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第6巻:如月令嬢は『鉄扉の跳躍を数えない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『不純物の行方』 ~section6:監視カメラと、空白の五分~

 月見坂市の中枢から遠く離れた、旧市街の古い団地。

 先ほど黒田さんの運転する漆黒の高級セダンで最寄り駅まで送ってもらった僕は、父親が夜勤で不在の静かな部屋に帰り着くなり、逃げ込むようにして自室のデスクの前に座り込んだ。

 スマートシティの完璧な空調とは無縁の、少し隙間風の入る六畳間。水槽の中で二匹の金魚がポコポコと泡を立てて泳ぎ、壁には僕が魂を捧げる地下アイドル『GyoGyoっとラブ』のポスターが所狭しと貼られている。最新のAIガジェットと古いアナログの生活感が入り混じるこの空間だけが、今の僕にとって唯一の安全地帯だった。


 僕は震える手でマグカップにコーラを注ぎ、一気に喉に流し込んだ。強烈な炭酸の刺激が、警視庁の地下で極限まで張り詰めていた神経を少しだけ解きほぐしてくれる。

 しかし、休んでいる暇はない。僕のデスクの上に鎮座する、自作のハイエンド・デスクトップパソコン。その真っ黒なモニター画面が、僕の帰還を待っていたかのように静かに起動音を鳴らした。

 机の上のスマートフォンが短く振動し、暗号化された通話アプリに如月さんからの着信が表示される。僕は通話ボタンを押し、ヘッドセットを耳に装着した。


「戻りました、如月さん。今からパソコンを立ち上げて、指定されたバックドアから警視庁のネットワークに接続します」


「ご苦労じゃ、サクタロウ。じいじの権限を利用して構築した暗号化プロトコルのキーは、すでにそちらの端末に送信してある。特捜部の連中が血眼になって探している電子の海の底へ、誰にも気づかれずに潜り込むのじゃ」


 ヘッドセットから聞こえる如月さんの声は相変わらず涼やかで、微塵の恐れも抱いていない。

 僕はキーボードに両手を乗せ、送られてきた複雑な文字列を打ち込んだ。月見坂市のシステム基盤を構築した如月コンツェルンが、緊急メンテナンス用に密かに用意していた裏口へのアクセスコードだ。

 エンターキーを叩くと、画面に無数の文字列が滝のように流れ落ち、やがて警視庁の内部ネットワークを示す堅牢なインターフェースが姿を現した。


「繋がりました。信じられないくらいあっさりと、警視庁のメインサーバーの奥底です。もしこれがバレたら、僕は確実に国家反逆罪か何かで刑務所行きですよ」


「大げさな奴じゃな。如月コンツェルンの最高レベルの暗号化を経由している以上、お主のIPアドレスが逆探知されることは物理的にあり得ん。さあ、余計なノイズは捨ててタスクに集中せよ。目的はただ一つ、地下の特別証拠保管庫前を映し出している監視カメラの、昨日の映像データじゃ」


 僕は息を止め、マウスを操作して膨大なアーカイブの階層を潜っていく。

 フロアごとの監視カメラの配置図を開き、地下最深部の特別区画を指定する。防爆扉の真正面に設置された、カメラナンバー『B5-04』の映像ログ。

 昨日、あの青いスーパーボールが楔としてヒンジにねじ込まれ、十五トンの圧力に耐えきれずに千切れて弾け飛んだ、まさにその時間帯のデータだ。


「見つけました。昨日の夕方、如月さんのお爺さんが津嘉山総監と会談を行っていた時間帯の映像ファイルです」


「よし。再生してみよ。そして、お主のそのオタク特有の異常なまでの画面への執着力で、映像の中に隠された不自然な継ぎ目を探し出すのじゃ」


 僕は映像ファイルを再生し、モニターに全画面表示させた。

 画面には先ほど僕たちが行ってきたばかりの、無骨なコンクリートの廊下と巨大な防爆扉が映し出されている。白黒の暗視モードに近い、高解像度の無機質な映像だ。

 画面の右下には、ミリ秒単位で現在時刻を示すタイムスタンプが規則正しく時を刻んでいる。映像の中では誰も通らず、防爆扉もピタリと閉ざされたままだ。


「何も起きませんね。扉は閉まったままだし、怪しい人物の姿も全く映っていません。特捜部の刑事たちがこの映像を見て、密室からモノが消えたと判断するのも無理はないです」


