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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 3:支配人のため息と、冷たい凶器の否定~

「お客様、一体どうされたというのですか。上映はとうに終わっておりますが……」


 埃っぽいステージの上で僕たちがステーキ皿を囲んでいると、客席の奥にある通路から、くぐもった声が響いてきた。

 現れたのは、初老の男性だった。年季の入った、しかし丁寧にアイロンがけされたスリーピースのスーツに身を包んでいる。白髪交じりの髪を整え、丸眼鏡の奥にある瞳はどこかくたびれたような、穏やかな光を宿していた。胸元には劇場のロゴがあしらわれたネームプレートが光っている。この『月乃劇場』の支配人だ。


「支配人! 実は、スクリーンの左上にこれが張り付いていまして……」


 係員が慌てて駆け寄り、ステージの床に置かれた黒い楕円形の物体を指さした。

 初老の支配人は怪訝な顔でステージに近づき、それが『分厚い鉄板のステーキ皿』であることを認識した瞬間、ピタリと足を止めた。


「こ、これは……」


 支配人の丸眼鏡の奥で、瞳孔がわずかに見開かれる。

 彼はゆっくりと歩み寄り、ステーキ皿の前にしゃがみ込んだ。そして、信じられないものを見るような目で、冷え切った鉄板の表面を見つめた。驚き、困惑、そして――深い懐かしさ。いくつかの感情が複雑に入り混じった表情を浮かべた後、支配人は、まるで長年背負ってきた重い荷物を下ろすかのような、深く、深く、重いため息をついた。


「はぁ…………なぜ、こんなものが、劇場のスクリーンに……」


 そのため息は、単なるトラブルに対する疲労から来るものではなかった。もっと個人的で、言葉にならない記憶の重みを含んだような、特別な響きを持っていた。


 しかし、ミステリー映画『群青の館』を観終わった直後で、脳内がすっかり探偵モードに染まっていた僕の目には、その支配人の態度がどこか「秘密を抱えた重要参考人」のように映ってしまった。


 僕は身をかがめ、純白の手袋でステーキ皿を観察し続ける如月さんにそっと耳打ちした。


「如月さん。これ、もしかして映画みたいに、これが何かの凶器や脅迫状代わりに使われたんじゃありませんか? ほら、あんな高いところに重い鉄板を仕掛けるなんて、下を通る人間を狙ったトラップか、さもなければ劇場に対する悪質な脅しとか……」


(たわ)け」


 如月さんは、ピシャリと冷たく言い放った。

 彼女は銀のルーペからアメジストの瞳を離し、呆れたように僕を見上げた。


「下僕、お主は本当に浅はかじゃな。たった二時間の映画に影響されて、現実と虚構の区別もつかなくなっておるのか」


「うっ……す、すみません」


「映画の毒薬や、氷の密室を構成するような冷たいトリックの道具とは違う。この不純物をよく見てみろ」


 如月さんは純白の手袋で、ステーキ皿の縁をコンコンと軽く叩いた。

 鈍く重い金属音が、静まり返った劇場に響く。


「これは、人を殺めるための冷たい道具ではない。分厚い鋳鉄で作られ、高温のオーブンやコンロの火に耐えうるように設計された立派な調理器具じゃ。かつて熱を帯び、誰かを満たしていたモノ……その役目を全うしてきた道具の顔をしておる。これを凶器などと呼ぶのは、この皿に対する冒涜じゃ」


 如月さんの言葉は、どこまでも冷徹な事実の積み上げでありながら、対象である『モノ』に対する奇妙なほどの敬意に満ちていた。彼女は他人の悲しみや喜びに同調して感情移入することはないが、彼女の持つ『情動の視座』は、モノに込められた人間の思いやルーツを正確なデータとして読み取ることができるのだ。


 彼女の凛とした言葉を聞いていた支配人は、ハッとして顔を上げ、如月さんをまじまじと見つめた。インバネスコートにキュロットスカート、純白の手袋という異質な出で立ちの少女が発した真理に、深く心を打たれたようだった。


