第2話『不純物の行方』 ~section5:スマートシティと、泥臭い手口~
月見坂市の心臓部たる警視庁本庁舎のメインエントランスを抜けると、外はすっかり完全な夜の帳に包まれていた。
無数にそびえ立つ高層ビルの窓から漏れる光と、AIによって交通量や歩行者の数に合わせて最適化された街灯の青白い光が、無機質なスマートシティの暗闇を幾何学的に彩っている。自動運転の車両が音もなく滑るように大通りを行き交い、空には防犯用の小型ドローンが赤いランプを点滅させながら等間隔で浮遊していた。
エントランスの階段を降りた先、車寄せのスペースには、すでに一台の漆黒の高級セダンが滑り込むように停車していた。車の横には、筋骨隆々の屈強な体躯をオーダーメイドのスーツに包んだ五十代手前の男が、直立不動で待機している。如月家のボディーガードの中でも屈指の実力を誇る、如月さんの専属護衛である黒田さんだ。
「お迎えに上がりました、お嬢様。本日はずいぶんと遅い時間まで、警視庁の視察任務にご尽力されたのですね」
黒田さんは深く一礼し、後部座席の重厚なドアをスムーズに開け放った。彼の厳つい顔の奥には、主である如月さんへの絶対的な忠誠心と、こんな夜遅くまで彼女を危険な場所にとどまらせてしまったことへの微かな過保護さが滲み出ている。
僕は警視庁の敷地を出た途端、肺の奥底に溜まっていた重苦しい空気を一気に吐き出し、黒田さんにペコペコと軽く会釈をしてから車へと乗り込んだ。冷たい夜風が火照った顔を撫でていく。地下の特別証拠保管庫で味わった、特捜部の刑事たちの殺気立った視線と古いカビの匂いが、ようやく僕の身体から剥がれ落ちていくのを感じた。
「ご苦労じゃ、黒田。じいじのシステム導入に向けた最終確認ゆえ、少々手間取ってな。すぐに屋敷へ戻るぞ。サクタロウは途中の駅で降ろしてやれ」
如月瑠璃は歩みを止めることなく、如月学園の深いネイビーのブレザーの裾をわずかに払い、優雅な動作で僕の隣のシートへと腰を下ろした。
黒田さんが静かにドアを閉めると、外界の喧騒は分厚い防弾ガラスと防音材によって完全に遮断された。車が滑らかに発進し、月見坂市のネオンの海へと溶け込んでいく。
「如月さん、本当に寿命が縮みましたよ。あんな特捜部のど真ん中で証拠探しをするなんて、心臓がいくつあっても足りません」
僕はスクールバッグを膝の上に抱え込み、隣に座る美少女を見遣った。
「でも、あの分厚いチタン合金のヒンジの奥に、本当に青いゴムが焼き付いてるなんて。如月さんの推測が、物理空間で完全に証明されたんですね」
如月さんは最高級の革張りシートに深く背中を預け、涼やかな横顔を窓の外の夜景に向けていた。
彼女の艶やかな黒髪が、車のわずかな振動に合わせてサラサラと揺れる。彼女の足取りや態度には、警察の総本山に潜入して違法スレスレの現場検証を行ってきたことへの焦りも、巨大な権力の闇に触れたことへの恐怖も一切存在しない。あるのはただ、難解なパズルを解き明かした後の極上の充足感だけだ。
「いかにも。データ上の計算式と、物理的な摩擦痕。この二つが完全に一致したことで、あの防爆扉がスーパーボールを楔にしてこじ開けられたという事実は、揺るぎない真理となった」
如月さんは満足げに頷き、視線を僕へと戻した。
「実行犯はあの十五トンの扉が閉まる直前にゴム球を捻り込み、センサーの許容誤差の範囲内で隙間を作った。そして内部のデッドボルトをワイヤーか何かで固定し、保管庫を開け放って目的の証拠品を灰にしたのじゃろう。実に泥臭く、しかし理にかなった物理的ハッキングじゃ」
僕は後部座席の暗がりの中で、先ほどのエレベーターの中で如月さんが口にした言葉を反芻していた。
「さっきエレベーターの中で、手口の矛盾の中に犯人の正体が浮かび上がっているって言いましたよね。どういうことなんですか。あの青い摩擦痕だけじゃ、誰がゴムを挟んだのかまでは分からないじゃないですか」
僕が問いかけると、如月さんはアメジストの瞳を細め、唇の端に知的な笑みを浮かべた。
「サクタロウ、物事は常に多角的な視点から俯瞰せねばならん。犯人が残した痕跡だけではなく、犯人がなぜその手段を選ばざるを得なかったのかという背景にこそ、正体へと至る論理の糸口が隠されているのじゃ」
「それはつまり、電子的にハッキングできなかったからですよね。警視庁のメインフレームのセキュリティが強固すぎて、プロのクラッカーでも破れないから、スーパーボールなんていうアナログな方法を使った」
僕の回答に対し、如月さんは小さく首を横に振った。