「人間の目は、動きのない風景を前にすると途端に認識能力が低下する生き物じゃ。タイムスタンプという数字の羅列が正常に進んでいるだけで、映像そのものが正常であると錯覚してしまう。じゃが、サクタロウ。犯人は必ずあの扉の前で泥臭い物理工作を行っておる。カメラの目を欺くための改ざんが、必ずどこかに施されているはずじゃ」


 如月さんの言葉を受け、僕は再生速度を落とし、映像をフレーム単位で細かく観察し始めた。

 僕は普段から、推しの地下アイドル『魚魚ラブ』のライブ映像をコマ送りにして、最高の瞬間のスクリーンショットを撮影するという高度な訓練を積んでいる。画面の僅かなノイズや、ピクセルの不自然な乱れを見つけ出すことにかけては、警察の捜査員にも引けを取らない自信があった。


 廊下の隅に落ちる影の濃淡。カメラのレンズに付着した極小の埃のシルエット。

 僕はモニターに顔を近づけ、画面の隅々まで舐め回すように視線を走らせる。

 そして、再生時間が『17時42分』を指した瞬間。僕の眼球が、画面の左端で起きたごく僅かな違和感を捉えた。


「如月さん。今、映像が一瞬だけ飛びました」


「ほう。詳しく報告せよ」


「タイムスタンプの数字は正常に進んでいます。でも、画面の左下、コンクリートの壁のシミの形が、ほんの一フレームだけ不自然にズレたんです。まるで別の映像を切り貼りしたみたいに」


 僕はキーボードを叩いて映像を巻き戻し、違和感のあった箇所を何度もコマ送りで再生した。

 間違いない。タイムスタンプが『17:42:00』から『17:42:01』に切り替わるその一瞬、映像全体に微細な圧縮ノイズが走り、壁のシミや影の形がコンマ数ミリだけ元の位置からジャンプしている。


「これ、ただのノイズじゃありません。映像が差し替えられています」


 僕は確信を持って報告した。


「タイムスタンプの表示だけはシステム側の時計と同期して動かしたまま、背景の映像そのものを過去の誰もいない廊下の映像で上書きしているんです」


「映像のループ処理じゃな。いかにも泥臭く、しかし最も効果的な目隠しじゃ」如月さんの声に、知的な歓喜が混じる。「その偽装されたループ映像は、何分間続いておる」


 僕は映像を早送りし、再び不自然な圧縮ノイズが生じる終了地点を探した。

 次の継ぎ目は、ちょうど五分後に現れた。


「終了地点は17時47分です。つまり、17時42分から47分までのちょうど五分間。この五分間だけ、特別証拠保管庫の前の映像は完全に偽のループ映像にすり替えられています。犯人はこの空白の五分間のうちに防爆扉のヒンジにスーパーボールをねじ込み、内部に侵入して証拠を隠滅したんです」


 五分間。

 あの巨大な防爆扉を物理的に騙し、内部に侵入して証拠を焼き払い、そして弾け飛んだゴムの欠片を探し回るには、あまりにも短く、絶望的な焦燥を伴う時間だ。

 犯人があの暗闇の中でどれほど必死に欠片を探し、そして見つからないまま時間切れとなって現場から逃走したのか。その泥臭い姿が、僕の脳裏にありありと浮かび上がってきた。


「見事じゃ、サクタロウ。お主のその卓越した観察眼が、特捜部の盲点を完全に突いたな。物理的なヒンジの摩擦痕と、電子データ上の空白の五分間。この二つが合致したことで、密室の謎は完全に崩壊した」


「でも、如月さん。驚くのはここからです」


 僕はマウスを操作し、監視カメラの映像データそのものではなく、そのカメラを制御しているシステムのアクセスログの階層へとハッキングの深度を下げた。


「監視カメラのリアルタイム映像を、警報を鳴らすことなく特定の五分間だけループ処理に差し替える。そんな芸当ができるのは、システムに外部から侵入したクラッカーではありません。カメラの制御システムそのものに、正規の権限でメンテナンス用のテスト映像を流せと命令を下せる立場の人間だけです」


「そして、その命令を下したユーザーのIDが、ログに残っておるのじゃな」


 僕は画面に表示された一行のテキストデータを凝視し、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 そこに記されていたのは、月見坂市の警察組織における、絶対的な権力構造の頂点に近い数字だった。


