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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 5:かつての特等席と、映写室の窓~

 大理石のテーブルの上に置かれた冷え切ったステーキ皿は、如月さんの手によって【特定の誰かのための特等席の皿】という、温かな血の通った輪郭を獲得した。ただの不気味な不純物から、誰かの愛着と記憶が染み込んだ大切な道具へと、その見え方は劇的に変化したのである。


 しかし、ルーツの半分が解明されたところで、残りの半分……すなわち『誰が』『なぜ』この映画館のスクリーンに、しかも上映終了と同時に幕の裏から現れるような回りくどい物理トリックを用いてまでそれを仕掛けたのかという謎は、依然として深い霧の中に沈んだままである。


「サクタロウ。お主の出番じゃ」


 如月さんはインバネスコートのポケットに純白の手袋をはめた両手を仕舞い込み、大理石のテーブル越しに僕を見据えた。


「その板切れを使って、洋食屋『キッチン・マカロニ』の過去の記録を洗い出せ。個人経営の小さな食堂とはいえ、何年も旧市街で営業していたのであれば、このスマートシティ化された月見坂市において完全にデジタルな足跡が消えることなどありえん。客の誰かが残した文字、写真、あるいは映像の断片……情報の海からそれらをかき集め、この皿を手入れしていた『誰か』の正体を特定するんじゃ」


「わかりました。やってみます」


 僕は力強く頷き、手にしていたタブレット端末の画面を切り替えた。

 如月さんはデジタル機器を極端に嫌い、すべての事象を自らの五感とアナログな道具だけで解明しようとする。だからこそ、ネットワーク空間の探索やAIを用いた情報処理は、僕という『助手』に与えられた最も重要な役割であり、唯一彼女の役に立てる領域でもあった。


 僕は月見坂市のローカルネットワークに接続し、自作の検索アルゴリズムを走らせた。検索窓に『キッチン・マカロニ』『月見坂市旧市街』『鉄板焼きナポリタン』といったキーワードを入力し、過去十年分のウェブアーカイブ、ローカルなグルメブログ、さらにはSNSに投稿された位置情報付きの画像データまで、あらゆる情報を片っ端からスクレイピングしていく。


 新市街のような最新スポットであれば、検索結果は一瞬にして数万件ヒットするだろう。しかし、ネットリテラシーの低い住人が多く、開発から取り残された旧市街の小さな洋食屋となると、極端にデータ量が少ない。ノイズを除去し、断片的な情報を繋ぎ合わせる作業には、AIの補助だけでなく僕自身の手動によるフィルタリングが必要だった。


 数分間、ロビーには僕がタブレットの画面を高速でタップし、スワイプする微かな摩擦音だけが響いていた。如月さんは急かすこともなく、ただ静かに目を閉じ、テーブルの上のステーキ皿から発せられる微かな匂いや温度の残り香を、その研ぎ澄まされた五感で分析し続けている。


「……如月さん、見つけました。これを見てください」


 やがて、情報の海の底から一つの確かな手がかりを釣り上げた僕は、タブレットの画面を彼女の方へと向けた。

 そこに表示されているのは、今から五年前に更新が途絶えている、旧市街の食べ歩きを趣味にしていたらしい個人のローカルブログだった。タイトルは『旧市街グルメ探訪記』。その中のひとつの記事に、『キッチン・マカロニの絶品鉄板ナポリタン』という見出しが躍っていた。


「うむ。読み上げてみろ」


 如月さんが目を開け、アメジストの瞳を画面に向けた。僕は記事のテキスト部分を声に出して読み上げる。


「ええと、『今日もキッチン・マカロニで昼食。相変わらずここの鉄板ナポリタンは、底に敷かれた薄焼き卵とケチャップの焦げた匂いが最高だ。今日は店主のお孫さんである誠也(せいや)くんが、エプロン姿で店を手伝っていた。高校生なのに偉いものだ。彼が運んできてくれるナポリタンは、いつもより少しだけ美味しく感じる』……と、書かれています。そして、この記事に添付されている写真がこれです」


