第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 7:深夜の清掃員と、不器用な恩返し~
錆びついた蝶番の微かな摩擦音とともに、重厚な鉄扉がゆっくりと閉ざされた。
深夜の月乃劇場。従業員専用の通用口から内部へと侵入した僕たちを包み込んだのは、昼間の賑わいが嘘のような、ひんやりとした静寂と深い暗闇だった。足元には古いリノリウムの床が広がり、空気には長年蓄積された床ワックスの匂いと、日中に売店で弾けていたポップコーンの微かな残り香が漂っている。
暗闇の中、僕は心臓が肋骨を突き破りそうなほどの早鐘を打っているのを感じていた。
一ヶ月後に閉館を迎えるとはいえ、ここは立派な商業施設だ。深夜の無人の建物に忍び込むなど、ただの高校一年生である僕にとっては完全にキャパシティを超えた非日常のサスペンスである。しかし、僕の数歩前を歩く如月さんは、まったく恐れや緊張を感じていないようだった。
彼女はインバネスコートの裾を微かに揺らしながら、迷いのない足取りで暗い廊下を進んでいく。純白のブラウスと、手に嵌められた汚れ一つない滑らかな手袋だけが、闇の中でぼんやりと白く浮かび上がっていた。彼女の足元、丁寧に磨き上げられた焦げ茶色の編み上げ革ブーツは、不思議なことに足音をほとんど立てない。
「サクタロウ。足音がうるさいぞ。もっとつま先に重心を置け」
振り返りもせずに小声で発せられた如月さんの指摘に、僕は慌ててスニーカーの歩き方を修正した。彼女の研ぎ澄まされた五感は、暗闇の中でも僕のわずかな挙動の乱れを正確に把握しているらしい。
僕たちは劇場のロビーを抜け、一番大きなスクリーンがあるメインシアターの扉の影に身を潜めた。
やがて、客席の奥にある通路の天井灯が、チカチカと蛍光灯特有の瞬きを伴って点灯した。冷たく白い光に照らされた通路の向こうから、キャスター付きの清掃用カートを押す音が近づいてくる。バケツの中でモップの柄が揺れ、カチャカチャと無機質な音を立てていた。
現れたのは、先ほど外で自転車から降りた青年だった。
地味なグレーの作業着に身を包み、手にはゴミ袋の束を持っている。少し猫背気味に歩くその姿は、タブレットで確認した洋食屋の厨房にいた『誠也』の面影と完全に一致していた。彼は鼻歌交じりにカートを押し、客席の間の通路へと足を踏み入れようとした。
その瞬間だった。
如月さんが扉の影から音もなく滑り出た。インバネスコートのケープが美しい弧を描き、彼女は誠也の進行方向を完全に塞ぐように、通路の中央に立ちはだかった。
「なっ……!?」
突然暗がりから現れたクラシカルな装いの美少女に、誠也は文字通り飛び上がって驚いた。手からゴミ袋の束が滑り落ち、バサリと鈍い音を立てて赤いベルベットの絨毯に散らばる。
「だ、誰だ! 君たち、どうしてここに……! 営業時間外だぞ! 警察を呼ぶからな!」
誠也は後ずさりしながら、ポケットのスマートフォンに手を伸ばそうとした。しかし、如月さんは一歩も動かず、深く透明なアメジストの瞳で青年を真っ直ぐに射抜いた。
「警察を呼ぶのは構わんが、その前に答えてもらうことがある。……昨夜、この劇場の銀幕に仕掛けた不純物についてじゃ」
その冷たく凛とした声は、劇場の静寂を切り裂き、誠也の動きを完全に縫い留めた。
「な、なんのことだか分からないな。僕はただの清掃員だ。君たちみたいな勝手に入り込んだ子供の相手をしている暇は……」
「愚鈍な言い逃れはよせ。お主が『キッチン・マカロニ』の特等席の皿を、可動式スクリーンマスクの裏側に仕掛けた張本人であることは、すでに物理的証拠によって証明されておる」
如月さんは純白の手袋で覆われた右手をスッと持ち上げ、ステージ上の巨大なスクリーンを指し示した。
「わしは今日、あのスクリーンで『群青の館』を観賞した。そして上映終了直後、スクリーンマスクが全開に収納された瞬間に、突如として銀幕の左上に出現したステーキ皿の存在をこの目で確認したんじゃ」
誠也の顔から、さっと血の気が引くのが分かった。彼は何か反論しようと口を開きかけたが、如月さんの論理の刃はすでに彼の急所を捉えていた。
「あの重い鋳鉄の皿は、完全に室温と同じ温度まで冷え切っておった。それは、あの鉄板が数時間以上前からあの場所に存在していたことを示しておる。そして、強力な工業用両面テープによる接着。そのような大掛かりな細工を誰にも見られずに行えるのは、営業時間外にこの劇場を自由に歩き回れるお主のような人間だけじゃ」
「だ、だからって、僕がやった証拠には……」
「証拠ならある」
如月さんはインバネスコートのポケットから銀のルーペを取り出し、カチャリと展開した。
「有栖川公仁の『灰の偏り』と同じじゃ。お主が細工を施したスクリーンの左側……黒ベルベットの幕の端には、極めて不自然な埃の偏りと、何かが強く擦れた摩擦痕がはっきりと残っておった」