「残っています。ループ処理の実行コマンドを発行したユーザーIDは『ADM-002』。警視庁のメインシステムにおける、最高管理者の次点に位置するアカウントです。IDの001が津嘉山総監だとしたら、002の権限を持っているのは」


「警視庁副総監。権藤晴彦(ごんどう はるひこ)、という男じゃな」


 如月さんが、一切の感情を交えずにその名を口にした。

 昨日、彼女の祖父と津嘉山総監の会談の場に同席していたという、警察組織のナンバーツー。


「権藤副総監。その人が、自分のアカウントを使って監視カメラの目を塞いだ。つまり、今回の証拠隠滅事件の黒幕は、警察のトップに次ぐ権力者だったってことです」


 僕は背もたれに深く寄りかかり、天井を仰ぎ見た。

 ただの青いスーパーボールの欠片から始まったルーツ探しが、まさかこんな途方もない巨悪に行き着くなんて思いもしなかった。警察のトップエリートが、自らの過去の汚職を隠蔽するために子供の玩具を使って泥臭い物理的ハッキングを仕掛けたのだ。


「黒幕が判明したことで怯えておるのか、サクタロウ」


ヘッドセットから、如月さんの冷ややかな声が響いた。


「権藤という男がどれほどの権力を持っていようと、そんなものは人間の作ったちっぽけな社会システムに過ぎん。わしにとって重要なのは、彼が仕掛けた物理的ハッキングの痕跡が、見事に数学的に証明されたという事実だけじゃ」


「如月さんは平気かもしれませんけど、僕はただの高校生ですよ。警察の副総監が絡んでるなんて知ったら、普通の人間は震え上がりますって。このデータ、どうするつもりですか。匿名で特捜部にタレコミますか」


「そんな退屈な真似はせん。特捜部の連中が権藤の権力に屈して事件を握り潰す可能性もあるからの。それに、まだこの事件には解き明かさねばならん事実が残されておる」


 如月さんの声のトーンが、一段階下がった。

 僕はモニターに映る、無機質なコンクリートの廊下の映像を見つめた。


「まだ残されている事実って、あの弾け飛んだスーパーボールの欠片のことですか。犯人が回収し損ねたあの四つの欠片を拾い集めて、あちこちに配置して回った誰かの」


「いかにも。権藤は自らの権限でカメラの目を塞ぎ、手足となる実行犯を地下へと送り込んだ。じゃが、その完璧な隠蔽工作の最中に予期せぬ物理的破断が起き、欠片は弾け飛んだ。そして、その五分間という極限の暗闇の中で、実行犯が見つけられなかった欠片を悠々と拾い集めた存在が確実におるのじゃ」


 空白の五分間。

 監視カメラの目が塞がれ、誰も見ることができないはずのその密室空間に、実行犯ともう一人、得体の知れない観測者が潜んでいたのだ。


「実行犯は今頃、消えた欠片の行方に怯え、疑心暗鬼のどん底で狂いそうになっておるじゃろうな。自分の手口を完全に証明する物理的証拠が、誰の手にあるのか分からないのじゃから」


 如月さんは心底楽しそうに、残酷な笑みを声に滲ませた。


「そして、焦燥に駆られた鼠は、必ず自らボロを出す。保管庫の扉のヒンジを嗅ぎ回っていたわしらの存在に気づけば、必ず直接接触を図ってくるはずじゃ。自らの罪の痕跡を、力ずくで消し去るためにな」


「接触を図ってくるって、向こうから僕たちを襲ってくるかもしれないってことですか。冗談じゃないですよ、相手は現職の警察官なんですよ」


「案ずるな、下僕よ。わしの完璧な論理の前に、汚職にまみれた泥臭い鼠など恐るるに足らん。お主はただ、その見つけ出したログデータを手元に保存し、明日も通常通りに登校してくるがよい」


 如月さんはそれだけを言い残し、一方的に通信を切断した。

 ヘッドセットからツー、という無機質な電子音が響く。

 僕はモニターに表示された『ADM-002』という権力者のIDと、空白の五分間を証明するタイムスタンプの羅列を、指定された暗号化フォルダへと慎重に保存した。

 警察組織のナンバーツーが自ら手を下した隠蔽工作の決定的証拠。それが今、僕の自作パソコンのハードディスクの中に眠っている。

 僕はマグカップの底に残ったぬるいコーラを一気に飲み干し、深くため息をついた。明日の放課後、あの旧校舎の図書室で、如月さんの冷徹な論理がいよいよ警察権力と真正面から激突するのだ。



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