 僕は画面の写真を拡大した。

 少し画質の粗い写真の中央には、今まさに僕たちの目の前のテーブルに置かれているのと同じ、楕円形の分厚い鋳鉄皿に乗った熱々のナポリタンが写っていた。持ち手の形状、縁の厚みなど、特徴は完全に一致している。そして、その写真の背景……ピントが少しボケた厨房の奥に、白いエプロンを着けた若い青年の姿が小さく写り込んでいた。


「誠也、という名前の青年ですか」


「うむ。間違いないじゃろうな」


 如月さんはタブレットの画面と、テーブルの上のステーキ皿を交互に見比べた。


「この特等席の皿を丁寧に洗い、油を馴染ませ、使い込んでいたのは、亡くなった店主だけではない。店を手伝い、作り手の想いと厨房の道具を受け継ごうとしていた孫の『誠也』という青年がおったというわけじゃな」


 これで、このステーキ皿に関わりのある人物が一人浮上した。

 しかし、だとしても謎は深まるばかりだ。仮に洋食屋の孫である青年が仕掛けたのであれば、なぜ、祖父の店の大切な道具を、廃館間際の映画館のスクリーンに張り付けるような奇行に及んだのだろうか。


「洋食屋の孫……彼がやったんでしょうか? でも、動機が全く分かりませんよ。それに、いくらなんでもスクリーンに張り付けるなんて……」


「サクタロウ、事件や事象を解き明かす上で、頭の中だけで推論を組み立てるのは三流のやることじゃ。現場に戻るぞ。わしにはまだ、一つだけどうしても腑に落ちない物理的な違和感があるんじゃ」


 如月さんはタブレットから視線を外し、立ち上がってインバネスコートのケープを美しく翻した。そして、大理石のテーブルの上にステーキ皿を残したまま、迷うことなく再び暗い劇場内へと歩き出した。僕は慌ててタブレットを鞄にしまい、彼女の後を追った。


 再び足を踏み入れた月乃劇場の客席は、上映が終わり、観客もまばらに帰った後で、ひんやりとした静寂に包まれていた。微かにポップコーンの甘い匂いが残る広大な空間に、僕たち二人の足音だけが規則的に響く。


 如月さんはステージには上がらず、客席の中央の通路をゆっくりと歩きながら、巨大な白い銀幕を見上げていた。


「如月さん、腑に落ちない点って、なんですか?」


「あのステーキ皿が配置されていた『異常な座標』についてじゃ」


 如月さんは立ち止まり、純白の手袋でスクリーンの左上……先ほどまでステーキ皿が張り付いていた高い位置をビシッと指さした。


「考えてもみろ。犯人は昨夜、わざわざ暗闇の中で高い脚立を使い、可動式スクリーンマスクの裏側にあの重い鉄板を仕掛けた。そして今日、映画の上映が終わり、場内が明るくなると同時に幕が開き、あの皿が『突如として現れる』ように細工をした。これは一種の劇場型の手口……誰かに『見せつける』ための、強烈なメッセージを孕んだ行為じゃ」


「はい、それはさっきの推理で僕もそう思いました。映画のトリックみたいだなって」


「しかしじゃ」


 如月さんは振り返り、僕に鋭い視線を向けた。


「もし、この劇場に足を運ぶ一般の観客たちにあの皿を見せつける意図があったのなら、なぜあんな『スクリーンの左上』などという、中途半端で視界の端に追いやられるような高さを選んだんじゃ?」


 言われてみれば、確かにそうだ。

 もし僕が誰かにメッセージを見せつけたいなら、スクリーンのど真ん中、一番目立つ場所に仕掛けるはずだ。


「わしはさっきから、あの位置が人間の『視野角』に対してどう作用するかを検証しておった」


 如月さんは客席の最前列のシートに座り、スクリーンを見上げた。


「最前列からでは、左上の位置は完全に見上げる形となり、首に不自然な負担がかかる。映画の映像を追うための主視野からは完全に外れておる」


 次に、彼女は客席の中央の列へと移動し、再びスクリーンを見つめた。


「中央の席からでも、やはり視線は水平よりも上に向く。映画のタイトルロゴやエンドロールの文字が流れるのは主に中央から下部にかけてじゃ。左上の余白など、誰も好んで注視したりはせん」


