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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『不純物の行方』 ~section7:追いつめられる鼠と、冷たい眼差し~

 翌日の放課後。

 旧校舎の図書室は、西日が差し込むいつもの静寂に包まれていた。空気中を舞う細かな埃が、窓から射し込むオレンジ色の光の帯の中でキラキラと反射している。


 マホガニーのアンティークテーブルの上には、僕が昨夜徹夜で抽出した警視庁のアクセスログのデータが表示されたタブレット端末と、四つに千切れたあの青いスーパーボールの欠片が置かれている。

 ビロードの椅子に深く腰掛けた如月瑠璃は、マイセンのティーカップを優雅な手つきで傾け、香り高いアールグレイを静かに味わっていた。彼女の美しいアメジストの瞳には、これから起きるであろう嵐への警戒心など微塵もなく、ただ退屈な時間をやり過ごすような気怠さだけが漂っている。


 対する僕は、生きた心地がしていなかった。

 昨日の今日だ。警視庁の地下深く、特別証拠保管庫の前でウロウロしていた怪しい高校生二人組。しかも一人は如月コンツェルンの令嬢を名乗り、防爆扉のヒンジを執拗に観察していた。証拠隠滅を図った実行犯がその報告を耳にすれば、自分たちの手口がバレたのではないかと必ず接触してくるはずだという如月さんの予言。

 僕は図書室の重厚な木製の扉を、祈るような気持ちで何度もチラチラと見遣った。誰も来ないでくれと心の中で叫び続ける。


 しかし、その凡庸な祈りは、無情にも鋭い靴音によって打ち砕かれた。


 図書室の分厚い扉が、ノックもなしにゆっくりと押し開かれる。

 古い蝶番が軋む音とともに姿を現したのは、如月学園の生徒でも教師でもない、見知らぬ大人の女性だった。

 年齢は三十代半ばだろうか。艶やかな黒髪を後ろでタイトにまとめ、身体のラインにぴったりと沿う特注の細身のパンツスーツを着こなしている。足元には、学校の古い床板にはおよそ似つかわしくない、鋭利なピンヒール。

 そして何より僕を震え上がらせたのは、彼女のアーモンド型の瞳の奥に宿る、獲物を品定めする爬虫類のような冷酷な光だった。


「お邪魔しますえ。ええと、ここが如月瑠璃お嬢様の特別室で間違いおへんか」


 女は室内をゆっくりと見渡し、はんなりとした古い都の訛りで口を開いた。

 その声音は一見すると柔らかく丁寧だが、底知れぬ威圧感が図書室の空気を一瞬にして氷点下まで引き下げた。僕は息を呑み、椅子から半分腰を浮かせたまま硬直した。


「如月お嬢様、そしてそちらが朔光太郎くんどすな。うちは警視庁捜査一課の鮫島京奈と言います。昨日、あんさんらがうちの地下保管庫へ見学に来はったと聞いて、少しばかりお話を伺いに参りましたんえ」


 鮫島と名乗った女刑事は、ピンヒールの音を響かせながらマホガニーのテーブルへと歩み寄ってきた。

 警察手帳を提示する手つきは滑らかだが、その視線はテーブルの上のタブレット端末と、青いゴムの欠片を瞬時に捉え、そして微かに険を帯びた。

 本物の刑事が、僕たちの秘密基地に乗り込んできたのだ。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、手のひらにじっとりと嫌な汗が滲む。相手は現職の警察官であり、自分のキャリアを守るためなら証拠隠滅すら平然とやってのける泥臭い実行犯だ。僕たち高校生など、彼女からすれば簡単に踏み潰せる羽虫のようなものだろう。


