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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『不純物の行方』 ~section9:崩壊する威信と、ただの副産物~

 旧校舎の図書室の分厚い木製の扉が、乱暴に押し開かれた。

 西日が差し込む室内に足を踏み入れたのは、白髪交じりのオールバックと、一寸の隙もなく仕立てられたダークスーツに身を包んだ初老の男だった。鋭い鷹のような眼光が、室内を瞬時に舐め回す。彼の背後には、昨日僕たちが地下の特別区画で遭遇した特捜部の屈強な刑事たちが無言で立ち並び、完全に退路を塞いでいた。

 月見坂市の治安を統括する最高権力者、警視庁のトップである津嘉山総監その人だ。


 床にへたり込んでいた鮫島さんは、総監の姿を視界に捉えた瞬間、全身の筋肉を硬直させた。もはや逃亡する気力も、言い訳を口にする気力も残っていない。彼女はただ、自身の警察官としてのキャリアの完全な終焉を決定づける死神を見上げるように、虚ろな目を向けている。


「津嘉山総監。わざわざこのような埃っぽい旧校舎まで足を運ばれるとは、ご苦労なことじゃな」


 如月瑠璃はビロードの椅子から立ち上がることもなく、ティーカップをソーサーにコトリと置いて涼やかな声を響かせた。

 警察トップが放つ圧倒的な威圧感など、彼女の前ではただの退屈なそよ風に等しい。


「如月コンツェルンの弦十郎会長から、ただならぬ事態が起きていると急報を受けましてね。孫娘が警視庁のセキュリティの重大な欠陥と、消えた証拠品の行方を独自に追っていると。そして今、私の部下の刑事が、この図書室に怒鳴り込んできたという騒ぎも耳に入りました」


 津嘉山総監はゆっくりとマホガニーのテーブルへと歩み寄り、床で震える鮫島さんを冷酷に見下ろした。

 僕は緊張のあまり、息をするタイミングすら見失いそうになっていた。月見坂市の警察のトップが目の前にいる。しかも、僕の膝の上にあるタブレット端末には、彼の組織のナンバーツーを完全に破滅させる致命的なデータが入っているのだ。


「騒ぎを聞きつけて飛んできたというわけか。相変わらず動きが素早いの。まあよい、ちょうど泥臭い種明かしが終わったところじゃ。お主ら警察組織が血眼になって探していた証拠品紛失事件の全貌を、特別に教えてやろう」


 如月さんは真っ白な手袋の指先で、テーブルの上の四つの青いゴムの欠片を指し示した。


「総監殿。お主の部下であるこの鮫島と、副総監の権藤は、来月のAIシステム本格導入を前に、過去の汚職の証拠を隠滅しようと企てた。じゃが、電子的なアクセスログを残せばすぐに足がつく。そこで奴らは、子供の玩具を使った極めて泥臭い物理的ハッキングを実行したのじゃ」


 如月さんの淀みない論理の開陳が始まった。

 十五トンの防爆扉が閉まる直前、直径三十ミリのスーパーボールをヒンジの奥深くに楔としてねじ込む。センサーの許容誤差である数ミリの隙間を作り出し、システムには正常に施錠されたと誤認させる。そして物理的にデッドボルトを操作し、密室に侵入して証拠を灰にする。

 津嘉山総監の眉間の皺が、言葉を追うごとに深く刻まれていく。彼はスマートシティの高度な電子セキュリティを盲信していたからこそ、そのアナログな死角を突かれたという事実に、隠しきれない驚愕の情動を滲ませていた。


「しかし、奴らは圧倒的な物理法則の限界を見誤った。二百メガパスカルの油圧モーターの圧力に耐えきれず、ゴム球は四方向に破断して弾け飛んだのじゃ。防爆扉のヒンジの奥には、今も青い摩擦痕がしっかりと焼き付いておるぞ。昨日、わしが自ら現場で確認済みじゃ」


