第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 2:鉄板の温度と、黒ベルベットの死角~
ドスン、という鈍く重い音が、ひんやりとした劇場の空気を震わせた。
係員が脚立から下ろした黒い楕円形の物体は、紛れもなく本物のステーキ皿だった。ファミリーレストランなどでハンバーグやナポリタンがジュージューと音を立てて運ばれてくる、あの分厚い鋳鉄製のプレートだ。それが今、廃館の迫るレトロな映画館の、埃っぽいステージの床に無造作に置かれている。
先ほどまで有栖川公仁の華麗な推理劇に魅了されていた観客たちは、現実のスクリーンに突如現れた異物にざわめきながらも、遠巻きにこちらを窺っている。係員は困惑しきった顔で、手についた黒い粘着テープの跡をハンカチで拭っていた。
「まったく、誰の悪戯か知りませんが、スクリーンに傷でもついたらどうするつもりだったんでしょうか……。警察を呼んだ方がいいかもしれませんね」
「待て。警察を呼ぶのは、わしがこの不純物の鑑定を終えてからにするんじゃな」
如月さんは、係員の言葉を冷たく、しかし有無を言わさぬ威厳を持って遮った。
彼女は有栖川公仁を彷彿とさせるインバネスコートのポケットから、純白の手袋を取り出し、ゆっくりと両手にはめた。今日は映画館という格式ある舞台に合わせたのか、汚れ一つない滑らかな布地の美しい手袋だった。そして、もう一方のポケットからトレードマークである銀のルーペを取り出し、カチャリと小気味よい音を立てて展開する。
「さあ、下僕。記録の準備はいいか」
「はい、如月さん」
僕は背筋を伸ばし、鞄からタブレット端末を取り出してスタイラスペンを構えた。休日の映画鑑賞という淡い期待は完全に吹き飛び、いつもの『助手』……いや、『下僕』としての任務が幕を開けたのだ。
如月さんはステージの床に膝をつき、純白の手袋で覆われた指先を、ステーキ皿の縁にそっと這わせた。
「まず確認すべきは、この鉄板の『温度』じゃ」
彼女はステーキ皿の表面、そして裏面を丁寧に触りながら、深いアメジストの瞳を細めた。
「完全に冷え切っておる。映画館の空調は年間を通じて一定の温度に保たれておるが、この鉄板の表面温度は室温と完全に同化しておるな」
「冷え切っている……それがどうかしたんですか?」
「物質は、置かれた環境の温度に馴染むまでに時間を要する。この分厚い鋳鉄の塊が、完全に室温と同じになるまでには、最低でも数時間は同じ場所に放置されている必要があるんじゃ。つまり、上映の直前に誰かが慌てて持ち込んで貼り付けたわけではないということじゃな」
如月さんはステーキ皿の裏面にこびりついた黒い粘着テープの残骸を、銀のルーペを通して緻密に観察し始めた。
「それに、この強力な工業用の両面テープ。これをスクリーンの高い位置に、これほど強固に貼り付けるには、それなりの時間と労力、そして安定した足場が必要になる。映画と映画の間の短い休憩時間や、観客が入場してくる直前の薄暗く慌ただしい時間帯に、誰にも見られずにこの作業を行うことは不可能じゃ。犯人がこのステーキ皿を仕掛けたのは、劇場が無人になる営業時間外……つまり、昨夜の閉館後から今朝の開館前までの間ということになる」
流れるような論理の組み立てに、僕はタブレットの画面をタップする手を止め、小さく唸った。確かに彼女の言う通りだ。しかし、そうだとすれば大きな疑問が残る。
「でも、如月さん。さっきステージに身を乗り出した時、『上映中は確実になかった。プロジェクターの光を遮る影はなかった』と断言しましたよね? もし昨夜からこの鉄板がスクリーンに貼り付いていたのだとしたら、その矛盾はどう説明するんですか? あれだけ大きな鉄板が張り付いていたら、映像に巨大な黒い影が落ちていたはずです」