「半分正解で、半分不正解じゃ。問題はセキュリティの強固さではない。犯人が最も恐れていたのは、電子的な痕跡が残ることそのものじゃよ。来月からこの警視庁には、じいじたち如月コンツェルンが構築した最新のAIシステムが本格導入される。過去のすべてのデータが照合され、一切の矛盾も許されなくなる厳格な監視体制じゃ」
如月さんの言葉に、僕はハッと息を呑んだ。
「もし犯人が正規のアクセス権限を持っていたとしても、それを使って扉を開ければ、誰がいつ入室したかというアクセスログがシステム上に永遠に刻み込まれてしまう。あるいは高度なクラッキングで扉を開けたとしても、システムを書き換えたという異常記録自体は防衛プログラムによって検知され、痕跡として残る。AIの事前スキャンが迫る中で、そんな真似をすれば自ら首を絞めるようなものじゃ」
「だから、システムには正常に扉が閉まったと思い込ませる必要があったんですね。アクセスログには誰も入室していないことになっている。でも現実の物理空間では、スーパーボールの楔によって数ミリの隙間が空いていて、そこから物理的に鍵を開けて侵入した」
僕の脳内で、犯人のとった行動の合理性が完璧に組み上がっていく。
デジタルを過信するスマートシティにおいて、電子的な痕跡を残さない唯一の方法。それは、システムを欺きながら物理的な干渉を行うことだ。
「ご名答じゃ。犯人は電子の海に足跡を残さぬため、極めてアナログで泥臭い物理的ハッキングを選択した。しかしサクタロウ、ここからがこの事件の最も美しく、そして滑稽な矛盾点なんじゃよ。お主の凡庸な視点で、その防爆扉の前で工作を行う犯人の姿を想像してみよ」
如月さんに促され、僕は頭の中にあの薄暗い地下の廊下を思い描いた。
巨大な防爆扉が油圧モーターの駆動音を響かせてゆっくりと閉まっていく。犯人はその隙間に身を潜め、タイミングを見計らってポケットから青いスーパーボールを取り出す。そしてヒンジの奥深くに力任せにゴム球を捻り込み、残った数ミリの隙間から細いワイヤーを差し込んで、必死にカンヌキを引っ掛けて操作する。
想像すればするほど、それは泥棒映画のワンシーンのような、ひどく泥臭くて滑稽な作業だ。そして僕は、ある決定的な事実に気づいて目を見開いた。
「ちょっと待ってください。そんなの絶対に無理ですよ。いくらアクセスログをごまかせたとしても、あんな扉の前でコソコソとゴムを挟んだりワイヤーを通したりしてたら、監視カメラにバッチリ映っちゃうじゃないですか」
僕の叫びに近い声が、静寂に包まれた車内に響いた。前席でハンドルを握る黒田さんが、ルームミラー越しに微かに眉を動かしたのが見えたが、彼は決して主たちの会話に口を挟むような真似はしない。
ここは月見坂市の警視庁だ。しかも過去の重大な証拠品が眠る特別証拠保管庫の前である。死角など存在するはずがない。二十四時間体制でAIが映像を解析し、不審な動きがあれば即座に警報が鳴るシステムが組まれているはずだ。
「防爆扉のシステムを物理的に騙せたとしても、廊下にある監視カメラの目は誤魔化せません。犯人が扉の前で泥臭い工作をしている姿は、完全に映像として記録されているはずです。それなのに特捜部の刑事たちは、監視カメラに何も映っていなかったから密室からモノが消えたって騒いでるんですよね」
「いかにも。そこに気づいたか、下僕よ」
如月さんは街灯の光を受けて妖しく輝くアメジストの瞳で、僕を真っ直ぐに見据えた。
「それが最大の矛盾じゃ。システムに痕跡を残したくないからこそアナログな物理工作を選んだ。じゃが、その物理工作そのものが、今度は監視カメラという別のシステムに記録されてしまう。この致命的な矛盾をクリアするための唯一の手段。それはお主の言う通り、カメラそのものに犯行の瞬間を見えなくさせること以外にあり得ん」
「カメラを見えなくさせる。つまり、犯行の時間帯だけ監視カメラの映像を別の映像に差し替えるとか、ループ処理させるとかして、特捜部が見ても異常がないように映像データを改ざんしたってことですか」
「その通りじゃ。そしてサクタロウ、考えてもみよ。警視庁の最深部を映し出す監視カメラのリアルタイム映像を、警報を鳴らすことなく意図的に操作し、後から特捜部が確認しても不自然さがないように改ざんできる人間とは、一体何者じゃ」
如月さんの問いかけに、僕の背筋を冷たい悪寒が駆け上がった。
外部のハッカーには警視庁のメインフレームへの侵入は不可能だ。物理的にカメラを壊せばすぐに警備部隊が駆けつける。映像をシームレスに差し替え、それをシステムの正常な動作として処理できる人間。
それはたった一つしか考えられない。