「お話、ですか。僕たちはただ、事前の環境スキャンを見学に行っただけで」


「朔くん、少し黙っておきなはれ。大人の話どす」


 僕の震える弁明を、鮫島さんは氷のような一瞥で冷たく切り捨てた。

 彼女はビロードの椅子で優雅に紅茶を飲む如月さんへと向き直り、ふわりとした、しかし明確な殺意を孕んだ笑みを浮かべる。


「如月お嬢様。うちも警察の人間どすさかい、如月コンツェルンの会長さんの威光は重々承知しております。せやけど、昨日の今日で、あないな立ち入り禁止の地下区画を学生さんに嗅ぎ回られるのは、警視庁としても少々都合が悪いんどす。遊び半分で警察の闇に首を突っ込むと、思わぬ火の粉を被ることになりますえ」


 それは明白な脅迫だった。

 これ以上嗅ぎ回るなら、学生だろうが容赦はしないという、権力を笠に着た大人の汚い圧力。普通の高校生なら、この凄みだけで泣いて謝り、二度と関わらないと約束するだろう。僕だって今すぐ土下座して逃げ出したい気分だ。


 しかし、如月瑠璃はティーカップをソーサーにコトリと置き、美しい唇から微かなため息を漏らしただけだった。


「ひどく耳障りなノイズじゃな。わざわざわしの図書室まで出向いてきて、その程度の俗っぽい脅し文句しか口にできんのか」


「なんやて」


 鮫島さんの表情から、作られたようなはんなりとした笑みがスッと消え失せた。


「火の粉を被るのはこちらではない。すでに炎に包まれ、逃げ場を失ってわしの元へと転がり込んできた哀れな鼠は、お主の方じゃろうが。鮫島とやら」


「お嬢様、言葉には気ぃつけなはれや。うちかて、我慢の限界というものがありますえ」


「我慢の限界など、物理法則の前では何の意味も持たん。お主が昨日、あの地下の特別証拠保管庫で経験した限界と同じようにな」


 如月さんの言葉に、鮫島さんの肩がピクリと跳ねた。

 彼女の細い指先が、パンツスーツのポケットの端を強く握りしめるのが見えた。


「何を訳の分からんこと言うてはるんですか。うちはただ、あんさんらに警告を」


「十五トンの特殊チタン合金で作られた防爆扉。それを閉めようとする油圧モーターの圧力は二百メガパスカル。対するは、縁日の屋台で売られているポリブタジエンゴム製の玩具。直径三十ミリのその球体は、扉のヒンジの奥深く、十二ミリの隙間に楔としてねじ込まれた」


 如月さんは立ち上がり、真っ白な手袋の指先で、テーブルの上の青いゴムの欠片をスッと鮫島さんの方へと滑らせた。


「お主はシステムに電子的なアクセスログを残さぬため、このゴム球の反発力を用いて扉の先端に三・八ミリの隙間を作り出し、物理的にデッドボルトを操作した。極めて泥臭く、しかし理にかなった物理的ハッキングじゃ」


 鮫島さんは喉の奥で短い悲鳴のような息を呑み、一歩後ずさった。

 彼女の顔から完全に血の気が引き、爬虫類のように冷徹だった瞳が、信じられないものを見るように限界まで見開かれている。


「な、何を。何の話どす。そないな子供のオモチャで、あの完璧な防爆扉が開くはずがあらへん」


 鮫島さんの声は大きく上擦り、はんなりとした独特のイントネーションが崩れ始めていた。彼女の全身から、隠しきれない激しい焦燥と恐怖の情動が、泥水のように溢れ出しているのが僕の目にもはっきりと分かった。

 自分が完璧にやり遂げたはずの、誰にも知られていない泥臭いアナログな手口。それを、目の前にいる制服姿の少女が、まるで特等席で見ていたかのように、具体的な数値とともにスラスラと読み上げているのだ。その恐怖は計り知れない。


「開くはずがないと強がるのは勝手じゃが、物理的な痕跡は嘘を吐かん。あの扉のヒンジの奥には、圧力と摩擦熱によって限界を突破し、四方向に弾け飛んだこのゴム球の成分が、極小の青い摩擦痕としてしっかりと焼き付いておったぞ」