僕の指摘に対し、如月さんはインバネスコートの裾を翻して立ち上がり、ふっと唇の端を吊り上げた。
「愚問じゃな。お主は映画館のスクリーンというものを、単なる一枚の白い布だと思っておらんか?」
「えっ? 白い布じゃないんですか?」
「映画の映像には、作品によって『縦横比』というものが存在する。昔のスタンダードサイズ、現在の主流であるビスタサイズ、そして横に長いシネマスコープサイズなどじゃ。映画館の巨大なスクリーンは、それらすべての比率に柔軟に対応できるようになっておるんじゃよ」
如月さんの言葉に、僕はハッとした。少しばかりかじったことのある映像技術の知識が、彼女の論理とリンクし始める。
「あっ……『可動式スクリーンマスク』ですか!」
「ほう。下僕にしては少しは知恵が回るようじゃな。その通りじゃ」
如月さんは満足げに頷き、巨大な銀幕の端へと歩み寄った。
可動式スクリーンマスク。それは、映画館のスクリーンの左右あるいは上下に設置されている、黒いベルベット素材の分厚い幕のことだ。上映される映画の縦横比に合わせてこの黒い幕が自動的に動き、映像が映らない余白部分を物理的に覆い隠す。これによって光の乱反射を防ぎ、観客の没入感を高めるという重要な役割を果たしている。
「今回上映された『群青の館』は一昔前の作品で、画面の縦横比は現在の主流よりも縦に長いスタンダードサイズに近い。つまり、上映中はスクリーンの左右の両端に、映像が映らない余白が大きくできる。その余白を隠すために、左右から黒ベルベットの幕が中央に向かって引き出されていたはずじゃ」
如月さんは係員の方を振り返った。
「係員。映画の上映が終わった直後、場内の照明が明るくなると同時に、このスクリーンの黒幕は元の位置に収納される設定になっておるな?」
「は、はい! その通りです。上映終了の信号と共に、左右の幕がモーターで全開に開いて、スクリーン全体が露出するようプログラミングされています」
「やはりな。……わしが登ってこの目で確かめたいところじゃが、さすがにこの装いで脚立を登るわけにはいかんからの。下僕、お主が登って確認せい」
「えっ、僕がですか!?」
僕は思わず声を上げた。確かに、有栖川公仁スタイルの優雅なコートとキュロットスカート姿の如月さんを高い脚立に登らせるわけにはいかないし、下から見上げるような構図になってしまうのは僕としても非常に居心地が悪い。とはいえ、高いところはあまり得意ではないのだ。
「タブレットは置いて、わしの指示通りに動くんじゃ」
有無を言わさぬアメジストの瞳に見据えられ、僕は観念して係員が押さえる脚立に足をかけた。一段、また一段と登るにつれて、視界が高くなっていく。スクリーンの左上、先ほどステーキ皿が張り付いていた高さまで到達すると、足がすくみそうになった。
「よし、そこじゃ。そこから左側……可動式スクリーンマスクが収納されている、黒ベルベットの幕の端をよく観察してみろ。スマートフォンでライトを当てて構わん」
下から響く如月さんの凛とした声に従い、僕はポケットからスマホを取り出し、ライトを点灯させた。暗いステージの上部で、強力なLEDの光が黒いベルベットの生地を照らし出す。
「幕の端……端ですね……あっ!」
僕は息を呑んだ。光に照らされた黒い生地の表面に、明らかな違和感があったのだ。
「如月さん! あります! 幕の端の部分だけ、縦にスーッと細長く『埃』が溜まっているというか、偏っている部分があります! それに、生地の表面が何かに強く擦れたような跡……摩擦痕みたいなものも残ってます!」
「……見つけたぞ」
如月さんの声が、知的な興奮を帯びてわずかに震えた。
