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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『銀幕と鉄板』 ~Section 1:福引の景品と、銀幕の不純物~

 月見坂市は、ネットワークを介した徹底的な情報収集と環境操作によって管理される無機質な『新市街』と、時代の波に取り残されたように昭和の雑多な空気を色濃く残す『旧市街』という、二つの顔を持つ街だ。


 僕が住んでいるのは、後者の旧市街にある古びた団地である。夕飯の買い出しの帰り道、僕は魚の干物の匂いや八百屋の威勢のいい声が響く商店街のアーケードで、福引の抽選会場を通りかかった。財布の中には、日用品を買った際にもらった数枚の福引補助券が入っている。


 どうせ当たるのはポケットティッシュだろう。そう高を括って回した木製のガラガラ抽選器から、カランと乾いた音を立てて真っ赤な玉が転がり出た。法被を着た商店街の会長が、大げさに鐘を鳴らす。手渡されたのは、旧市街の端にある古びた映画館『月乃劇場』のペアチケットだった。上映作品は『群青の館(あおのやかた)』。一昔前に大ヒットした、名探偵・有栖川公仁(ありすがわ きみひと)が難事件を解決する往年の傑作ミステリー映画だ。


 団地の自室に戻った僕は、机の上の小さな水槽で呑気に泳ぐ二匹の金魚を眺めながら、二枚のチケットを並べて深く息を吐き出した。

 映画館のペアチケット。当然ながら、誰かを誘わなければ一枚はただの紙くずになってしまう。しかし、ただの高校一年生である僕にとって、誰かを休日の映画に誘うというミッションは想像以上にハードルが高かった。僕は極度に女性に対する耐性が低い。同世代の女性とまともに会話をすることすら緊張するし、身体的な接触などあろうものなら完全に思考が停止してしまう。僕が平常心で熱狂できる女性は、推しの地下アイドル『GyoGyoっとラブ(通称:魚魚ラブ)』の絶対的センター、箱崎彩華(はこざき さやか)ちゃんだけだ。


 となれば、誘う相手は同性のオタク仲間に限られる。僕はベッドに寝転がり、スマートフォンを取り出してメッセージアプリの通話ボタンを押した。


 数回のコールの後、相手が出た。


「おお、朔! どうした!」


 電話の主は、川崎大輔(かわさき だいすけ)

 彼は僕の通う如月学園の生徒ではない。魚魚ラブのライブ会場で偶然出会い、彩華ちゃん推しという共通点で意気投合した他校の友人だ。彼は新市街の洗練されたメインストリートを歩けば、常にモデル事務所のスカウトから名刺を渡されるほどの圧倒的な美貌の持ち主である。しかしその実態は、手に入れたスカウトの名刺を即座に破り捨て、魚魚ラブのゲリラライブへと疾走する狂信的なアイドルオタクだった。


「川崎、今度の日曜なんだけどさ。『月乃劇場』のペアチケットが当たって」


「悪い朔! 日曜は無理だ!」


 僕が言い終わるよりも早く、川崎は食い気味に言い放った。


「日曜は、新市街の特設会場で開かれる魚魚ラブの限定ポップアップストアの初日だぞ! 俺はプレミアム入場枠の抽選に受かってるんだ。お前、外れたって言ってただろ? 俺は始発から並んで、彩華ちゃんのランダムアクリルスタンドのコンプリートを目指して、現地のファンと一日中グッズ交換のバトルを繰り広げる予定だ! 映画なんて悠長なものを観ている暇はない!」


「あ、そっか。プレミアム枠、日曜だったね。うん、交換頑張って」


 そうだ、すっかり忘れていた。僕は抽選に落ちて涙を呑んだのだった。血走った目で熱弁を振るう川崎の姿が目に浮かび、僕はすごすごと通話を切るしかなかった。


 気を取り直して、僕はもう一人の友人に発信した。


「なんだ」


 不機嫌そうな低い声。山田慎之介(やまだ しんのすけ)だ。

 彼もまた、ライブ会場で知り合った他校の仲間である。旧市街の定食屋『山ちゃん』の息子である彼は、動くことを極端に嫌う。分厚い腹の肉と共にディープな情報収集能力を蓄え続ける、ハッカーのようなネットサーファーだ。


