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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『不純物の行方』 ~section8:弾む思惑と、転がる真実~

 図書室の空気が、完全に凍りついた。

 警察の汚職という巨大な闇すらも、ただの前座に過ぎない。

 如月瑠璃の真の標的は、この不純物を彼女の元へと届けた、見えざる冷徹な観測者へと完全に定まっていた。


「すぐ背後に、誰かが、おった」


 鮫島さんの喉の奥から、空気が漏れるような掠れた声が這い出した。

 マホガニーのテーブルに両手をついた彼女の身体は、まるで極寒の雪原に放り出されたかのようにガタガタと激しく震え始めている。完璧にセットされていたはずの黒髪のまとめ髪から後れ毛が数本垂れ下がり、血の気が失せた端正な顔は、もはや生きた人間のものとは思えないほど蒼白に染まっていた。


「嘘や。そんなはずがあらへん。あの真っ暗な地下の廊下で、うちはたった一人やった。防爆扉の油圧モーターの音以外、誰の息遣いも聞こえへんかった。監視カメラの映像もループさせて、完全にうちだけの密室やったんや。そこに別の人間がおるはずが」


「お主の主観的な恐怖や願望など、物理空間の真理の前では何の意味も持たんぞ」


 如月さんはティーカップの縁を真っ白な手袋の指先で優雅になぞりながら、鮫島さんの悲痛な否定を無慈悲に切り捨てた。


「あの極限の圧力の中でスーパーボールが破断し、四方向に弾け飛んだ。その事実はお主自身が一番よく分かっておるはずじゃ。そしてお主は、清掃ドローンが巡回してくるまでの絶望的に短い時間の中、小型のライトを頼りに床を這いつくばって欠片を探した。自分の泥臭い手口を証明する、何よりも恐ろしい物理的証拠をな」


 鮫島さんは両手で顔を覆い、首を激しく横に振った。

 自分の致命的な失態を、現場に居合わせてもいない制服姿の少女に一言一句違わず言い当てられ、彼女の強靭な精神の防壁は音を立てて崩れ去ろうとしている。警察権力を笠に着て僕たちを脅しに来た時の余裕は、すでに微塵も残っていない。


「じゃが、見つからなかった。異常な反発力を持つポリブタジエンゴムが、暗闇の中でどのような軌跡を描いて跳ね回ったのか、お主の焦燥しきった脳では計算できなかったのじゃ。そして時間切れとなり、お主は欠片を残したまま現場から逃走するしかなかった」


「やめなはれ。やめてえな」


「お主は欠片が偶然、監視カメラの死角のどこかに転がり込んだのだと自分に言い聞かせ、必死に心を落ち着かせようとしたじゃろう。じゃが、現実はもっと残酷じゃ。光の届かない極限の暗闇の中で、十五トンの防爆扉が閉まる音に怯えながら、床を這いつくばってゴムの欠片を探していたお主のすぐ背後。そこに、音もなく立ち尽くす者がおったのじゃからな」


 如月さんの声が、鮫島さんの耳元に冷たく囁くように響く。


「お主のすぐ背後には、お主の醜い焦燥と失態を静かに見下ろしながら、弾け飛んだ欠片を悠々と拾い集めていた冷徹な第三者が確実におった。人間の目は、見たいものしか見ようとせん。特にお主のように、保身と焦燥という情動のノイズに支配された鼠の目には、暗闇に潜む捕食者の姿など映るはずもないのじゃよ」


 その言葉が図書室に響き渡った瞬間。

 鮫島さんは椅子から転げ落ちるようにして立ち上がり、図書室の壁際へと後ずさった。鋭利なピンヒールが古い床板に引っかかり、彼女は無様な悲鳴を上げてその場にへたり込む。

 彼女の目にはもう、目の前にいる僕や如月さんの姿は映っていないようだった。彼女が見ているのは昨日の地下の暗闇であり、自分の背後に立っていたかもしれない得体の知れない見えない悪魔の幻影だ。


「誰や。誰がうちを見とったんや。カメラの映像は五分間ループさせとった。あの五分間に、外から保管庫の前に来れる人間なんておるはずがあらへんのに」


「外から来たとは限らんぞ。ループ処理が始まる前から、すでにあの暗闇の死角に潜んでおったのかもしれん。あるいは、お主らと同じようにシステムの盲点を突いて物理空間を自在にすり抜ける手段を持っておったのか。いずれにせよ、そやつはお主らよりも遥かに高次元の視座から、この泥臭い事件を俯瞰しておったのじゃ」


 鮫島さんは頭を抱え、はんなりとした古い都の訛りを完全に崩壊させながら叫び声を上げた。

 彼女はエリート刑事としてのプライドも、証拠隠滅をやり遂げたという歪んだ自信もすべて奪われ、ただ底知れぬ未知の存在に対する根源的な恐怖に支配されている。僕もまた、背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような悪寒を感じていた。

 権藤副総監や鮫島さんのような警察の権力者など、この事件においては本当にただの噛ませ犬に過ぎなかったのだ。警察の汚職という巨大な闇ですら、その第三者にとっては如月瑠璃に謎を提示するための単なる盤面作りの小道具に過ぎない。


「幽霊や。あんな密室で、うちのすぐ後ろで欠片を拾うなんて、人間業やない。化け物や」


「化け物ではない。物理空間に干渉し、欠片を持ち去ってあちこちに配置した以上、それは紛れもなく現実の質量を持った観測者じゃ。ただ、お主らのような俗っぽい保身や恐怖という情動などとは無縁の、純粋な論理と概念的洞察力だけで行動する存在というだけのこと」


