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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『不純物の行方』 ~section10:静かな放課後と、次の鑑定願~

 数日後の放課後。


 月見坂市は今、都市の開闢以来とも言える巨大なスキャンダルの炎に完全に包み込まれていた。

 僕の手元にあるタブレット端末の画面では、ニュースキャスターが上擦った声で、警視庁を揺るがす前代未聞の汚職事件についてまくし立てている。画面のテロップには『警視庁ナンバーツー、権藤副総監逮捕』『特別証拠保管庫での証拠隠滅、実行犯の鮫島京奈容疑者も身柄拘束』という衝撃的な見出しが、赤と黒の毒々しい色彩で躍り続けていた。


 最新のAIシステム導入を目前に控えたスマートシティにおいて、システムを管理し市民の安全を守るべき警察トップが自らの権限を悪用した。そして、あろうことかアナログな手法で過去の不正の証拠を灰にしたのだ。市民の怒りとメディアの熱狂は凄まじく、情報ネットワークのタイムラインは秒間数万件という異常な勢いで更新され続けている。あの津嘉山総監が直々に記者会見を開き、無数のフラッシュを浴びながら深々と頭を下げる痛々しい映像が、どのチャンネルを回しても繰り返し再生されていた。


 しかし、僕が今いるこの旧校舎の図書室だけは、外界の熱狂と喧騒がまるで嘘のように、いつもと変わらぬ深い静寂に包まれていた。

 西日が差し込むマホガニーのアンティークテーブル。そこに座る如月瑠璃の関心は、警察組織の歴史的な崩壊にも、世間の喧騒にも、全く向けられていない。

 彼女は深いネイビーのブレザーの袖を少しだけ捲り上げ、真っ白な手袋を嵌めた手で、極めて繊細な作業に没頭していた。テーブルの上には、特殊な接着剤の入ったガラスの小瓶と、先端の細い銀色のピンセット。そして、彼女の視線の先にあるのは、四つに千切れたあの青いスーパーボールの欠片だった。


「如月さん。月見坂市のネットワークは、どこもこのニュースで持ちきりですよ」


 僕はタブレットの電源を落とし、チカチカと光る画面の光を消した。


「権藤副総監だけじゃなく、あの鮫島さんも正式に懲戒免職からの逮捕確実だそうです。特捜部が彼女の足取りを洗い直して、証拠品を焼却したデバイスの残骸も下水道から見つけ出したみたいで。これで警察内部の泥臭い副産物の処理は、完全に終わりましたね」


 僕の言葉に対し、如月さんはピンセットを持つ手をピタリと止め、美しいアメジストの瞳を細めた。


「俗人どもは、分かりやすい権力の失墜と勧善懲悪のドラマが本当に好きじゃな。安全な場所から石を投げて、自分たちの社会が浄化されたと錯覚して喜んでおるのじゃろう。実に滑稽で、耳障りなノイズじゃ」


「僕も同感です。結局、あの鮫島さんたち警察のトップエリートでさえも、如月さんの言う通り『ただの前座』に過ぎなかったわけですから」


 僕は数日前の図書室での出来事を思い出し、小さく息を吐き出した。

 古い都の訛りで僕たちを脅し、警察権力を笠に着ていた鮫島さんの、あの爬虫類のような冷酷な目。彼女は自分の保身のためなら、邪魔な人間を物理的に排除することなど何とも思っていなかったはずだ。しかし、そんな恐ろしい大人の悪意すらも、如月瑠璃の論理の前では脆くも崩れ去り、さらにその背後に潜む『真の観測者』の存在によって、ただの滑稽なピエロへと成り下がってしまった。


「でも、警察の汚職事件は片付きましたけど、数日前に如月さんが指摘した例の『第三者』は、あれから全く尻尾を出さないですね。鮫島さんの背後で欠片を拾い集め、警視庁のあちこちに配置して回った見えざる存在。警察の捜査網にも全く引っかかっていないみたいです」


 如月さんは接着剤の小瓶に細いノズルを取り付け、スーパーボールの一つの欠片の断面に、透明な液体を薄く、均一に塗布し始めた。その手つきは、貴重な文化財を修復する老練な職人のように滑らかで、一切の迷いがない。


「尻尾を出さないのではない。奴はすでに、わしに対する宣戦布告を完璧に済ませておるのじゃよ、サクタロウ」


「宣戦布告。あの四箇所の配置のことですか」


「いかにも。鮫島と権藤はシステムを欺くために物理の盲点を突いた。じゃが、その物理法則の限界を見誤り、自らの手口を証明する決定的な痕跡を残した。真の観測者はその暗闇の中で、犯人の泥臭いミスを嘲笑うように欠片を回収し、そして極めて悪趣味な盤面を構築した」