 如月さんは言葉を区切り、アメジストの瞳を僕へと向けた。

 僕は大きく息を吸い込み、震える手でタブレット端末を持ち上げた。助手としての役割を果たす時だ。


「総監。監視カメラに犯行の瞬間が映っていないのは、映像が改ざんされたからです」僕は決死の覚悟で、津嘉山総監の鋭い視線を正面から受け止めた。「昨日の十七時四十二分から四十七分までの五分間。特別証拠保管庫の前の映像データは、過去の誰もいないループ映像に差し替えられていました。そして、そのループ処理を実行したシステムのアクセスログが、これです」


 僕は立ち上がり、タブレットの画面を総監の目の前に提示した。

 無機質なテキストデータとして刻まれた、権力者の痕跡。

 津嘉山総監は画面の文字列を凝視し、やがてその顔に警察トップとしての激しい怒りと、深い失望の影を落とした。


「ユーザーID、ADM-002。権藤副総監のアカウント」


 総監の野太い声が、図書室の空気を震わせた。

 床にへたり込んでいた鮫島さんは、その声を聞いて完全に縮み上がった。彼女の最後の希望であった権藤副総監の庇護と権力が、この瞬間に完全に消滅したのだ。


「私を差し置いて弦十郎会長と密に接触していたのは、AI導入の時期を少しでも遅らせるための工作だったというわけか。自分の過去の不正を物理的に消し去るための時間稼ぎとして。何たる愚行。月見坂市の治安を預かる者が、保身のためにシステムを私物化するとは」


 総監は激しい怒気を孕んだ声で吐き捨て、背後の刑事たちに鋭く顎で合図を送った。

 特捜部の刑事たちが即座に動き、床で震える鮫島さんの両脇を力強く掴んで立たせた。銀色の手錠が冷たい金属音を立てて、彼女の細い手首に掛けられる。


「鮫島京奈。証拠隠滅およびシステム不正操作の容疑で同行を命ずる。権藤副総監の身柄も、直ちに本庁で確保する。特捜部の全権限をもって、彼らの余罪と裏帳簿のすべてを洗いざらい吐き出させろ」


「はっ」


 刑事たちの短い返事とともに、鮫島さんは足を引きずるようにして図書室から連行されていった。彼女は最後まで一度も振り返ることはなく、ただ絶望の淵に沈みきった抜け殻のようになっていた。

 警察組織のナンバーツーとエリート女刑事が共謀した、警視庁を揺るがす巨大な汚職事件。それが今、二人の高校生の手によって完全に崩壊したのだ。

 僕は張り詰めていた肩の力を抜き、深く安堵の息を吐き出した。これで本当に僕たちを脅かす暴力の脅威は去った。平穏な日常が戻ってくる。


「お見事です、如月のお嬢さん。そして、そちらの学生も」


 津嘉山総監は厳しい表情を少しだけ和らげ、僕たちに向かって深々と頭を下げた。


「我々警察の内部調査よりも先に、わずかな物理的痕跡と電子データのノイズから、これほど完璧に事件の全貌を暴き出すとは。お二人の優れた観察眼と論理的思考がなければ、警視庁は永遠に内部の腐敗に気づけず、AIシステムの導入も根底から覆されていたかもしれない。月見坂市の治安を守る責任者として、心から感謝申し上げます」


 総監の言葉は、最大限の敬意と謝意に満ちていた。

 警察のトップが、ただの高校生に対してこれほど深く頭を下げるなど、普通では絶対にあり得ない光景だ。僕は恐縮して、慌てて何度も頭を下げ返した。

 しかし、如月瑠璃の反応は、僕の常識的な態度とは正反対のものだった。


「顔を上げるがよい、総監殿。お主のその感謝の言葉は、わしにとっては甚だ見当違いのノイズに過ぎん」


 如月さんは冷ややかに言い放ち、テーブルの上の四つの欠片をブレザーのポケットへと無造作に滑り込ませた。

 津嘉山総監が怪訝な顔で頭を上げる。


「見当違い、ですか。しかし、お嬢さんの推理のおかげで、我々は組織のガンを取り除くことができた。これは紛れもない事実です」


「お主は根本的な勘違いをしておる。わしは警察の正義に協力したわけでも、月見坂市の治安を守りたかったわけでもない」


 如月さんのアメジストの瞳が、夕暮れの光を受けて氷のように冷たく輝いた。


「権藤がどれほど私腹を肥やしていようと、鮫島がどのような裁きを受けようと、わしの知ったことではない。お主ら警察組織が内部でどれほど腐敗し、崩壊しようとも、わしの心には路傍の石ころほどの関心も湧かんのじゃ。保身に走る汚れた大人たちの感情など、ひどく単純で退屈なエラーに過ぎんからの」


