手でグラスを包み込むように持ち上げると、ストローを使わず、直接口をつけた。

 喉を通る液体は、彼女が普段如月邸で嗜んでいる最高級の茶葉を用いた紅茶とは比べるべくもない、大量生産された安価で渋みの強い味だった。しかし、瑠璃はその冷たい液体を、時間をかけて最後の一滴まで静かに飲み干した。


 氷だけが残ったグラスをトレイに戻し、瑠璃はふっと息を吐いた。

 渇きは潤された。そしてそれ以上に、未知のルーツに対する極上の渇望が、彼女の全身の細胞を粟立たせている。


 瑠璃は深紅のドレスを翻し、パイプ椅子から立ち上がった。

 誰が、どのような目的で、どのような強大な物理的圧力を利用してこのスーパーボールをバラバラにし、庁内のあちこちに配置したのか。


(さあ、次の不純物はどこに身を潜めておるのかのう)


 アメジストの瞳に冷徹な知の光を宿し、如月瑠璃は再び、無機質な廊下へと颯爽と歩みを進めた。



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