 最後に、彼女は客席の最後列、出入り口に近い一番後ろの席まで階段を上っていき、そこからスクリーンを見下ろすように視線を向けた。僕も彼女の隣に立ち、同じようにスクリーンを見てみる。


「最後列からだと、スクリーン全体は見渡せますけど……やっぱり左上は、なんとなく視線が泳いでしまう場所ですね。何かがパッと現れたとしても、すぐに気づけるかどうか……」


 僕の感想を聞き、如月さんは満足げに頷いた。


「その通りじゃ。人間の最適な視野角は、水平方向の視線からおよそ下方に十五度傾いたあたりにあると言われておる。つまり、観客席のどこから見ても、あの『スクリーン左上』という座標は、メッセージを提示するには極めて不適切な、死角に近い場所なんじゃよ」


 如月さんの『物理的観察眼』は、単にモノの傷や汚れを見るだけでなく、空間全体の幾何学的な構造や、人間の身体的な特性までをも計算に組み込んでいた。


「犯人は、観客を驚かせるためにあのトリックを仕掛けたわけではない。観客席に座る不特定多数の人間は、最初からこのメッセージの対象外だったんじゃ」


「観客が対象じゃない……? じゃあ、一体誰に見せるために、あんな仕掛けを……」


 僕が困惑して尋ねると、如月さんはスクリーンから背を向け、客席のさらに後ろ……劇場の最後方にある、高い壁の上部を見上げた。


「サクタロウ。映画館において、あの銀幕を最も長く、そして最も特異な角度から見つめ続けている人間は誰じゃ」


 彼女の言葉に誘導されるように、僕も後ろを振り返って壁の上部を見上げた。

 そこには、分厚いコンクリートの壁に穿たれた、横長の小さなガラス窓があった。客席からは見上げるほど高い位置にあるその窓の奥には、かすかに機械のシルエットと、小さな明かりが見える。


「あそこは……『映写室』ですか」


 僕が呟くと、如月さんは純白の手袋で持っていた懐中電灯を指揮棒のように振り、その小さな窓を指し示した。


「そうじゃ。昔の映画館では、映写技師がフィルムの切り替えを行うために、上映中ずっとあの小窓からスクリーンを監視し続けていた。デジタル化が進んだ現在でも、トラブルに対応するために、必ず誰かがあの部屋から劇場の様子を見守っておるはずじゃ」


 如月さんは懐中時計をポケットにしまい、僕の目を見て静かに言った。


「空間の座標を逆算してみろ、下僕。あの劇場の最上部にある『映写室の小窓』から、まっすぐにスクリーンを見下ろしたとする。その時、視線の先……ちょうど真正面の、最も自然な目線の高さにくる位置はどこじゃ」


 僕は頭の中で、映写室の小窓からスクリーンに向かって、一本の真っ直ぐな線を引いてみた。

 高い位置から見下ろす斜めの視線。それが巨大な銀幕にぶつかる交点。


「あっ……!」


 僕は思わず声を上げた。

 観客席から見れば『左上』という不自然な高所。しかし、劇場の最上部にある映写室の小窓から見下ろせば、そこは視界の中心、まさに真正面の『特等席』の座標と完全に一致するのだ。


「気づいたようじゃな。あのスクリーン左上の座標は、客席から見上げるためのものではない。映写室から見下ろすための専用のディスプレイだったんじゃ」


 如月さんの冷徹な推理が、劇場の闇の中でパズルの最後のピースをカチリとはめ込んだ。


「犯人があの回りくどいトリックを用いて、ステーキ皿を見せつけたかった本当のターゲット。それは一般の観客ではない。あの映画が終わって幕が全開になった瞬間、映写室の小窓からスクリーンを見つめていた人間……すなわち、この月乃劇場の『支配人』ただ一人じゃ」


 僕は息を呑み、静まり返った映写室の小さな窓を見上げた。

 閉店した洋食屋の孫と、廃館が決まった映画館の支配人。そして、客席からは見えない角度に仕掛けられた、ただ一人のための鉄板のメッセージ。


 物理的なトリックの全貌が暴かれた今、如月さんの鑑定は、ついにその中心にある『泥臭く不可解な情動』のルーツへと真っ直ぐに手を伸ばそうとしていた。



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