「山田、今度の日曜なんだけど。映画のペアチケットが当たってさ。一緒に観に行かない?」


「断る」


 キーボードをターンッと叩く音と共に、冷酷な返事が返ってきた。


「俺は今、彩華ちゃんの過去の配信アーカイブを片っ端から高画質化し、ノイズを除去してローカルサーバーに保存するという神聖な儀式の最中なんだ。それに、俺は自分の部屋の特注チェアから一歩も動かずに世界中の情報を手に入れられる。わざわざ旧市街のカビ臭い映画館まで足を運ぶ趣味はないね」


 ツーツーという無機質な電子音が耳に響く。見事なまでの玉砕だった。オタク仲間二人に立て続けに断られ、僕の交友関係は完全に底をついた。


 チケットを捨てるのは惜しい。だが、誘う相手がいない。三日三晩悩み抜いた僕の脳裏に、ある一人の少女の姿が浮かび上がった。

 艶やかな漆黒のロングストレートヘアに、深く透明なアメジストの瞳を持つ美少女。如月瑠璃(きさらぎ るり)だ。如月コンツェルンの社長令嬢にして、ありえない場所にあるありえないモノのルーツを解き明かす、孤高の天才鑑定士である。


 相手はあの如月さんだ。僕のことを『忠犬』や『下僕』としか思っていない彼女が、娯楽のための映画鑑賞などに付き合ってくれるとは到底思えない。即座に「くだらん」と論破されて泣きを見るビジョンしか見えなかった。しかし、背に腹は代えられない。


 四日目の放課後。限界に達した僕は、意を決して僕たちの拠点である旧校舎の図書室へと向かった。

 重厚な木製の扉を開けると、彼女は勝手に配置したマホガニー材のアンティークテーブルで、優雅にティーカップを傾けていた。僕は緊張で喉を鳴らし、震える手でペアチケットを差し出した。


「あの、如月さん。もしよかったら、今度の日曜、これ。行きませんか」


 如月さんは銀の匙で紅茶をかき混ぜる手を止め、静かにチケットへと視線を落とした。断られる。そう覚悟して目を閉じた次の瞬間、彼女の口から意外な言葉が紡がれた。


「ほう。有栖川公仁の『群青の館』か。悪くないじゃろう」


 目を開けると、彼女は満足げに唇の端を吊り上げていた。


「わしはこれのブルーレイを観たことはあるんじゃがな。劇場の大きな銀幕で一度観てみたいと常々思っておったんじゃ。日曜日じゃな。よかろう、付き合ってやる」


 あっさりとした快諾だった。拍子抜けしたのと同時に、僕の心臓が激しく警鐘を鳴らし始めた。日曜日に、同年代の圧倒的な美少女と二人きりで映画館に行く。いや、彼女に限って恋愛感情など微塵もないし、主と下僕の関係に過ぎない。そう頭では懸命に理解しようとしているのに、僕の内心は完全にパニック状態に陥っていた。


 **


 日曜日。

 待ち合わせ場所である月乃劇場は、ツタの絡まるレンガ造りの外観と、手描きの映画看板が目を引くレトロな建物だった。一ヶ月後には廃館が決まっているらしく、どこか物寂しい空気が漂っている。


 僕が劇場の前でそわそわと待っていると、旧市街の狭い道には到底似つかわしくない、黒塗りの巨大なリムジンが音もなく滑り込んできた。如月コンツェルンの専用車だ。


 運転席から降りてきたのは、如月家の専属ボディーガードである黒田さんだった。五十代手前の筋骨隆々の屈強な男で、如月家屈指の実力を持つ彼だが、今日は明らかに様子がおかしい。


「お嬢様……まさか、同級生の男の子と休日に映画館へ足を運ばれる日が来るなんて。わたくし、感無量でございます……うぅっ」


 屈強な大男が車のドアを開けながら、大粒の涙を流してハンカチを噛み締めている。彼はとにかく涙もろいのだ。


「やかましいぞ、黒田。ただの気まぐれじゃ。さっさと戻れ」


 後部座席から降りてきた如月さんは、呆れたように言い放った。そして、今日の彼女の服装を目の当たりにした瞬間、僕は思わず息を呑んだ。


 彼女の出で立ちは、映画の主人公である探偵・有栖川公仁のスタイルを完璧に踏襲しつつ、彼女ならではの洗練された美学でアレンジが加えられていた。

 頭には、深いネイビーブルーのクラシカルな中折れ帽。艶やかな黒髪がその下からサラサラと流れ落ちている。トップスは仕立ての良さが素人目にもわかる純白のブラウスで、首元にはダークレッドのベルベットリボンがタイとして結ばれていた。その上から、英国紳士の探偵を思わせる、ケープのついた千鳥格子柄のインバネスコートを羽織っている。