 如月瑠璃の言葉には、一切の情動が存在しない。

 彼女は『情動の視座』を用いて、権藤副総監の焦りや鮫島さんの恐怖といった感情のメカニズムを完璧に理解し、分析することはできる。しかし、それに共感したり、哀れんだりすることは絶対にない。他人の感情は、彼女にとっては世界を構成する物理法則やデータと同じ、ただの観測対象でしかないのだ。


「では、なぜあなたはこれほどまでに執拗に、事件の真相を」


「わしが知りたいのは、ただ純粋なモノのルーツだけじゃ」


 如月さんは窓の外のスマートシティの街並みへと視線を向け、美しい横顔を晒した。


「一つの歪な青いゴムの塊が、どのような物理的圧力に耐え、破壊され、そしてなぜ奇妙な場所に千切れて配置されていたのか。わしはその事象の過去を完全に数学的に証明し、解き明かしたかっただけのこと。鮫島と権藤の犯行が白日に晒されたことも、警視庁を揺るがす汚職が崩壊したことも、すべてはそのルーツ解明の過程で生じた、ただの退屈な副産物に過ぎんのじゃよ」


 ただの退屈な副産物。

 その言葉の圧倒的な冷徹さに、津嘉山総監は絶句した。

 警察の威信を懸けた巨大な事件の解決を、彼女は一切の情動を交えることなく、ただのゴミクズのように切り捨てたのだ。彼女には、他者を救ったという自負も、悪を挫いたという正義感も、一切存在しない。あるのはただ、論理的なパズルを解き明かしたことへの純粋な知的好奇心の満腹感だけ。


「恐ろしいお方だ」


 津嘉山総監は絞り出すように呟き、それ以上は何も言わずに深く一礼した。

 彼の目には、如月コンツェルンの令嬢への敬意よりも、人間の情動を全く解さない特異な天才に対する、ある種の畏怖の念が強く刻まれていた。

 重厚な靴音を響かせて、総監が図書室を後にする。

 分厚い木製の扉が静かに閉まり、部屋にはついに僕と如月さんの二人だけが残された。


 僕は夕日に照らされる彼女の横顔を見つめながら、改めてその存在の異質さを噛み締めていた。

 警察組織のトップすらも震え上がらせる冷徹な論理。彼女は人間社会のルールや道徳ではなく、ただ物理的な真理のみを絶対的な尺度として生きている。


「これで、すべて終わったんですね。警察の汚職も暴かれたし、僕たちを狙う人もいなくなった」


 僕は静まり返った図書室の中で、ぽつりと呟いた。

 しかし、如月さんは僕の安堵に同調することなく、ブレザーのポケットから四つの青いゴムの欠片を取り出し、マホガニーのテーブルの上へと無造作に転がした。彼女のアメジストの瞳には、事件が解決したという充足感や平和への喜びなど微塵もない。


「馬鹿を言うな、サクタロウ。権力に溺れた鼠の駆除が終わっただけで、この青い不純物が提示した『真の謎』は、まだ手付かずのまま残されておるぞ」


 如月さんの声が、夕闇の迫る図書室に冷たく響いた。

 警察の汚職という巨大な闇すらも、彼女にとっては盤上の埃を払う程度の作業に過ぎなかったのだ。彼女の視線は、鮫島さんが暗闇で見つけられなかったこの四つの欠片を、幾何学的な四箇所へと意図的に配置して回った見えざる存在へと完全に定まっている。


「泥臭い副産物の処理はこれで終わりじゃ。次はこの盤面を上から俯瞰し、わしに挑戦状を叩きつけてきた『真の観測者』を丸裸にする番じゃよ」


 彼女の特異な歯車は、決して止まってはいなかった。



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