「お嬢さん……あなたの仰る通りです。これは、決して人を傷つけるための道具などではありません。……むしろ、その逆です」


 支配人はゆっくりと立ち上がり、哀愁を帯びた目で無人の客席を見渡した。古いベルベットの座席。剥がれかけた壁紙。昭和の時代から月見坂市の旧市街を見守り続けてきた、この古びた映画館のすべてを慈しむように。


「ご存知かもしれませんが、この『月乃劇場』は、一ヶ月後に閉館することが決まっております。シネコンの台頭や、新市街のスマートシティ化の波には逆らえず……建物の老朽化も限界を迎えました。時代の役目を終えるのです」


 支配人の声には、諦めと寂しさが滲んでいた。


「そして……このステーキ皿もまた、すでに役目を終えた場所の遺物なのです。間違いありません。これは、かつてこの旧市街の商店街にあった洋食屋『キッチン・マカロニ』で使われていたものです」


「キッチン・マカロニ、ですか」


 僕が尋ねると、支配人は深く頷いた。


「ええ。昔ながらの、気取らない洋食屋でした。店主が作る鉄板焼きのナポリタンや、ハンバーグが絶品でね。私を含め、この旧市街で働く人間にとっては、胃袋のオアシスのような場所でした。……しかし、数年前に店主が急に亡くなられて。後を継ぐ者もおらず、店はそのまま閉店してしまったのです」


 支配人の視線が、再び床のステーキ皿に落ちる。


「お店が閉まった後、厨房の道具がどうなったのかは知りません。しかし、この楕円形の形、そして持ち手の部分に刻まれたわずかな凹み……長年、あの店のナポリタンを食べ続けてきた私にはわかります。これは間違いなく、あの『キッチン・マカロニ』のステーキ皿です。それがなぜ、数年の時を経て、閉館間際の当劇場のスクリーンに張り付いていたのか……私には見当もつきません」


 劇場が一ヶ月後に閉館すること。

 そして、このステーキ皿が、すでに閉店した洋食屋のものであること。

 二つの『終わってしまった場所』が、この不可解な事象によって一つに結びついた。


 僕はタブレットに支配人の証言を打ち込みながら、一つの現実的な推測を口にした。


「如月さん。だとしたら、やっぱり誰かの悪質ないたずらじゃないですか? 閉館する映画館に対する嫌がらせというか。廃業した洋食屋のゴミを持ち込んで、わざわざスクリーンマスクの裏に仕掛けるなんて、暇人のやることですよ」


 しかし、如月さんは首を横に振った。


「下僕、お主の推測は相変わらず浅いな。物理的観察眼がまるで養われておらん」


「えっ、違いますか?」


「ただのいたずらで、わざわざ重い鉄板をこんな高い位置に仕掛ける労力は割かん。いたずらや嫌がらせなら、もっと簡単で露骨な方法を選ぶはずじゃ」


 如月さんは純白の手袋を外し、懐中時計を取り出して時間を確認した。

 そのアメジストの瞳には、一切の感情の揺らぎはない。あるのは、純粋な未知の事象に対する『物理的観察眼』と、モノの記憶を解明しようとする知的な興奮だけだ。


「このステーキ皿は、偶然ここにあったわけではない。誰かが、明確な意志と目的を持って、月乃劇場のスクリーン左上という『特異な位置』にこれを配置したんじゃ。……それも、わざわざ幕が開いた時に現れるような、劇場型のトリックを用いてまでな」


 如月さんは再びステージの床に視線を落とし、銀のルーペを構え直した。


「支配人。事情はわかった。わしはこの不純物の『ルーツ』に強い関心を持った。警察を呼ぶのは構わんが、その前に、この皿の表面に刻まれた記憶を、わしが直接鑑定させてもらうぞ。よいな」


 それは許可を求める言葉ではなく、決定事項の通達だった。支配人は如月さんの圧倒的な気迫に気圧されたように、ただ黙って頷くことしかできなかった。


「よし。下僕、記録を続けろ。この冷え切った鉄板が、最後に何の熱を帯びていたのか……その痕跡を洗い出すぞ」


 僕は「はい」と短く答え、タブレットを構え直した。

 映画館の歴史、亡き店主の洋食屋、そしてスクリーンマスクの死角を利用したトリック。散らばったピースが、孤高の天才鑑定士の手によって、一つの現実的な真実へと組み上げられようとしていた。



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