 ボトムスは有栖川のスラックスとは違い、動きやすさと上品さを兼ね備えたハイウエストのキュロットスカートだ。足元はアーガイル柄のタイツに、丁寧に磨き上げられた焦げ茶色の編み上げ革ブーツが合わされている。

 さらに、コートの右ポケットからは彼女のトレードマークである銀のルーペの鎖が覗き、左ポケットからは精巧な細工が施された懐中時計の銀チェーンが鈍く光っている。手には古い革の手帳と万年筆が握られていた。


 全身から漂う知性と可憐さの暴力に、僕は完全にドギマギしてしまった。道行く人々が思わず足を止めて彼女に見惚れている。


「どうした、下僕。口を開けたまま阿呆面を晒しておるぞ」


「い、いえ。その服、映画の主人公にそっくりですね。でもキュロットスカートなんだなって」


「有栖川公仁のスタイルを、わしなりに再解釈してみたんじゃ。わしにはこのキュロットの方が合っておるからの。どうじゃ、悪くないじゃろう」


 彼女は帽子を少し押し上げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。


「ええ、すごく似合ってます。この映画、本当に楽しみにしてたんですね」


「当然じゃ。でかしたぞ、下僕。颯爽と行くぞ」


 彼女はご満悦な様子で、迷うことなく劇場の中へ歩き出した。僕は慌ててその後を追いかけた。


 館内は、年季の入った赤いベルベットの座席が並び、ポップコーンの甘い香りと古い建材の匂いが入り混じった独特の空気が漂っていた。観客は僕たちを含めても十人足らず。少し寂しい気もするが、静かに映画に集中するには最高の環境だ。


 僕たちは中央の特等席に並んで腰を下ろした。ブザーが鳴り、ゆっくりと場内の照明が落ちていく。暗闇の中、隣に座る如月さんの存在感がやけに大きく感じられた。彼女の髪から微かに漂う、高級な紅茶のような、あるいは高価なシャンプーのような清潔な香りが鼻をくすぐる。


『同年代の圧倒的な美少女と、暗い映画館で肩を並べて座っている』


 その事実だけで、女性耐性が皆無の僕の心臓は破裂しそうなほどに脈打っていた。スクリーンに古いフィルム特有のカウントダウンが映し出されても、僕の意識の半分は隣の如月さんに持っていかれたままだった。


 やがて、重厚なオーケストラのBGMと共に『群青の館』のタイトルロゴが銀幕に浮かび上がる。


 物語の舞台は、断崖絶壁に建つ青い屋根の洋館。嵐によって外界から完全に孤立したその館で、主である冷酷な富豪が密室状態の書斎で毒殺される。容疑者は、遺産を狙う甥、過去に秘密を抱えたメイド、そして寡黙な老執事。

 警察すら介入できないその絶望的な状況下で、偶然館に招かれていた探偵・有栖川公仁が立ち上がる――という、往年のミステリーの王道を行く展開だ。


 映画が中盤に差し掛かる頃には、僕の極度の緊張もいつしか解け、すっかり物語の世界に引き込まれていた。

 有栖川公仁は、現在の如月さんとそっくりのインバネスコートを翻しながら、現場の些細な違和感を拾い集めていく。一方、隣の如月さんは微動だにせず、アメジストの瞳でスクリーン上の『手がかり』を冷徹にスキャンし続けているようだった。


 そして映画はクライマックスの解決編を迎える。

 暖炉の前に容疑者たちを集めた有栖川が、静かに口を開く。彼は、完全に燃え尽きたはずの暖炉の『灰の偏り』を指摘した。煙突から吹き込んだ僅かな風と、犯人が仕掛けた氷の密室トリックが溶ける際に生じた水滴。それらが複雑に絡み合い、灰の表面に極めて不自然な波紋を残していたのだ。


『……この物理的痕跡が示す事実はただ一つ。犯行時刻、この書斎の窓は内側から施錠されてなどいなかった』


 有栖川の論理的な推理によってトリックが暴かれ、犯人であるメイドが泣き崩れる。彼女が富豪を殺害した動機は、かつて富豪によって人生を狂わされた恋人のための、深く悲しい復讐だった。