「下僕、降りてこい。これでパズルのピースはすべて揃った」
僕は慌てて脚立を降り、彼女の元へと駆け寄った。如月さんは純白の手袋でスクリーンマスクを指し示し、その場にいる全員に聞かせるように、堂々たる声で推理を披露し始めた。
「犯人は昨夜の閉館後、スクリーンマスクが『収納された状態』のスクリーンの左端に、このステーキ皿を強力な両面テープで貼り付けた。そして今朝、映画の開演準備が始まり、画面サイズに合わせて黒ベルベットの幕が引き出された時……幕は、貼り付けられたステーキ皿の上に被さるようにして移動したんじゃ」
僕はタブレットを握りしめ、彼女の論理展開の鮮やかさに圧倒されていた。
「つまり、上映中、ステーキ皿は『黒い幕の裏側』に完全に隠されていた……! だからプロジェクターの光を遮ることもなく、誰にも気づかれなかったんですね!」
「ご名答じゃ」
如月さんは銀のルーペを折りたたみ、コートのポケットにしまった。
「ステーキ皿は上映中ずっと、黒幕とスクリーンの間にサンドイッチされた状態で存在しておった。そして約二時間の上映が終わり、場内が明るくなると同時に、黒幕は自動的に全開に収納された。その際、幕の裏側がステーキ皿に強く擦れ、ベルベットの表面に付着していた埃が削り取られて不自然な『偏り』を生み出し、同時に『摩擦痕』を残したんじゃ」
彼女はステージの床に転がるステーキ皿を見下ろした。
「幕が収納されたことで、それまで隠れていたステーキ皿がスクリーン上に露出し、まるで『上映終了直後に突如現れた』かのように錯覚させた。これが、この不純物が引き起こした物理的トリックの全貌じゃ」
そこで如月さんは言葉を区切り、僕の方を向いて誇らしげに微笑んだ。
「有栖川公仁の推理を覚えておるか? 彼は、完全に燃え尽きたはずの暖炉の『灰の偏り』から、水滴の落下位置を特定した。そして今、わしたちが導き出したのは、スクリーンマスクの『埃の偏り』という物理的証拠じゃ。映画のトリックと現実のトリックが、かくも美しくリンクするとはな」
如月さんの冷徹かつロマンチックな解説を聞き終えた係員は、ポカンと口を開けたまま立ち尽くしていた。まるで、本物の有栖川公仁の推理劇の続きを目の前で見せられた観客のように、完全に圧倒されていたのだ。
「なるほど……完璧な推理です、如月さん」
僕は感嘆の溜息を漏らしながら、タブレットに『トリック:可動式スクリーンマスクの死角を利用。証拠:幕の摩擦痕と埃の偏り』とタイピングした。映画の中で展開された氷の密室トリックと、現実のステーキ皿のトリック。その二つが『偏り』という物理的証拠によって見事に結びついていることに、僕はえも言われぬ心地よさを覚えていた。
「ふん。当然じゃ。これくらいの物理法則、わざわざ有栖川に教えを請うまでもない」
如月さんは帽子を直し、悠然とした態度で純白の手袋のシワを伸ばした。しかし、彼女の瞳の奥の熱はまだ冷めていなかった。
「しかし、トリックが解けたからといって、ルーツの解明が終わったわけではないぞ、下僕。むしろここからが本番じゃ」
彼女のアメジストの瞳が、再び鋭い光を放ち、足元の冷たい鉄板を射抜く。
「どうやって仕掛けたかは分かった。問題は、『なぜ』じゃ。なぜ犯人は、わざわざこんな重い鉄板を、強力なテープを使ってまで、スクリーンのあんな高い位置に貼り付けたのか。その労力に見合う目的が、この単なるステーキ皿に隠されているはずじゃ」
冷え切った鉄板に込められた、見えない目的。
映画のようなスマートな殺意でも、感傷的な復讐でもない。もっと不可解で泥臭い、現実の人間の行動原理。如月瑠璃の鑑定は、物理現象の解明から、モノのルーツと情動の解析へとそのフェーズを移行しようとしていた。