 如月さんは立ち上がり、深紅のペルシャ絨毯の上をゆっくりと歩き始めた。彼女の漆黒のドレスの裾が、夕暮れの光を受けて妖しく波打つ。


「鮫島よ。お主はその第三者が行った四箇所の配置を、ただの悪趣味なイタズラだと思っておるようじゃが、それは大きな間違いじゃ。あの配置には、お主ら警察組織の無能さを嘲笑う、完璧な幾何学的ロジックが込められておるのじゃからな」


「ロジックやと」


「そうじゃ。一つ目の欠片は、エントランスの観葉植物の湿った土の中。これは、警視庁という月見坂市の治安の要塞において、最も開かれた公共の場じゃ。二つ目は、食堂の隅にある誰も座らない椅子の裏側。これは、警察官たちが最も油断する休息の場における死角。三つ目は、洗面台の鏡の淵。いつ水で流されてもおかしくない、極めて危ういバランスの上に成り立つ場所じゃ」


 如月さんは歩みを止め、壁際で震える鮫島さんを真っ直ぐに見下ろした。


「そして四つ目は、昨日お主の足元で報告を行っていた若手刑事、岸田の靴の裏じゃ。これは特定の場所に留まらない移動する的であり、お主の部下という最も身近な存在を利用した盲点。公共、死角、危うさ、そして盲点。これら四つの要素を完璧に満たす場所に、あの短い時間で欠片を配置して回る。これがお主らに対する、絶対的な優位性の誇示でなくて何じゃと言うのじゃ」


 鮫島さんは顔を伏せたまま、何も言い返すことができなかった。

 自分が完璧な捕食者だと思い込み、密室を作り上げたつもりが、その密室ごと巨大な観察箱の中に入れられていたことにすら気づかなかったのだ。彼女はただの哀れな実験動物に過ぎなかった。


「サクタロウ。あのアクセスログのデータをもう一度、この哀れな鼠の目の前に提示してやれ」


 如月さんの指示を受け、僕は膝の上で強く握りしめていたタブレット端末を持ち上げた。

 鮫島さんの射抜くような、しかしひどく怯えた視線が僕の手元に注がれる。僕は覚悟を決め、椅子から立ち上がってタブレットの画面を彼女の顔のすぐ前へと突き出した。画面には、昨日の十七時四十二分から四十七分までの五分間、権藤副総監のアカウントから実行されたループ処理のコマンド履歴が、無慈悲なテキストデータとして表示されている。


「鮫島さん。あなたと権藤副総監は、過去の汚職の証拠を消すためにこのハッキングを実行した」


 僕は震える声を必死に押し殺し、明確な言葉として紡ぎ出した。


「でも、あなたたちはゴムの反発力の限界を見誤り、証拠の欠片を現場に残してしまった。そして僕たちに、その矛盾を完全に暴かれたんです」


 鮫島さんは僕の持つタブレットの画面を焦点の合わない目で見つめ、やがてゆっくりと目を閉じた。

 彼女の瞳からは先ほどまでの獰猛な光は完全に消え失せ、代わりに深い絶望と虚無が宿っていた。膝から完全に力が抜け、彼女はそのまま古い床板に崩れ落ち、力なく項垂れる。


「終わった」


 鮫島さんの口から、乾いた呟きが零れ落ちた。


「権藤副総監の権限があれば、特捜部の捜査もいずれは有耶無耶にできると思っとった。AIの本格導入さえ乗り切れば、うちらの過去は永遠に闇の中に葬られるはずやったんや。せやのに、こんな子供の玩具のせいで。顔も知らん第三者のゲームのせいで、全部、全部終わりや」


「自業自得じゃな。システムを欺くために物理の盲点を突いたつもりが、最後は自分自身が物理法則の限界に押し潰された。実に滑稽な幕切れじゃ」


 如月さんは冷ややかに言い放ち、興味を失ったかのように鮫島さんから視線を外した。

 彼女にとって、警察の汚職や権力者の転落など何一つ心を動かされるような事象ではない。それはすべて、見えざる第三者へと繋がるルーツを解き明かすための、退屈な副産物に過ぎないのだ。

 僕は大きく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。

 これで勝負はついた。如月さんの圧倒的な論理と僕の検索したデータが、警察権力の闇を完全に論破し、実行犯である鮫島さんを降伏させた。僕たちを脅かしていた現実に存在する暴力の脅威は、これで消え去ったのだ。


 しかし、図書室の静寂は長くは続かなかった。

 僕がタブレット端末をテーブルに戻そうとしたその時、廊下の奥から複数の重い足音がこちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。

 普通の生徒の足音ではない。統率の取れた、硬い革靴が床を力強く叩く音だ。

 僕はハッとして図書室の分厚い木製の扉を振り返った。床にへたり込んでいた鮫島さんもビクッと肩を震わせ、力なく顔を上げる。


「来たようじゃな。お主らの泥臭い舞台の、最後の幕引きの立会人が」


 如月さんはティーカップを手に取り、西日を背にして優雅に微笑んだ。

 その直後、図書室の重厚な扉が勢いよく開け放たれる。

 そこに立っていたのは、数人の特捜部の刑事たちを引き連れた、白髪交じりの威厳ある初老の男。月見坂市の治安の最高責任者であり、警視庁のトップ。津嘉山総監その人だった。

 スマートシティの闇を暴く論理の詰将棋は終わり、現実の警察組織による清算の時間が、今まさに始まろうとしていた。



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