 如月さんは二つの欠片の断面を慎重に合わせ、指先で静かに圧力をかけた。

 ゴムとゴムが再び結合し、元の球体の形を少しずつ取り戻していく。しかし、一度千切れた傷跡が完全に消えることはない。接着された断面には、十五トンの防爆扉がもたらした暴力的な力の痕跡であるV字型の深い圧縮痕が、痛々しい傷跡としてそのまま残されている。


「エントランスの観葉植物、食堂の椅子、洗面台の淵、刑事の靴の裏。あの寸分の狂いもない幾何学的な配置は、警察組織の無能さを嘲笑うためだけのものではない。あれは、わしという鑑定士に対する明確な挑戦状じゃ」


 如月さんは最後の四つ目の欠片を接着し終え、その青いゴムの塊を手のひらに乗せて僕の目の前へと差し出した。

 それはもはや、子供たちが無邪気に弾ませて遊ぶスーパーボールの姿ではなかった。無数の断裂痕が走り、深い傷が刻まれたその球体は、巨大な物理的圧力に耐え、そして破壊されたという壮絶な過去を証明する特異な標本へと変貌を遂げていた。


「奴は、わしが必ずこの不純物のルーツを辿るであろうことを完全に計算しておった。警察の汚職という泥臭いエラーを利用し、犯人のミスを逆手にとって、わしにこの欠片を集めさせるように完璧に仕組んだのじゃ」


「僕たちに辿らせるように仕組んだ。じゃあ、その第三者っていうのは、如月さんのことをよく知っている人間なんですか」


「ただの知り合いという生ぬるい関係ではないわ。あの極限の暗闇の中で、十五トンの防爆扉が閉まる音に一切の恐怖を抱くことなく、鮫島の醜い焦燥を特等席で観測していた存在。そやつは、わしと同じように事象を俯瞰し、冷徹な論理で盤面を操作する視座を持っておる」


 如月さんは立ち上がり、窓の外のスマートシティの街並みを見下ろした。

 整然と区画整理されたビル群と、AIによって管理された完璧な都市のインフラ。その巨大なシステムのどこかに、彼女と対をなすような冷徹な頭脳が息を潜めている。


「じゃが、わしと奴とでは決定的に異なる部分がある。奴の行動には、人間的な情動のノイズが一切存在しないのじゃ。喜びも、悲しみも、焦りも、悪意すらも持たず、ただ純粋な冷徹な論理と概念的洞察力だけで世界を観測し、事象を操作する。警察の汚職を暴くためでもなく、鮫島を脅すためでもない。ただ、このわしの処理能力を試し、盤上へと引きずり出すために、あの欠片を配置して回ったのじゃ」


 如月さんの言葉に、僕の背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような悪寒が走った。

 情動のノイズがない。そんなことができる人間が、この月見坂市のどこかに潜んでいる。そして何より僕を震え上がらせたのは、常に絶対的な優位性を誇り、どんな難事件も冷徹な論理でねじ伏せてきたあの如月瑠璃が、その存在に対して明確な警戒と、異常なまでの執着を見せていることだった。


「サクタロウ。わしはかつて、その冷徹な論理の前に、ただの一度だけ完全なる知的な敗北を喫したことがある」


 夕闇が迫る図書室に、彼女の涼やかな、しかし絶対的な決意を秘めた声が静かに響き渡った。

 僕は息を呑んだ。この完璧な孤高の天才少女を、敗北に追い込んだ者がいる。物理的観察眼と情動の視座をもってしても決して届かなかった、完全なる知恵の壁。その存在が、あの青いゴム球を使って、再び彼女の前に挑戦状を叩きつけてきたのだということに、彼女は最初から気づいていたのだ。


「この月見坂市において、わしの論理と真っ向から対立し、人間の情動を持たず、ただ冷徹な概念の視座から世界を観測する唯一の存在」


 如月さんは窓ガラスにそっと指先を触れ、夕焼けに染まるアメジストの瞳を細めた。

 それは生涯の好敵手との再会を喜ぶような、純粋で危険な歓喜の表情だった。彼女の視線は、もはや鮫島さんや警察組織といったちっぽけな枠組みを完全に飛び越え、このスマートシティ全体を覆い尽くす巨大な幻影へと真っ直ぐに向けられている。


「……ファントム」


 彼女がその名を呟いた瞬間、窓の外でスマートシティの街灯が一斉に点灯し、月見坂市は無機質な青白い光の海へと沈んでいった。

 マホガニーのテーブルの上に置かれた、一つの歪な青いゴムの塊。

 それは泥臭い汚職事件の終わりを示すと同時に、孤高の天才少女と、彼女と対をなす見えざる冷徹な幻影との、途方もなく長く、そして極上の知的なゲームの再開を告げる宣戦布告の証であった。



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