「摩擦痕。あんな暗闇で、そんなミクロの痕跡まで見つけ出したと言うんか」


 鮫島さんはギリッと歯を食いしばり、僕たちを交互に睨みつけた。彼女の瞳の奥には、もはや警察官としての矜持などなく、追いつめられた犯罪者の獰猛な殺意だけが渦巻いている。


「せやから何やと言うんどす。仮にそんなトンデモない方法で扉が開いたとしても、うちがやったという証拠がどこにありますの。廊下の監視カメラの映像には、うちの姿はおろか、扉が開いた映像すら一秒も映っちゃおらんのえ」


「そこですよ、鮫島さん」


 僕は震える膝を両手で強く押さえつけ、決死の覚悟で会話に割って入った。

 ここで僕がデータの裏付けを出さなければ、如月さんの論理はただの想像だと一蹴されてしまう。助手としての意地が、僕にタブレット端末を手に取らせた。


「監視カメラに映っていないのは、あなたが映らないように映像を改ざんしたからです」


僕はタブレットの画面を鮫島さんに向けた。


「昨日の十七時四十二分から四十七分までの五分間。特別証拠保管庫の前の映像データは、過去の誰もいない廊下のループ映像に差し替えられています。データの継ぎ目に生じた圧縮ノイズが、その決定的な証拠です」


「ノイズやと」


「はい。そして、この五分間のループ処理を実行したシステムのアクセスログも、僕のパソコンの中に保存してあります」


 僕は鮫島さんの射抜くような視線に耐えながら、画面に表示された一行のテキストデータを読み上げた。


「コマンドの発行元は、ユーザーID、ADM-002。権藤晴彦副総監のアカウントです。あなたと権藤副総監が結託して監視カメラの目を塞ぎ、その空白の五分間のうちに証拠保管庫の扉を物理的にこじ開けた。これが、電子データと物理空間の痕跡から導き出された、逃れようのない真実です」


「おのれ、ガキの分際で」


 鮫島さんは低く唸り声を上げ、細身のスーツの懐へと手を伸ばした。

 警察官が懐に隠し持っているもの。それが手錠なのか、あるいはもっと致命的な凶器なのかは分からない。僕は咄嗟に身構え、タブレットを盾のように胸の前に構えた。


 しかし如月さんは一歩も引くことなく、冷ややかなアメジストの瞳で鮫島さんを真っ直ぐに見据えた。

 その瞳の奥には、鮫島さんの放つ殺気や焦燥に対する恐怖は一切ない。ただ、無知な生き物がもがく様を観察するような、圧倒的なまでの優位性と知的な傲慢さだけが存在していた。


「無駄な足掻きはやめるのじゃな。お主がここでわしらに危害を加えようと、権藤のIDが記録されたアクセスログと、この青いゴム球の欠片のデータは、すでに複数の暗号化サーバーに分散して保存してある。お主らがどれほど権力を使おうと、物理的に隠滅することは不可能じゃ」


「くそっ、何でどす。何でこんなガキどもに、うちらの完璧な計画が」


 鮫島さんは懐に入れていた手を震わせながらゆっくりと引き抜き、その場に崩れ落ちるようにして近くの椅子に手をついた。

 彼女の肩が激しく上下に揺れ、荒い呼吸が図書室の静寂を切り裂く。はんなりとした古い都の訛りという仮面は完全に剥がれ落ち、そこには自分の保身のために手段を選ばず、結果としてすべてを失おうとしている泥臭い小悪党の素顔だけが晒されていた。


「完璧な計画など、初めから存在せん。お主らはただ、スマートシティという巨大なシステムの中で、自分たちに都合の良いデジタルの盲点を突いただけじゃ。じゃが、物理空間における物質の振る舞いと限界を、致命的なまでに見落としておった」