 メイドの慟哭と、有栖川の哀愁を帯びた表情が大写しになり、エンドロールが静かに流れ始める。


 約二時間の上映が終わり、館内が明るくなると同時に、僕は深い余韻を噛み締めていた。


「有栖川の物理的証拠の提示は、やはり見事じゃな」


 隣の席で、如月さんが静かに口を開いた。


「あの暖炉の灰の偏りから、水滴の落下位置を特定し、犯人の立ち位置を逆算する思考プロセス。あれは極めて論理的じゃ。しかし、動機付けの部分での情動の解釈は、少々感傷的すぎるきらいがあるかの。人間というものは、もっと不可解で泥臭い理由で行動を起こす生き物じゃ」


 彼女は映画の感想というよりは、実際の事件調書を分析しているかのような口調だった。彼女にとって、他人の悲しみや怒りといった感情は理解・解明の対象であっても、決して共感するものではない。その冷徹な観察眼はフィクションに対しても容赦がなかった。


「如月さんらしい見方ですね。でも、あの犯人の最後の涙は……」


 僕がそう応えようとした直後、彼女の言葉が途切れ、アメジストの瞳が鋭くステージ上のスクリーンを見据えた。


「あれは、なんじゃ」


 彼女の視線の先。スクリーンの左上、かなり高い位置に、黒い楕円形の何かが張り付いている。

 遠目からではよくわからないが、厚みのある金属の塊のように見える。


「不純物じゃ」


 如月さんは呟くや否や、席を立ち上がり、客席の通路を歩き出した。そして、そのままスクリーンのあるステージへと身を乗り出した。


「お客様! ステージには上がらないでください!」


 駆け寄ってきた劇場の係員が制止するが、如月さんは一切意に介さず、頭上の物体をビシッと指さした。


「係員。あそこにある黒い楕円形の物体。あれは『ステーキ皿』じゃな。なぜあんなところにステーキ皿がある?」

「えっ? ステーキ皿? いえ、そんなはずは」


 係員が目を瞬かせ、如月さんの指し示す先を見上げて絶句した。確かに、どう見てもファミリーレストランなどでハンバーグが乗ってくる、あの分厚い鉄板のステーキ皿だった。


「上映中は確実になかった。もしあんな異物があれば、プロジェクターの光を遮り、映像に不自然な影ができていたはずじゃ。しかし、わしは画面の隅々まで観察しておったが、そのようなノイズは一切なかった」


 如月さんは断言した。


「であれば、あのステーキ皿がスクリーンに付着したのは、映画終了後か、あるいはスタッフロール中のスクリーンに映像が映らない時ということになる」


 彼女は僕を振り返り、鋭い声で命じた。


「下僕、係員に脚立を持ってこさせろ。あれを回収するんじゃ」


 僕は周囲の観客たちが何事かとヒソヒソ声を上げる中、係員にお願いし、バックヤードから長めの脚立を借りてきた。係員が恐る恐る脚立を登り、スクリーンに張り付いたステーキ皿に手を伸ばす。


「うわっ、重い。しかもこれ、強力な両面テープみたいなものでガッチリ固定されてます」

「無理に剥がしてスクリーンを傷つけるな。慎重に下ろせ」


 如月さんの指示に従い、係員がなんとかステーキ皿を引き剥がし、ステージに下ろした。ドスン、と鈍い音が響く。間違いなく本物の重い鉄板だ。


 如月さんはコートのポケットから、純白の手袋を取り出し、ゆっくりと手にはめた。今日は有栖川公仁のスタイルに合わせたのか、普段持ち歩いている無骨な軍手ではなく、汚れ一つない滑らかな布地の美しい手袋だ。彼女は手袋越しの指先で、ステーキ皿の表面をそっと撫でた。


「廃館が迫る古びた映画館のスクリーン。その左上に、上映終了直後に突如として現れた、重厚なステーキ皿」


 彼女のアメジストの瞳が、知的な興奮に怪しく煌めいた。


「ありえない場所に、ありえないモノがある。さて、この不純物がどこから来て、誰の手に渡り、どういう経緯でここにあるのか。ルーツを辿るとしようかの」


 探偵の休息は終わりを告げた。ここから先は、孤高の天才鑑定士・如月瑠璃の独壇場だ。僕は静かに息を呑み、助手としての己の役割を果たすべく、彼女の隣に控えた。



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