誠也の肩が、びくりと大きく跳ねた。
「お主は昨夜の清掃業務中、幕が『収納された状態』のスクリーンの左端に、あのステーキ皿を貼り付けた。そして今日の開演前、画面サイズに合わせて幕が引き出された時、黒いベルベットはステーキ皿の上に被さるように移動し、それを完全に死角へと隠した。上映中に影が落ちなかったのはそのためじゃ。しかし、映画が終わり、幕が再び収納される際、裏側がステーキ皿に強く擦れてしまった。その物理的な痕跡が、お主の仕掛けた劇場型トリックのすべてを雄弁に物語っておる」
息継ぎすら感じさせない、冷徹で完璧な論理の構築。
それは、今日スクリーンの中で見た名探偵の推理よりも遥かに鋭く、現実の重みを持って誠也を追い詰めていた。
僕は如月さんの隣に並び立ち、手に持ったタブレット端末の画面を誠也に向けた。
そこには、五年前に更新されたローカルブログの記事と、厨房でエプロン姿の彼が写っている写真が表示されていた。
「小鳥遊誠也さん、ですよね。旧市街にあった洋食屋『キッチン・マカロニ』の店主のお孫さん。あのステーキ皿にこびりついていた油の層とトマトソースの酸化痕は、あれが鉄板焼きナポリタン専用として、とても大切に使い込まれてきた道具であることを証明していました」
僕の言葉を聞き、誠也は観念したように深く目を閉じた。
彼の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと切れたのが分かった。清掃用カートのハンドルを握る彼の手から力が抜け、そのままずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。
「……すごいな、君たち。本当に、映画の探偵みたいだ。……そうだよ。僕がやったんだ。昨日の夜、清掃が終わった後に脚立を持ち出して、じいちゃんの店のステーキ皿をあそこに貼り付けた」
誠也の口から漏れたのは、言い逃れのできない完全な自白だった。
彼は両手で顔を覆い、深い深いため息をついた。それは昼間、あのステーキ皿を見た時に劇場支配人がこぼしたため息と、どこか似た響きを持っていた。
「わかってる。いくら廃館が決まっているとはいえ、劇場のスクリーンに勝手に物を貼り付けるなんて、器物損壊や業務妨害で訴えられても文句は言えない。……警察に、突き出すのかい? それとも、支配人に報告するつもりか」
誠也は顔を上げ、怯えと諦めの混じった瞳で僕たちを見上げた。
彼はおそらく、自分を追い詰めたこの見ず知らずの少年少女が、正義感に駆られて悪事を暴きに来たのだと思っているのだろう。映画の中で、犯人を容赦なく警察へと引き渡す探偵たちのように。
しかし、僕の隣に立つ如月瑠璃という少女は、世間一般の正義や倫理といったものに全く興味がない。彼女の行動原理は、ただ純粋な『ルーツの探求』のみなのだ。
如月さんはインバネスコートのポケットに銀のルーペをしまい、静かに、しかし冷徹な声で告げた。
「勘違いするな。わしは警察でもなければ、映画に出てくるような正義の探偵でもない」
彼女のアメジストの瞳が、暗がりの中で誠也の顔を真っ直ぐに見据える。
「わしは、ありえない場所にあったあの特等席の皿の『ルーツ』が知りたいだけじゃ。あの重い鉄板を、強力なテープを使ってまでスクリーンの高い位置に仕掛けるなど、労力に見合わない極めて非合理的な行動じゃ。それも、わざわざ幕が開いた時に現れるような回りくどいトリックを用いてな」
如月さんは一歩だけ誠也に近づき、純白の手袋で彼の目線の高さにある空間を指し示した。
「そして何より不可解なのは、あの皿が配置されていた座標じゃ。観客席からは見えにくく、しかし、劇場の最後方にある『映写室の小窓』から見下ろした時には、視界の真正面に飛び込んでくる位置。……お主は、あの映画が終わった瞬間に、映写室にいるであろう支配人ただ一人に向けて、あのナポリタンの皿を見せつけたかった。そうじゃな?」
誠也は弾かれたように顔を上げ、驚愕の表情で如月さんを見つめた。
自分が密かに企てた、誰にも気づかれるはずのなかった不器用なメッセージの意図までを、目の前の少女が完全に見透かしていることに衝撃を受けているようだった。
「なぜ、そんな非合理で泥臭い真似をした。お主の祖父の洋食屋と、この月乃劇場の支配人との間に、一体過去に何があったんじゃ。……その冷え切った鉄板が本来持っていた熱について、ここで全てを語るがよい」
それは尋問ではなく、モノのルーツを解き明かすための絶対的な要求だった。
如月瑠璃の持つ『物理的観察眼』が外堀を完全に埋め、今まさに彼女の『情動の視座』が、誠也の心の奥底にある不可解な動機へと真っ直ぐに手を伸ばそうとしていた。
深夜の静まり返った劇場で、誠也はゆっくりと口を開き、すでに失われた洋食屋と、一ヶ月後に失われる映画館を繋ぐ、一つの過去を語り始めた。