 如月さんはマホガニーのテーブルに両手をつき、鮫島さんを見下ろすようにして言葉を紡いだ。


「あの防爆扉の油圧モーターが、最後にシステムを密閉するために出力を上げる仕様。そして、ポリブタジエンゴムが二百メガパスカルの圧力に耐えきれず、限界を突破して破断するという物理的真理。お主はその圧倒的な物理法則の前に敗北し、証拠となる楔を四つに引き裂かれ、暗闇の中に散ぼらせたのじゃ」


 鮫島さんは顔を伏せたまま、何も言い返すことができなかった。

 ただの高校生だと思っていた相手に、自分の手口のすべてをミクロの単位まで解き明かされ、完全に退路を断たれたのだ。その絶望と屈辱は、エリート警察官僚としての彼女のプライドを粉々に打ち砕いていた。


 僕は大きく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。

 これで勝負はついた。如月さんの圧倒的な論理と、僕の検索したデータが、警察権力の闇を完全に論破したのだ。あとはこの証拠をしかるべき場所に突きつければ、権藤副総監と鮫島さんは逮捕され、事件は解決する。

 僕はホッとして、如月さんの方へと顔を向けた。


 しかし。

 如月瑠璃の特異な歯車は、まだ止まっていなかった。

 彼女のアメジストの瞳は、絶望に打ちひしがれる鮫島さんを見て満足するどころか、さらに深く、暗く、底知れぬ知的な飢餓感を燃え上がらせていたのだ。


「さて、実行犯としての泥臭い種明かしはこれで終わりじゃ。じゃが、この鑑定における極上の謎は、まだ何一つ解明されておらんぞ」


 如月さんの声が一段階低く、図書室の空気を凍らせるような冷たさを帯びた。

 鮫島さんがハッと顔を上げ、恐怖に引き攣った目で如月さんを見つめる。


「お主は昨日のあの五分間の暗闇の中で、弾け飛んだこの青いゴムの欠片を必死に探したはずじゃ。清掃ドローンが来るまでのわずかな時間、床に這いつくばってな。しかし、四つの欠片は一つ残らずお主の目の前から消え失せておった」


 如月さんは真っ白な手袋の指先で、テーブルの上の四つの欠片をトントンと叩いた。


「なぜ、弾け飛んだ直後の欠片が、密室空間から手品のように消失したのか。お主はその得体の知れない事象に怯え、こうしてわしらの元へやってきたのじゃろう」


「あんさんらが、あの暗闇から盗み出したんと違うんか」


鮫島さんは掠れた声で絞り出した。


「馬鹿を言うな。わしらが現場を訪れたのは今日の放課後じゃ。それに、こんな泥臭い隠蔽工作に自ら手を汚すような真似はせん」


 如月さんの唇の端が、三日月のように吊り上がった。

 それは、自分と同じ、あるいはそれ以上の冷徹な視座を持つ見えざる敵の存在を確信した者の、歓喜に満ちた笑みだった。


「良いか、鮫島。お主らが回収し損ねたこの四つの欠片は、何者かの手によって警視庁の暗闇から持ち去られ、そしてエントランスの観葉植物、食堂の椅子の裏、洗面台の淵、さらには若手刑事の靴の裏という、極めて悪趣味で幾何学的な四箇所に、まるでチェスの駒のように配置されておったのじゃ」


「なんやて」


 鮫島さんの顔が、今度こそ完全な恐怖で歪んだ。


「お主らが防爆扉の前で必死に泥臭い工作を行っていたあの空白の五分間。お主らのすぐ背後には、お主らの焦燥と失態を特等席で静かに観測し、弾け飛んだ欠片を悠々と拾い集めた冷徹な第三者が確実におったのじゃよ」


 図書室の空気が、完全に凍りついた。

 警察の汚職という巨大な闇すらも、ただの前座に過ぎない。

 如月瑠璃の真の標的は、この不純物を彼女の元へと届けた、見えざる冷徹な観測者へと完全に定まっていた。



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