「犯人は、警視庁のシステム監視権限をいじれる立場の人間。それも、特捜部が映像を確認するよりも前に堂々とデータに干渉できるくらい上の階級にいる、内部の警察官」
僕の口から出た結論は、夜の冷たい空気よりも恐ろしいほどの説得力を持って響いた。
警察の内部の人間が、自分の過去の汚職の証拠を隠滅するために、自らの権限を使って監視カメラを盲目にし、防爆扉の前で子供の玩具を使ったアナログな物理工作を行った。
これが青いスーパーボールの欠片と、チタン合金のヒンジに残された摩擦痕が導き出した、逃れようのない論理の帰結だった。
「完璧な推理じゃ、サクタロウ。お主の言う通り、実行犯は警視庁の上層部に巣食う腐敗した鼠じゃ。AIシステムが本格導入されれば、これまでの自分たちの不正がすべてデータとして白日に晒される。それを恐れた内部の権力者が、自らの手足を使って物理的に証拠を消し去ったのじゃ」
如月さんは満足げに微笑み、再び窓の外へと視線を向けた。
僕は膝の上のスクールバッグを強く抱きしめながら、自分たちがどれほど巨大な闇の尻尾を踏みつけてしまったのかを痛感していた。僕たちはただの高校生だ。相手は警察権力を笠に着た、証拠隠滅すらも平然とやってのける汚れた大人たちだ。もし僕たちがこの真相に気づいていると知られたら、ただでは済まない。
「如月さん。これ、本当にヤバいですよ。相手が警察の上層部なら、僕たちなんか簡単に社会的に抹殺されちゃいます。もう現場の証拠も見つけたし、トリックも犯人の目星もついたんだから、ここらで終わりにしませんか。あとは特捜部の刑事たちが勝手に内部調査で暴き出すのを待つだけで」
「何を弱気なことを言うておる、サクタロウ。鑑定はまだ終わっておらんぞ」
如月さんは僕の懇願を冷たく切り捨て、ブレザーの袖口を優雅に整えた。
「特捜部の連中は、いまだにアクセスログの空白というデジタルの迷宮に囚われたままじゃ。彼らが物理的ハッキングの可能性に気づき、内部の上層部を疑い始めるまでにはまだ時間がかかる。その間に犯人は残りの証拠を完全に隠滅し、特捜部の捜査そのものを権力で握り潰すじゃろう」
「じゃあ、僕たちにこれ以上何ができるって言うんですか。警察に乗り込んで、お前たちが犯人だろうって突きつけるわけにもいかないじゃないですか」
「だからこそ、お主の得意分野の出番じゃと言うておるじゃろうが」
如月さんは僕に向かって、美しい指先を突き出した。
「犯人は監視カメラの映像に干渉し、自らの犯行の時間を隠蔽した。じゃが、完璧な改ざんなどこの世に存在せん。映像をループさせたにせよ差し替えたにせよ、必ずデータの継ぎ目には不自然なノイズが生じる。犯人が隠したかった泥臭い物理工作の時間。すなわち、空白の数分間がな」
僕は彼女の意図を瞬時に理解し、息を呑んだ。
「僕に、警視庁の監視カメラの映像データにアクセスして、その改ざんされた空白の時間を見つけ出せって言うんですか。そんなの、見つかったらサイバー犯罪で本当に逮捕されますよ」
「案ずるな。じいじの権限を利用して構築したバックドアのパスワードを、後でお主に教えてやる。如月コンツェルンの暗号化通信を経由すれば、警視庁の特捜部ごときに逆探知されることは絶対にない。お主は安全な自室のパソコンから、ただ特捜部が見落としている不自然な映像の継ぎ目を探し出せばよいだけじゃ」
如月さんのアメジストの瞳は、決して揺るがない絶対の自信に満ちていた。
彼女にとって警察の上層部が犯人であるという社会的な驚愕も、権力に睨まれる恐怖も、すべてはルーツ解明の副産物に過ぎない。彼女が求めているのは、自分の論理が現実のデータと寸分違わず一致するという、極上の数学的証明だけだ。
そのためなら、僕というちっぽけな助手をサイバー犯罪のすれすれに放り込むことすら躊躇しない。
「分かりましたよ。やります。やればいいんでしょ。でも、もし捕まったら絶対に如月コンツェルンの力でもみ消してくださいよ」
僕は半ばヤケクソ気味に吐き捨て、車の窓から夜のスマートシティの空を見上げた。
無機質な高層ビルの間を縫うように、幾何学的なネオンの光が流れていく。僕の平穏な日常は完全に崩れ去り、警察内部の権力者という巨大な敵との、電子と論理の攻防戦へと足を踏み入れてしまった。
ただの青いスーパーボールが導いた、物理と電子の死角を突く泥臭いトリック。僕は自宅の団地に戻り次第、地下アイドルへの推し活の時間をすべて削って、警視庁の監視カメラが隠蔽した空白の時間を暴き出すための検索に没頭することになる。
孤高の天才少女の知的な飢餓感を満たすため、忠犬たる僕の長く胃の痛くなる夜が、今まさに始まろうとしていた。




